>>130
別に昔の話はしていないが。
>>124>>123が問うているにもかかわらず「苦痛」という語の意味を曖昧にしたままだが、>>123が「人間と同じ意味での苦痛」と言っており、>>124がそれに対して「人間や動物は」と並記しているのでこの意味だと仮定して述べる。
また>>124の「人間や動物は苦痛を感じるという前提で明記されてる」というのを虚偽でなく真実と仮定して述べる。

で、人間にとってと同じ意味での苦痛が生じていると確認できていないから、植物同様に、人間にとってと同じ意味での苦痛はあり得るにせよ現時点ではあるとは言えないというのが科学的な推測のはずだが、
にもかかわらず「人間や動物は苦痛を感じるという前提で明記されてる」とするならば、科学的事実とその前提には飛躍があるということになる。
これは論理的に明白だ。
で、前提が「明記されている」ということはそれは社会的な取り決めであり、社会的に取り決めるというのは間-主観的な合意の顕現化であるが、この合意は必ずしも科学に担保されるものではない。
科学の進歩以前から合意が社会的に形成されている例は無数にあり、例えば動物の擬人化はアニミズムから神話や物語に至るまで科学の進歩を待たずに通時的に共有されてきたわけで、それは現代でもなお無数に確認することができる。
こういった合意が間-主観的なものであるというのは、それは個々の主観同士の複合的な作用により形成されているということで、
個々の主観というのはそれを形成するに至る認識主体に映り込む様々な事象の複合的な要因に還元されなければならないのだから、
間-主観的な合意という結果はその原因を一対一的に何らかの要素に還元することはできず、原因は個々の主観に影響を及ぼす無数の要素ということになる。
そこにはもちろん科学の進歩に伴う発見なども含まれるにせよ、科学が根拠となっていると規定するならばそれはあまりにも無数のものを捨象しすぎている。
合理的な理由が説明されるのであれば捨象することに問題は無いが、捨象することについての合理的な説明が無いならば、の主張は論理的なものとはいえない。
そして、その捨象が何一つできないならば、それは原因を絞り込むことがまるでかなわないということだ。
この間-主観的な合意の原因をそれ以前の第一次的な主観の形成に還元することができないならば、遡及できる最初の原因は必然的に複数の主観の存在による間-主観的な合意であり、それ以上に分割して論じることに意味が無いことになる。
この、それ以上に分割して論じる意味の無い合意を通時的に見たものが慣習だ。