狂った世の中と物質文明
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人間の精神性については、子々孫々へ文字や画像で残した情報として延々と伝達されます。
この精神文明には限界はなく、幾らでも高みへ上昇する事が可能です。
その為には人間は利己心(エゴ)では無く、利他心(エバァ)と言う道徳心を持つ必要があります。
物質主義の科学万能の考え方から、精神性を重視した生命を大切にする時代になる事が求められます 『プレアデス星訪問記』 上平剛史 (たま出版)
2009年3月25日発行
今の段階では、人々の意識改革が重要であり、これらの情報を耳にタコができるほど言い続けることです。
地球の社会・経済制度はベストでもベターでもないと理解させることです。
宇宙太子「地球人類が滅亡へ向かう根本原因は、社会の基本に貨幣制度を敷き、競争社会を造っていることです。
我々の社会は貨幣経済は存在しません。貨幣がなくても、『必要な人が、必要な物を、必要な時に、必要な分だ
け受けられる社会』が確立されています。『真に平等で平和な社会』です。従って、地球人類が『真に平等で
平和な社会』を心から願うのであれば、現在の貨幣経済から一日も早く脱却しなければならないでしょう。
法律により競争制になっているのなら、その法律を廃止しなければなりません。我々の社会では、『万人の人間
はすべて平等な生活を営めるものでなければならない』というのが基本です。『全体に奉仕することで自分も幸
せになる』という、『平等の基本』があるのみです。従って、争いや戦争はありません。」(p60〜p61)
パトリア「地球人類は学問的知識を覚えるのに、専ら暗記力に頼るようですが、我々の社会ではそのような苦労
はしません。(中略)脳に記憶を植え付け、脳に知識をレコーディングしていきます。年齢別のレコ−ディング
の種類、量も決められています。その為に、図書館にはあらゆる分野の知識が詰まったチップが揃っています。
チップをレコーディングマシンに嵌めて、知識を脳に流し込んでやるだけで、物理なら物理の知識が記憶されます。
(中略)やがて、普通課程をこなしながら、得意分野を深く学び、将来はその分野で社会に奉仕するわけです。
得意分野には飛び級があり、自分の能力に合わせて進んでいけます。」(p121) 『魂の法則』より引用。
*働くとしたらですが、人びとは何に従事するのですか。
大多数の人は公益のために、教育や科学・テクノロジーの研究に従事し、全地域の全住人の生活レベル
を可能な限り改善させ、個人と集団の霊性進化を促進させようとしている。
第一産業と第二産業、つまり農業と工業で一番負担となる労働は完全に自動化されており、専門家の仕事
は生産過程を監督することとなる。一日の労働時間は君たちの惑星よりもずっと短いが、不快な仕事に就く
者も才能が活かされていない者もいないので、ずっと生産的だ。また、自分の仕事で公共の福祉に貢献す
るのが皆の喜びなので、他人に食べさせてもらうような怠け者は一人もいない。さらに、社会形態自体が
製品を宣伝する必要がないので、地球に存在する売買に関わる販売業や広告業などの特定の職業は存在
しない。必要とされるものだけが生産され、もっと多くまたは少なく消費しろとプレッシャーをかけられることもなく、
各人が相応分を取る。
結果として流行は存在しないので、消費の傾向が気ままに変わることはなく、住人の健康や内的・外的な健全性
が向上するより良い製品ができた時だけに変わることになる。余計な活動を取り除けば、個人としても物質的・
破壊的で利己主義な活動に従う必要がなくなるので、世の中は、テクノロジーにおいても霊性においても急速に
進歩できるのだ。
*説明を聞く限りでは、地球上の複数の国での共産主義または社会主義の経済システムに似ているようです。
幾つかの点においては確かにそうだ。
*でもこのシステムは、地球では完全な失敗に終わったのです。
社会主義を導入した地上の国々では、暴力でそれを強行し、精神的な概念がなく物質面だけに
基づいていたことを考慮すべきだ。その一見した集団性にも関わらず、実際には、不平等を生み
