>>27
> 私が何度も何度も、種差別撤廃や、vegan=倫理菜食に関しては「形而下の、規範倫理でなければ、形而上・メタ倫理に逃げ込んだところで意味が無い」と言ってるのは、

規範倫理が普遍的たり得ないと言っています

> 彼等vegan等が基本的に功利主義で説明可能な論拠に則っているから、です。

功利主義が普遍的な倫理となり得るといえません

>  「 苦 痛 を 感 じ る 者 に は 、 そ れ を 感 じ さ せ な い 方 が 、 よ り 善 い 」 というのは、

これも普遍的な倫理となりません

> それを否定すれば、自身もまた、自身より暴力武力或いは知力等に優れる者によって暴力を与えられる事を「それは善くない」と否定出来なくなる事から、自明の事となります。

異なる枠組み同士の間で同一の事象に対する異なる倫理的評価が矛盾なく両立可能です

> それが彼以外のヒトであっても、動物相手であっても、 基 本 的 に は 同じ原理原則となります。

なりません

> ハイ、これが「枠組みによって変わらない」⇒「普遍的正邪の判断基準」=規範倫理ですね。

枠組みを超越できていない、単にある特定の枠組み内で通用する規範倫理であるに過ぎないことを否定できていません

>  物 的 証 拠 を必死に「無かった事」にして、「言語による苦痛概念の表現有無」という、「虚偽証言」の可能性が排除出来ない 状 況 証 拠 の み に頼った
> 「動物には苦痛概念があるは言えない」という朧げな論拠に縋り付かざるを得ない、というワケです。

既に>>25に書いた通り
1・「苦痛」の意味が枠組みによって異なる以上、「痛覚刺激の伝達があっても苦痛概念が存在しなければ苦痛があるといえない」という枠組みは存在可能
2・刺激の神経伝達の物的証拠は苦痛概念の物的証拠とイコールではない
3・この枠組みにとって「苦痛」の物的証拠といえるのは「苦痛概念の存在についての物的証拠」という意味になる
4・従って、この枠組みでは刺激の神経伝達の物的証拠はこの枠組みにおける「苦痛」の物的証拠にはなり得ない、

と言っています

> そしてそれが非常に朧な論拠である事をも辛うじて分ってる彼は、それによる自身の立場を守る為に、形而上概念・メタ倫理を逃げ道として援用しなければなりません・・・

ある規範倫理が普遍かどうかを調べるためにはメタ倫理に言及せざるを得ませんし、それを棚上げしてある規範倫理を普遍だと主張するのであれば、それは単なる低次の(メタ以前の次元での)ドグマティズムに過ぎず、単なる個人的な信仰や信念の類いでしかありません

> しかしながら、 < A > の 状 況 には、逃げられない家畜の苦痛と同様、それを感じる主体(この場合、もちろん「概念」クン♪)にとってそこで受ける苦痛と、
> その苦痛を受ける事への倫理的判断は、 誰 に と っ て も 、 形 而 下 且つ、 規 範 倫 理 の 対 象 としかナリマセン♪

< A >が何を指すのか知りませんが、
ある主体が受ける苦痛とそれを受けることへの倫理的判断が規範倫理の対象となるとしても、
その規範倫理が枠組みを超えた普遍的な形で記述可能なものであることにはなりません
つまり枠組みを超えた普遍的なな規範倫理が成立するとはいえません