>>397
> 人の幸せの定義と、神の幸せの定義が違っているのが混乱を招くのかしら?

おっしゃる通りです。
自分が受け取ってどう思うか、大事なことですね。
お釈迦様は文章にすると間違って解釈されることがある為、メモをしてはいけないと言っていたそうで教えは全て口頭で、初めて文献が出来たのは没後100年以上経ってからです。
そこから色んな論争が始まって沢山の宗派が出来ました。
まさに伝言ゲームのように教えの解釈が異なっていったんですね。

生前、弟子が論争になったときには両者が納得する答えを出して「互いに納得する答えが出せたなら争いにはならない」と言ったそうです。
お互いに納得出来る答えを出すには私ではまだまだ勉強不足でした^^;

ちなみに本の抜粋なんですが...
「解脱を得て煩悩を捨て去ると、強烈でやむことのない幸福感に包まれる。」
「この喜びが溢れ出す特殊な感覚を経験すると、かつて煩悩にとらわれて感じていた現世の些細な喜びなど、とるにたらない哀れなものにしか思えなくなる。」
「さらに、この真の自由がもたらす幸福感の絶頂を体験すると、自己は個々に揺るぎなく存在しているのではなく、あらゆるものとの相互関係にあり、果てしなくどこまでもつらなり合っているものだったことを理解できる。無や消滅への渇望から解放されると、後に残るのは、数限りない他の有情(命あるもの)との関係の中に位置づけられた一人一人の運命だ。」
「そう悟ると、自分の幸福を他の有情と分け合い、どこまでも愛情をあふれさせたいという気持ちになる。また、そうしたところで、自分が到達した至福と解脱の感覚と一体化した究極のニルヴァーナが揺らぐことは全くない。」
そして、すべての生命を苦から救おうとまた生まれてきます。
無は全てが消えて無くなる消滅とは違うので、生きることが無意味にはならないのではないかなーとは思ってます。

いつも皆様が言いたかっただろう事を汲み取って優しくまとめて下さるので本当に尊敬しています。
ありがとうございます^^