出す基となる各人の我欲が、自己のイデオロギーを他者に押しつける優勢な階層を出現させていたのだ。
社会主義が本物となり機能するためは、物質面だけでなく精神面でもそうする必要があり、各自が納得し
て採り入れなければならない。君たちの世界で起こったように、力づくでの強制によってではいけないのだ。
つまり、各人の心から我欲を根絶して愛に置き換えなければならず、そうして初めて、内面の変化の論理的
な結果として、集団レベルでの物的な変化が自然に現れるのだ。地上の利己的・物質的で無神論な社会主義
に対して、これらの世界では「精神的社会主義」と呼べる生き方をしている。
*それで、政府のシステムはどのようになっていますか。民主制や共和制や王制などなのでしょうか。
これらの名称ではどれも適切に定義をすることができない。これは、最も進化した者たちの政府なのだ。叡智
と愛において一番能力のある者に、最も責任を与えるのだ。
*地上に、それと似たような政府がありますか。
一番似ているのは、長老会議を行うアメリカンインディアンの部族のものだ。
*統治者はどのように選ばれるのですか。
それは各惑星で異なる。通常は、様々な分野の代表者からなる色々な審議会があって、その中での理事の投票
によって調整役を決める。この調整役は交代制であったり、任期が長期に及ぶなど、惑星により様々だ。 エゴ(EGOH)からエヴァ(EVAH)へ 地球が変わる・人類が変わる 船井幸雄 著 1995年10月25日PHP研究所発行
足立郁朗さんが、宇宙のすぐれた知性的存在から教えられた言葉。
エゴ(EGOH)とは、ある惑星の住人の集合意識が、「エゴ、対立、競争」をベースにしている社会。
それに対してエヴァ(EVAH)とは、集合意識が「愛・調和・互恵」をベースにしている社会ということを、船井氏に伝えてくれたそうです。
競争は善と考えるのは、エントロピーは増大すると考えるのと同じくらい、地球上のある時期、ある場に条件を限定したルールで、
マクロに世の中全体の諸現象から考察すれば、まちがっていると考えた方がよさそうだとも述べています EM―Xの琉球大学の比嘉照夫教授は、「人間も自然も競争より協調した方が、はるかに効率的に生きられ成長できます。
たとえば、人は学び知ることにより成長します。競争社会では、自分が学び知ったことはまず学会で発表するとか、
特許権など権利で保護されないと、他人には教えたがりません。」と船井さんに話しています。 人間の意識レベルが高まり、社会制度が変われば、競争を考えなくてもより社会も可能です。
日米欧などの企業社会の第一線もしくは世の中の正しいルールでは、すでに「競争は善」ではなく、「競争は悪」という考え方が21世紀の社会では定着しはじめています。
「地球村」(永続可能な社会)の基本理念
非対立(謙虚、調和)
・ 抗議しない、要求しない、責めない、決めつけない、主義主張しない
・ 事実実態を伝える、具体的な提言をする
・ よく聞く、理解する、共に考える、気づくまで待つ など
実践
・ 気づくチャンスをつくる、気づく邪魔をしない
・ 簡単にできることから始める、無理をしない
・ 自分の実践を通じて伝える、押し付けない
・ 自分が変わることで周りが変わり、社会が変わる など
世の中には奇跡やフシギはないはずです。
それらの現象も「意識や意思を含めてすべては波動であり、エネルギー存在である」と考えるとすぐに説明がつき、理解でき納得できます。 この物質文明の競争社会では
学校や会社でも他者を蹴落としてでも上に上がる者が偉いとされ
上に上がれなかった者は人生の落伍者のような扱いを受け金銭的に貧しい生活を送るのです 確かに利己的で他者との競争が好きな西洋人にはこの文明は合ってるかもしれません
しかし他者との調和を大切にする東洋人 特に日本人には物質文明は合っていないのです いつの世も物質に恵まれ豊かな状況下では人の心は乱れ、他の人や生きている環境への配慮を忘れ慢心し、努力をしなくなり、
手軽に自己の都合だけで生きるようになります。
厳しい自然環境の中で生きるなら、大自然の掟を学んで自然にマナーも身につくのですが、現実はぬるま湯生活。
