>>770
「苦痛を感じているかどうか」を「食べるかどうか」の判断理由にしているということと、その判断理由自体の真偽は別の話
これは分かるよね?
そして判断理由が真といえないなら、それは判断理由として正しく機能しない
このことを指して「理由にならないことを理由にしている」といっている

> あなたが仰っているのは「植物は苦痛を感じている。だから食べる。」は食べる理由とできるが、「植物は苦痛を感じない。だから食べる。」は食べる理由とできない。ということなのですか?

[「苦痛を感じているかどうか」を「食べるかどうか」の判断理由にしている]ということについて言っている
これは要するに
・「植物は苦痛を感じている。だから食べる。」というなら「苦痛を感じていないものは食べない。」を伴い、
・「植物は苦痛を感じていない。だから食べる。」というなら「苦痛を感じているものは食べない」という判断が伴う
ということ
いずれにせよ、食べるかどうかの理由にしている「植物は苦痛を感じている(あるいは、感じていない)」が客観的真実であるのか、単なる主観的印象なのか、という話をしている

> 植物は苦痛を感じないという主観は食べる理由とできないのでしたら「主観は全て食べる理由にできない」ということなのでしょうか?

そんなことは言っていない
食べるか食べないかの判断理由は「植物は苦痛を客観的真実として苦痛を感じない」であるのか「主観的には植物は苦痛を感じていないように見える」であるのか、
両者には違いがあるよ、と言っている
質問するならこっちの言っていることについて質問してくれ