>>71
> 知的その他障害で意識はあっても意思の疎通が取れない(困難な)人の場合について、
> 意思の疎通が取れる人と比べて感じる痛みが大きく異なるとは思いません。
> 人間と類人猿でも多少の差があったとしても痛みの感じ方に大きな違いがあるとは思っていません。
> その理由について、言語の担保(*)によるものではなく脳、神経、その他、
> 体の構造が人に酷似していることによると思っています。

そのように想像することはできるが、我々が我々の言語において「痛み」という抽象概念に収束させるようなクオリアが彼らに生じていると言える、ということにはならない。
あくまで想像することに留まるのみ。
そして、これらの問題は実際に彼らが「痛み」と呼べるものを感じているかどうかよりも、どう解釈したほうが社会の倫理観にかなうかという側面から扱われているのでは?

多少論点がずれるが、仮に意思の疎通が困難な相手でも人間であれば人間らしく扱うということが倫理的で、実際上の「痛み」の有無によらず「痛いものとして扱うべきである」とされている、というのが正直なところではないだろうか?
こういった例は、仮に無痛症の人であれば殴っても構わないかとか、死体であれば蹴飛ばしても構わないかといったことで容易に示すことができる。
話を戻すと「彼らが痛みを感じているから、意思の疎通ができなくとも痛いとして扱うのではない」、「実際の痛みの有無に関係なく、そう扱うべきと判断する文化的価値観があるからそのように判断する」ということ。
要するに「そういう文化だ」ということ。
ついでにこれを食文化に還元すると、これは各々の文化において何を食べるか食べないかという価値観があるだけで、
「痛みの有無に還元されて、食べるべきかどうか判断されているわけではない」「実際の痛みの有無に関係なく、文化によって食べるものとそうでないものが判断されるだけ」、ということになる。

> (*)人類と類人猿との間で手話言語によるかなり高度なやり取りをした例があります。

どのようなやり取りがあったのか知りませんが、彼らと抽象概念を用いた十分なコミュニケーションが可能になれば
(彼らとの間に共通の言語様のものが成立し、それを用いて互いのクオリアを抽象化したり、抽象化された相手のクオリアを自分の主観に再現的に展開できる程度のコミュニケーションが可能になれば)、
いずれ彼らが我々と同じ範囲の意味に収束する「痛み」のクオリアを持っていることが確かめられるかもしれませんし、いずれは他の動物や植物についても確かめられるかもしれません。
逆に言えばそれまでこの議論は決着しないでしょう。
この意味でも動物と植物を「痛み」の点から区別するのは難しいでしょうね。「『痛み』の有無に還元して食べるものとそうでないものを区別する」というのはやはり無理があるのではないかと思います。