現代社会がもたらす物質文明の中で、豊かで便利な生活にすっかりと慣らされてしまっている私たちは、直接自分に影響する物質的なものごと、つまり贅沢や利便性のみに敏感になっています。
人よりも劣っているか優位にあるかが、大きな問題になるのです。待遇は気にするけど、仕事で得られる充実感には期待しないのです。成功した地位に憧れるのも、その地位とともに得られる物質的な豊かさが目的とも言えます。
苦労してこそ手にできる充実感や幸せを、知らない世代が増加しているのです。なに不足なく育っているので、
希望もなく、夢もなく、やる気もなく、努力なしで、目の前の快楽が得られればいいという感覚が身についてしまっています どこの家でも思わず一挙に捨てたくなるほど、家の中は使わないモノで溢れています。シンプルライフってどこの話しですか?と言いたくなります。
整理整頓出来る状態ではなく、バザーに出すために買っているようです。膨大な浪費です。
人は辛さを知って、人にやさしくなれます。気配りができるようになります。
豊か過ぎる物質文明の中で不自由なく成長した人々が作り出している社会の状態は、新聞の社会面を見ればよくおわかりでしょう。
わが子に対する信じがたい虐待行為の多発。平気で親を殺す。平気で結婚相手を殺す。
平気で教え子を凌辱する。金の為に人を殺し、万引きを注意すると親が出てきて金さえ払えばいいんだろという態度。人にぶつかっても挨拶もできない。
電車、バスなど、ところかまわず躾の悪い犬のようにモノを喰い、モノを投げ捨て、ゴミは散らかし放題、注意するとキレて殺す始末。
この他、あきれるような事が日常化してきています。
西洋文化を取り入れた弊害です
過去半世紀、躾や作法の教育を忘れた社会は人を確実に野獣化させています。
モノが豊かな社会なのに、人の心は混迷を深めていくばかりです。
お互いにやさしく気配りを持って支えあう心豊かな社会を実現させるために、日本伝統の素晴らしい躾や作法の教育が今こそ必要です いじめ(苛め、虐め、イジメ、英: Bullying)とは、文部科学省の定義においては、
児童の一定の人間関係のある人物から、精神的、物理的な攻撃を受けたことで苦痛を感じていることであり、
国際的には児童に限らず「自尊心を損なわせ弱体化させることを目的とした、執念深い、冷酷な、あるいは悪意のある企てによる、長期に亘って繰り返される不快な行為」である[2]。
いじめ防止対策推進法(平成25年法律第71号)第4条にて、学校に在籍する児童又は生徒の間でのいじめは禁じられており、同法第25条および第26条において、
加害児童等に対する懲戒処分・出席停止についても明記されている 世界保健機関、国際労働機関、国際公務員労組連盟などによれば、いじめとは児童に限らず、
「自尊心を損なわせ弱体化させることを目的とした、執念深い、冷酷な、あるいは悪意のある企てによる、
長期に亘って繰り返される不快な行為」である ある行為が「いじめ」であるかどうかの判定は極めて困難であり、むしろその区別にこだわり過ぎているという指摘もある。
1994年の愛知県西尾市中学生いじめ自殺事件で自殺した生徒の父は「いじめかどうかは重要ではありません。その行為はいじめではない、と言われたら子供だって安心する。
教職員を含めてみんな面倒なことは避けたくて、いじめではないことを心のどこかで望んでいるのかもしれません。
でも本来は、仲間はずれにされたり、傷つけられたり、『ウザい』『キモい』『死ね』とけなされたりする行為そのものが問題なはずです。
定義が曖昧ないじめという言葉は、教委や学校が責任を逃れるための隠れ蓑になっているのではないでしょうか」と語っている また、2005年の丸子実業高校バレーボール部員自殺事件では自殺した生徒の母親が裁判をおこすと、
事実無根で捏造であるとして加害者とされた側も裁判を起こし、判決では生徒の遺族側の主張は退けられた。
新潟県神林村男子中学生自殺事件(2006年)では当時の文部科学省の定義からは認定が難しいとされた。 内藤朝雄によれば、いじめは相手の肉体的・心理的苦痛を快楽的に楽しむことを目的として行われるさまざまな行為であり、
