都の西北、早稲田。学生でにぎわう学究の街だ。
そんな街の路地裏で今日も小さな店に灯りがともる。

店の名は「割烹 とし」

「いらっしゃいませ。」

暖簾をくぐると店の大将、出山利三さん(63)が割烹着姿で出迎えてくれた。

「実は私も昔はバンドのボーカルだったんですよ。」

女将はお燗をつけながら笑顔で語りだす。

「あの頃は夢がありましたね。自分の研究で世界中を幸せにするんだって。」

聞けば彼女は博士号を持つバリバリの「リケジョ」だったそうだ。
専攻は再生医学、日本有数の研究機関で実験三昧の毎日を過ごしていた。

そんな彼女に転機が訪れたのは30歳の頃。

学会では存在すら疑われていた「万能細胞」なる物の精製に成功したのだ。
発表と同時に話題となり、マスコミにも取り上げられたという。

「でも、それがボタンの掛け違えの始まりでした。」

遠い目をする彼女、手に持ったお燗用の三角フラスコがかすかに震える。
発表を急ぐあまり生じた論文上の些細なミス。「神業」なるが故に誰も再現できなかった実験結果。

遂には「捏造」と決めつけられ、彼女は研究者としての未来を失った。

「だけど、おかげで気づくことができました。名誉や地位なんかよりも大事なものがあるって。」

学会から身を引いた彼女が見つけた幸せ、それは一人でも多くの人を笑顔にすること。
そう思って始めたのがこの店だという。

「実は私にとってはこの店も研究の成果なんですよ。」

研究に未練はないんですか?そう尋ねた私に乳鉢を出しながら彼女は言った。

「だって、この店の食材は全部万能細胞で出来てるんですから・・・」

伸ばしかけた箸が止まる。

そんな私を悪戯っぽい目で眺めながら、女将はお猪口代わりのビーカーにお酒を注いでくれた。