>>50
そうだね。
で、人間は言語を共有している。
あなたも私も「痛み」という言葉を知っているし、外国にもそれにあたる言葉がある。
その言葉で各人の「痛み」のクオリアは共有することはできないとしても、「痛み」という語は共有することができる。

実際には我々は個々のクオリアとしての意味を言語に投影して会話なり文章なりを作る。そして会話や文章のやり取りの中でその語の社会的な用法を学んだり慮ったりしながら、語の意味をより公共性のあるらしい方向に修正したりする。
そうやって「痛み」という語自体がどういった概念を指すかということが共同体において一定の範囲に収束していく。これが言語の社会的な意味ということになる。

そうやって語の意味を一定の範囲の概念に定め、今度はその社会的な意味での言語を連ねて、より自分のクオリアに近いらしいものを構築し表現していく。

こういったことが我々の言語活動において行われていて、要するに我々は言語を介して、他者との交流における認識の誤差を一定の範囲に収めようとしているわけだ。
言語を介して互いにその誤差を互いに一定の範囲に納めようとすることが、言語コミュニケーションの持つ性質であるから、そこにおいて我々は会話が成立するということの信頼性を期待する。
この意味では、言語が、コミュニケーションが成立することの信頼性の有力な担保だということだ。
無論、信頼性を担保するのが言語だけだというわけではないが。
しかし、いずれにせよ我々にとって信頼性の担保に差があるのだとしたら、
全ての動物が我々と同じように痛みを感じ、意味付け、考えているだろうということよりも、
他の動物はともかく同じ人間であるならば、同じように痛みを感じ、意味付け、考えているだろうということの方が確かさが大きいのは当然だろう。

ここにおいて、人間同士でも互いの痛みは分かるまい、ということと、動物が人間と同じ意味で痛みを感じているとはいえない、ということの間には明確な違いが示される。

ってことで、>>50>>49への十分な反論にならないということになりますね。