学級など簡単には抜けることのできない集団のなかで、群れた「みんな」の勢いや「自分たちなり」の特殊な秩序を背景として、そのような行為がなされることをいう[8]。
内藤は「人間関係が濃厚すぎる集団内において生じる欠如を埋めようとする偽りの全能感」としていじめの理論化を行った 教育社会学者の藤田英典も(学校での)いじめを次の4つに分類し、多くのいじめに対する言説が
その特性の相違点を考慮していない点を批判している[14]。
モラルの低下・混乱によるもの。1980年代中ごろに頻発したタイプで、被害者が偶発的に決定されるところに特徴がある。
一種のモラル・パニックや集団ヒステリーといえる。
社会的偏見・差別による排除的なもの。1のケースと比較するといじめの対象となった理由(特定の社会的属性を持っていたということ)は明瞭であり、
差別意識自体を取り除く指導をすることがこの種のいじめの対策となる。
閉鎖的な集団内で特定の個人に対して発生するもの。教師など外部から実態が把握しにくいぶん、対策は難しくなる。
特定の個人への暴行・恐喝を反復するもの。3のケースと違って、加害者と被害者の属するグループは異なる場合が多い。
不良が下級生からカツアゲするといったものが典型的なもので、認知されやすい。 日本のいじめは特に1985年(昭和60年)ごろから陰湿化した校内暴力をさすことが多い[16]。
いじめによる暴行で重篤な場合は重傷を負わせられる、傷害の結果死に至ったり(山形マット死事件)、強姦されたり
(1996年の旭川女子中学生集団暴行事件)、自殺する例もある(1986年の中野富士見中学いじめ自殺事件)。
また、中学生が5000万円も恐喝によって得たり(名古屋中学生5000万円恐喝事件、2000年)、いわゆる問題児(モンスターチルドレン、不良行為少年)による単純な暴力だけでなく、
使い走り(パシリ)をさせたり、「物を隠す」「第三者の物を隠し、被害者に罪をなすりつける」「交換日記で悪口を書く」
「机に花を置き死亡したことにする」「被害者の名前を隠語にして被害者がききかえしても別人のことをしゃべっているふりをする」といった
「心に対するいじめ」もあり、シカト(無視、仲間外れ)などは水面下で行われることから、教師や周囲が気づかないうちに深刻な事態になりうる 子供に限らず、社会人(モンスター社員、クラッシャー上司)においても暴力そのものやパワーハラスメント、
セクシャルハラスメントといった職場いじめが起こっている。上司が部下に対し、職場で陰謀を巡らし、
「自分が悪い」と誤解させる状況を、故意につくられるような不当労働行為や、
責任をとって辞めさせるような状況をつくる不当解雇もある。 インターネットが普及した現代社会ではネット上におけるいじめ、
ネットいじめも存在する[34]。滝川高校いじめ自殺事件(2007年)では学校裏サイトでいじめが行われていた。
イギリスでもインターネット環境の発達とともにネットいじめが増加している[35]。
アメリカ合衆国、カナダでもネットいじめが深刻化している。 16世紀頃から大航海時代を経て世界に飛躍し、当時から世界の先進地域と自負してきた西欧諸国だが、
それはごく一部の優越的地位にある者の武力による他国侵略と富の奪取、植民地政策によりもたらされた、
優越者だけの経済的繁栄でしかなく、国内体制は君主独裁の封建的な階級社会、大多数の一般庶民は、自由さも土地所有も許されず、
自国内での主生産物は農作物という土地経済の域を出ない農業国で、彼らは君主に従属し、終生、小作農に従事する農奴のような存在、探検家マルコポーロやベニスの商人、バッハやモーツアルトなどといった音楽家や画家、
金や皮革工芸品を手作りする芸術家や職人なども、全て名家に抱えられて主君に奉仕するサーバントでしかなかったのである。 その後17世紀末頃にイギリスに端を発した産業革命が起こり、鉄の精錬技術向上や機械生産が発達して工業立国としての基盤が築かれるようになったのは
18世紀の後半になってからだが、汗して働かずに富を得る資本家と、実際に働き富を生産する労働者との経済的、社会的身分の格差は相変わらず歴然としており、その不満から英国人などが大量に新大陸に移民し、
