>>29
逃げるのは御勝手に

>>30
> 無駄にしかならないから、以後はその様なダラダラ言い逃れは無視するね?

逃げるのはどうぞご自由に

> キミ自身に、そのダラダラ文言が言い逃れでしかない、という自覚が有るのも判ってるんで、

そう決め付ける根拠は?
そのように決め付ける根拠すら提示できないなら、あなたの言っていることは議論上であまり意味がない発言です
いずれにせよ今のところ>>25>>28に反論がないというのが明白な事実ですね

>  それだ可能というのならば、やってご覧な?」と訊いています。

これについて、既に>>28
この場合の「可能である」というのは、そのような枠組みが人類史上存在し得るという意味になりますが、存在の可能性を必ず阻害する要素が普遍に存在するというならその存在の立証はあなたのお仕事です
と、可能性の存在を必ず阻害する要素が普遍に存在することをあなたが立証できなければ、可能性は存在すると考えるべきだ、
という風に反論していますね
あなたからの再反論は無いようです^^

> 勿論、キミが苦しい言い訳として 状 況 証 拠 で し か な い ⇒「苦痛概念の記号表現が無ければ、苦痛を感じてるとは言えない」を、
> 生体システムの同一性という 物 的 証 拠 よりも重い証拠となる、と言い張ってるだけなのは誰の目にも明らかなので、そんな言い訳はそれが出来ないと認めたのと同じだよねw

これについては>>25
[仮に「苦痛の有無」が種差別の線引き条件になるとしてさえ、その線引きは枠組みを超えた普遍的なものとしては為され得ない]
と言っています
1・「苦痛」の意味が枠組みによって異なる以上、「痛覚刺激の伝達があっても苦痛概念が存在しなければ苦痛があるといえない」という枠組みは存在可能
2・刺激の神経伝達の物的証拠は苦痛概念の物的証拠とイコールではない
3・この枠組みにとって「苦痛」の物的証拠といえるのは「苦痛概念の存在についての物的証拠」という意味になる
4・従って、この枠組みでは刺激の神経伝達の物的証拠はこの枠組みにおける「苦痛」の物的証拠にはなり得ない、

と既に反論済み
こちらにもあなたからの再反論は無いようです^^

> キミは、キミよりも暴力に優れた者に暴力を振るわれても、それを「悪い事ではない」と言えるのかどうか?を答えてご覧な?
> 少し考えれば、少なくとも「苦痛」に関する規範倫理は一元化されざるを得ない、という事が判るからw

こちらは>>28
他所の枠組みでたまさか俺に苦痛を与えることが許容されることと、俺の枠組みがそれを許容しないことは矛盾なく両立可能ですが?
と、善悪は枠組みによるものであり、異なる枠組み同士の間で同一の事象に対する異なる倫理的評価が矛盾なく両立可能である、すなわち必ずしも一元化される理由がない、と反論しています
これにもあなたからの再反論は無いようです^^