>>100
> 行動や物理変化が同一なら法則や心理を措定するのが、統一理論を信頼する科学や心理学の態度だけど

措定といっても、例えば人間が多くの場合に共通して特定の刺激を苦痛と感じる(その苦痛の中身が同一でなくとも「苦痛」という概念に収束するような認識を得る)ことには膨大な検証があって、
同じ刺激から同時に起こる機械的な変化との相関関係という措定はある程度の確度をもって真であると信じられているわけだが、
それですら、その苦痛とされる中身が普遍化できない、少なくとも普遍化できるといえないことは認めざるを得ないわけで、
これは詳細に見れば、刺激による機械的な変化と相関して何らかの心的変化が生ずることが真だとしても、その心的変化が何であるかは不確かだということだが、
その心的変化の内容については個々の主体が先の「苦痛」という語に収束する個別の特殊的な概念を、まさに「苦痛」という語に収束させることそのものに担保されて初めて、
それが何であるにせよそこに少なくとも「苦痛」という語に収束するであろう概念があるのだということが確かめられるのだから、

動物が「苦痛」という語に相当する記号を提示しそこに何らかの概念を収束させていることが明らかでなければ、彼らにそのような抽象概念があることは少なくとも人間についてするのと同じようには確かめられない。
その記号というのは、まず言うまでもなく表し手と受け手に共有されていなければならないし、次にその存在を客観的事実として述べるためには再現性のあるやり方で提示しなければならない。
そして、現時点でこのような意味でそのような記号が動物に存在していることは検証されていないのだから、このことは「苦痛」についての人間に対する措定と動物に対する措定の前提の明確な差違であり、
人間においての「苦痛」の有無と、動物においてのそれの有無を、刺激に起因する機械的反応の類似から同様に措定できるとすることに飛躍があるということを意味するのではないだろうか。

> もはや科学的世界観への挑戦になるんだろうが、

というよりは人間が自然に挑むときの科学からの「それは(少なくとも、まだ)科学の分野ではないですよ」という通告であり、この議論の論点から言えば「動物や植物に苦痛があるか無いかを機械的反応から判断するというのは、今のところ無理がある」ということだと思うのだが。
無論、機械的変化を調べることには学術的に相応の意味があるだろうし、将来的に動物の記号表現の存在とその解読が明らかになったときには人間と動物の扱いの差違が縮まることは想像できる。
しかし、こと科学的という意味でいえば、現在そのように判断するのは拙速な飛躍だということにならないだろうか?

> 畜産業ではスタンニングで気絶させるし、植物も苦痛が無い方法で刈り取るなら、人間にとり何が不満なんだろう

苦痛が無ければ無いで、人を殺していいのかというような倫理観を、無根拠にあるいは薄弱な根拠から恣意的に喚き立てることは想像に難くないよ。