原住民や既得権益を有する諸国を放逐して1776年に独立建国されたのがアメリカ(国名は、開拓先駆者であったイタリア人アメリコに由来する)である それと同時代の日本はといえば、1603年に全国の戦乱を平定し、その後260年も永続した太平の世を開いた
初代徳川家康の遺志を継いだ江戸幕府の治世時代であり、3代将軍家光の1620〜1650年代には、
鎖国制度で他の外国との交易を断ち、小さな島国の自国内だけの限られた資源と独自の知恵や努力だけで、
他国に武力侵略をすることもなく、既に、豊かで平和な国家、安定した政権が築かれ、とりわけ首都の江戸は、主要5街道や、上・下水道、市街地の性格や用途別街区整理などといったインフラの整備も進み、
その後の歴代将軍の治世においてもこれが引継がれ、農業振興だけでなく商業経済も大いに発展し、コメの先物取引制度も創案され、支配層の武士階級でない農民でも、
「農業は国政の基」と大事にされ、町民の新興財閥も輩出し、面積は40平方キロメートル程度の狭い地域ながらも 人口は百万人にも達するなど高密度に増大して世界一の規模となり、徳川将軍家の世襲制とはいえ、
実質的には老中の集団合議制度による行政が行われ、それでいて、上から下まで礼儀正しく、社会秩序も整然とし、治安もよく、
庶民は貧しくも生き生きとしてよく働き、花見や芝居見物などといった余暇を楽しむ心のゆとりを持ち、精巧な美術工芸品や、茶道や華道といった文化、寺小屋のような庶民教育も進んでいて識字率が高く、
信仰心も厚いなどなど、一部のエリート層だけの経済的豊かさだけでなく、庶民の生活も安定し、安全で安心な暮らしが出来た、物質文明だけでなく精神文明的にも優れていた、知られざる世界の先進国だったのである。 だから初めて来日したスペインの宣教師も、その情景に接して、
「世界の果てのこんな離れ小島の国でありながら、先進性があると自負していた西欧諸国にも優る、
豊かで平和な立派な国があったのか」と驚愕し、他のアジア未開発国とは別格の侮れぬ国だとの報告書を皇帝に提出したという そんな日本であったが、幕末になって黒船来航、開国で諸外国の影響を受けるようになり、
さらに明治維新以降の近代欧風化や、それに続く第2次世界大戦の敗戦後には、すっかり戦勝国アメリカ流に染め替えられ、
その政策や制度から、国家間競争の戦法に到るまで、主体性を持たず、追従と模倣、亜流で良しとなってしまい、挙句に、その狡猾な褒め殺し謀略の罠に嵌められ、
引きずり込まれて、体格の巨大さや体質の強靭さが異なる先進列強国に負けじと背伸びして肩を並べ、グローバル・スタンダードの押し付けも受けて、同じ土俵とルールで真っ向勝負を挑むようになって以来、
日本固有の伝統的な良い国家や政治の体制、企業文化、社会風習、国民の生活態様や価値観まで捨て去り、精神構造まで骨抜きにされてしまい、
全てに狂いが生じ、苦境に陥ってしまった感がある 個の利益や主張が強く、闘争心旺盛で競争の勝敗に拘り、他人を突き飛ばしてでも、
優位に立ちたがる国民性の国では、心のゆとりも幸福感もなく、常にストレスを抱え苛立ち、弱者いじめの卑劣犯や凶悪犯が多く、
これもまた昨今のアメリカや日本の社会のようである。
ゆとりや幸福感は、財物の豊かさだけでは得られず、要は、物心一如しのバランス感覚と、
人間の心の持ち方、意識と価値観の切り換え次第という結論になる。 《いわゆる米英流の生活のしみを洗い去り、皇国本来の国家観に立脚した生活の真義を打ち樹てねばならぬ。
金儲けのための生活、立身出世のための生活、
他人の困苦を顧みず己だけ快楽を得さえすればよいという独楽独善の生活、
精神を忘れ
物に捉われた生活、これらは何れも生活の真義を遠く離れたものである》 サッカー
ベンゲル元名古屋グランパス監督(フランス)
日本人はヨーロッパを美しく誤解している。しかし実際のヨーロッパは全然違う。
日本が東京のような大都会とすれば、ヨーロッパはアフリカのサバンナのようなところだ。
治安が悪いのはもちろんのこと、日本人と比較すればヨーロッパ人の民度は恐ろしく低く、
日本では当たり前に通用する善意や思いやりは全く通じない。
隙あらばだまそうとする奴ばかりだ。
