>>188
> それ以外の基準として出してるのは「恣意で決まる」なので、これは形而下で倫理のハナシをする場合、最初から議論を放棄してると同様だから、意味が無いよね。

え?なんで?
種差別撤廃論者の主張も特に普遍的なものでなく恣意的なものであるということと
彼らと別の特定の枠組みでそれが受け入れられるかどうか、受け入れられるとすればその余地はどのように見出だせるか、あるいは受け入れられないとしたらその阻害要因はどのようなものであるかは別の議論で
前者は後者の前提ではあるが後者の議論を妨げないよね

> 形而下での生体システム同一性を根拠に出来ず、動物の苦痛を認めないと言い張るならば、人間に関しても、それが事実であるとの証明は、形而上では不可能なので、意味がアリマセン。

生体システムの同一性と抽象概念の同一性に因果関係は未検証
未検証のものを「あると信じたい」というのは科学的ではない

> 動物での形而下証拠を否定するならば、当然キミの縋る↑も  言  え  な  い  。

抽象概念を記号化していることは形而下で再現性のある検証がされています
科学の手法は帰納だから未検証のものを「信じたい」という話とは全く違うよ

> キミは自分の都合に合わせて形而下と形而上のハナシをブレンドしてるんだけど、それすら分らないままなんだなw

ブレンドしてないが
むしろ未検証のものを「信じたい」という君の態度の方が形而下についての科学的判断である「である論」と形而上的な「べき論」をブレンドしてるんじゃないか?

> ならば 「 人 間 も 同 じ 」 。「記号表現」が事実苦痛を基に為されてるのか、キミを騙す為の芝居なのか、どうやって判別するのか?説明してみて?w

「苦痛」という記号が表す範囲がキャベツやコタツを含まないということは、その記号の抽象概念が一定の範囲に収束しているということ
そのことは言語コミュニケーションの成立という歴史上の膨大な検証から帰納的に確認される
「苦痛」という記号が再現性をもって有効に一定の範囲の抽象概念を表すように用いられている事実が検証されているとき、
当然そこにその記号に対応する抽象概念がある
「苦痛」という記号を用いる者が記号に対応する概念を持っているということは、それが芝居であるかどうかと関係なく明らかだよね
逆にいえば芝居であるかどうかは、別に「苦痛」という記号を用いる者がそれに対応する抽象概念を持ってることを妨げるものじゃない

> 先に書いたのと同じ返事。浅ましい逃げ口上だねえぇ・・・w

そういうレッテル貼りに何か意味があると思ってるのか?
逃げ口上だと主張するなら逃げ口上であることを論証してくれよ
> これも同上。言い逃れのミルフィーユw

同上
そんなことより
痛覚という命名の問題でなく、「苦痛という概念」が人間以外の動物に再現性のある形で検証された、という事実を知ってるなら詳細を教えてくれ

> 話が逸れてる。私がそこで訊いたのは「概念」が「必須となる理由」だ。私は「苦痛だけいい筈」と考えてるが、 概 念 が必須である理由はなんだ?

動物に苦痛が存在する、というとき
その生体システム上での物理的な現象が存在するとなぜ人間同様の扱いをすべきという倫理判断が導出されるのか不明だからだな
「同一であれば扱いを区別できない、ゆえに同様の扱いが為される」が正しいとしても、これは「同一でなければその限りではない」を否定していない
つまり「動物が人間と同一であれば扱いを区別できない、ゆえに同様の扱いが為される」が正しいとしても「動物が人間と同一でなければその限りではない」のだから
いま「人間と動物について生体システムは同一であっても概念の有無において同一でない」のであるなら畢竟「人間と動物は同一でない」のだから
「同様の扱いが為される」ことは導出できない