>>309
何度も言っていますが、ボクが主張しているのは「偏見を持った人間が現れる懸念」であり、貴方の文言はそれを「否定できない」ということ。
偏見を持った人間の解釈が合理、不合理とかはどうでもいい論点です。
ボクの解釈も何度も言っていますが「貴方の文言は合理」でしょうがどうでもいい話です。
そんなことが「偏見を持った人間が現れる」ことの否定にはなりませんから。
後、「飛躍解釈」の話も何度も言っていますが、「雨→カレー」ということではなく、貴方の文言で可能である多様解釈の範囲内での話です。
後押しスレ>>205>>221辺りで言っています。

医者の話ですが、
可能性だろうが、蓋然性だろうが、
貴方の論理ならば医者も患者も「可能性がないを捨象しなくては、可能性があることを選べない」ということであり、
「膨大なデータ」というものが100%のものであるなら別ですが、100%で無いものを選択するという考えは、医者も、患者も「恣意」で選んだということになります。
恣意だからこそ手術には同意を求めるのでしょう。
例えばその「西洋医学的な蓋然性は根拠」となるのであれば、東洋医学的な蓋然性は根拠とも言え、「一般的、社会的な解釈」つまり「文化」のようなものの解釈であるようなものも一つの「合理」です。
貴方がその「合理」を捨象する必要はありません。
このいわゆる多様解釈は「言葉」があるからそれが生まれないのではありません。
コミュニティツールだからこそ多様解釈が生まれてしまうのです。
それを止めるのは不可能ではありませんよ。
「一様な解釈しかできないような文言にする」か「文言を提示しないか」です。
文言を提示しなければ「解釈」さえ生まれません。
それをおすすめします。