日本と違い階級社会である為、会話の全く通じない無知な愚か者も多い。
私は、時々、欧州事情に疎い日本人が欧州に行ったら、精神に異常を来たしてしまうのではないか?と心配することがよくある。
欧州について何も知らない日本人が欧州に移り住むというのは、都会の快適な場所に住んでいる人間を、
ライオンがうようよいるアフリカのサバンナに丸裸で放り込むのと変わらないだろう。
悲惨な結果になるのは目に見えている。 日本ほど素晴らしい国は、世界中のどこにもないだろう。
これは私の確信であり事実だ。
問題は、日本の素晴らしさ・突出したレベルの高さについて、日本人自身が全くわかっていない事だ。
おかしな話だが、日本人は本気で、日本はダメな国と思っている。
最初は冗談で言っているのかと思ったが、本気とわかって心底驚いた記憶がある。
信じられるかい?こんな理想的な素晴らしい国を築いたというのに、誇ることすらしない。本当に奇妙な人達だ。
しかし我々欧州の人間から見ると、日本の現実は奇跡にしか思えないのである。 日本人は一貫して争いを好まず、出来るだけ話し合いで物事を解決しようとしてきた民族である
然からば聖徳太子は何故一七条の憲法の冒頭に「和を以て尊しとなす」と書いたのであろうか。
私は日本古来の神と伝来の仏教との和解だったと思う。
欽明天皇時仏教が伝来し、仏教を信じる蘇我氏と、
在来の神道を信じる物部氏の対立が始まった。遂に587年蘇我氏は物部氏を攻め滅ぼした。
この物部攻めに太子は蘇我の一門として加わっている。
聖徳太子は仏教に深く帰依していた。
しかし五九九年の大地震、602年の征新羅軍将軍木目皇子の病死とそれに伴う新羅征討軍の派遣中止等、
何らかの理由により、神道との和解が必要となったのであろう。 聖徳太子は「日本の神々を幹として、仏教を枝として延ばし、日本を豊かな国にしていこう」と諭されたとのことである。
この結果日本の神仏は混淆し、神社と寺院が同居するようになった。ま(神仏混合)
そしてあらゆる神に敬虔な「神の国」が出来たのである。
森元首相の「神の国」発言が非難されたが、神様も仏様も、キリストにもマホメットにもそれぞれの素晴らしさを認め、
それぞれの神に敬虔である。
森羅万象すべてに神が宿ると考える。まさに「神の国」だと思う。
無実の罪で筑紫に流された菅原道真は天神様と崇められ、国に反乱した平将門も将門神社や神田明神に祀られる。
戦争が終われば敵方の戦死者を含め、厚く葬る。死者に鞭打つより、死者の呪いを解放しようと言う意味もあるように思う。
世界の各地で宗教をめぐって戦争が起きているが、日本では考えられないことである 日本における「宗教に対する政治の優越」を確立したのは、織田信長である。
比叡山の焼き討ち、石山本願寺攻めで、宗教の呪縛を解き放った。
豊臣秀吉のバテレン追放、徳川幕府の鎖国も「神の絶対優位」を求めるキリスト教を危険宗教と認識したからであろう。
秀吉・家康は信長の武将として比叡山・本願寺と戦った。特に家康は今川から独立直後の青年時代、一向一揆に大変苦しんだ。
恐らく鎖国しなければ、キリスト教信者の大名が各地に出来、
ヨーロッパの宗教戦争の余波を受けた可能性が高い。
この信長から家康に至る決断こそ徳川300年の平和を作ったと考える まあ、日本は、西洋の民主主義を、それをそのまま、取り入れても、うまく機能せんわね。
それは、ヨーロッパや米国では、当てはまるかもしれんが、日本では、日本的な民主主義を作り上げんといかん。
そういう努力をこれから日本人は取り組み、つくり上げんとね。
でないと、国民に根付かんね 聖徳太子さんのな、あの『十七条の憲法』の第一条に“和をもって貴し”とあるね。
人間は、お互いに仲良くすることが大切であって、争いや戦争などしてはならない、
和の精神を貴び、平和を愛好しなくてはならないということだと思う。
そういうことをいろいろ考えてみると、日本人には、知らず知らずのうちに、和の心というか、精神が培われていると 日本人は、もともと、そうした和の精神を民族の伝統として持っているのであり、そのことを忘れてはならんな。
長い歴史を通じて受け継がれてきた”和を貴ぶ精神”、それをはっきり認識し、その上に立って、
平和というものを求めていくことが、きわめて大切ではないかと思うな。 児童虐待が殺人にまで至ったケースやいじめによる自殺など、
暗いニュースばかりです。しかし、なぜ人と人はこうしてまで争いをやめないのでしょうか?個人の虐待やいじめに始まり、
国同士でも争ってしまうことを考えると、人間とはそもそもが好戦的な存在なのかもしれません。
いじめにしても児童虐待にしても、自分の攻撃性を制御、コントロールできずに、
他人に向けてしまうといった構造は同じです いじめは大人の中でも存在し、パワハラやセクハラがその構造は同じものです。
いくら、仕事ができないからと、相手を攻撃したり、無視をしたりすることでは、その問題は解決しません。
むしろ、職場の雰囲気が悪くなり生産性が落ちるのが関の山です。
しかし、それでも人間は他人を攻撃することをやめないのです。 しかし、その一方で震災以降の日本国内を見ると、いろいろな分野で皆が協力して復興に努力している姿などを見ると、
決してそれだけでもないようです。
戦前はともかく、現代のこうした日本人を見ていると本当に平和的で友好的な国民であると実感します 愛と平和を唱えることが今必要なのでしょう。
千年以上も前から「和をもって尊しとなす」を憲法の第一条においた聖徳太子の偉大さが、今になってようやく実感できます。
個人のレベルでも、国のレベルでも物理的な争いでは物事は解決せず両者ともに不利益を被ることは、
過去の歴史がすでに証明しています。話し合いや協力といった
平和的解決でなければ、真の解決は得られないと思います フランシスコ・ザビエルやルイス・フロイスなどのヨーロッパの宣教師は、
当時の日本社会の実情を記した手紙・報告書を故国に書き送った。
その中で彼らは「日本人はヨーロッパの最先進国の人々ですら足元にも及ばぬほどの、
高い文化とモラルを持っている」と絶賛している。
フランシスコ・ザビエルは日本人の民度の高さに驚き、「とても気品があって、驚くほど理性的、慎み深く、また才能があり、
知識が旺盛で、道理に従い、その他さまざまな優れた素質を持つ」。
また「大部分の人は読み書きができる」と、本国のスペイン人、あるいはインド人や中国人よりも民度が高いことに驚いている。 日本の各地でザビエルは宣教するのですが、出会った日本人が彼に決まって尋ねた事があります。
それは、「そんなにありがたい教えが、なぜ今まで日本にこなかったのか」ということでした。
そして、「そのありがたい教えを聞かなかったわれわれの祖先は、今、どこでどうしているのか」ということだった。
つまり、自分たちは洗礼を受けて救われるかもしれないけれども、
洗礼を受けず死んでしまったご先祖はどうなるのか、やっぱり地獄に落ちているのか・・・・・
当時の日本人はザビエルにこういう質問を投げかけた。
元来、キリスト教においては、洗礼を受けてない人は皆地獄ですから、
ザビエルもそう答えました すると日本人が追求するわけです。 「だとしたらあなたの信じている神様というのは、ずいぶん無慈悲だし、無能ではないのか。
全能の神というのであれば、私のご先祖様ぐらい救ってくれてもいいではないか」
ザビエルは困ってしまいまして、本国への手紙に次のように書きました。
「日本人は文化水準が高く、よほど立派な宣教師でないと、日本の布教は苦労するであろう」と。
当時の中国にも、韓国にも、インドシナにもこうしたキリスト教の急所(?)を突くような人間はいなかったわけです。
この他にも、『もし神様が天地万物を造ったというなら、
なぜ神様は悪も一緒に造ったのか?(神様がつくった世界に悪があるのは変じゃないのか?)』
などと質問され答えに窮していたようです ザビエルは、1549年に日本に来て、2年後の1551年に帰国しますが、
日本を去った後、イエズス会の同僚との往復書簡の中で
「もう精根尽き果てた。自分の限界を試された。」と正直に告白しています。
集団原理の中で生きてきた日本人にとって、魂の救済という答えは個人課題ではなく
先祖から子孫に繋がっていくみんなの課題であったはず。
「信じるものは救われる」=「信じない者は地獄行き」 といった、
答えを個人の観念のみに帰結させてしまうキリスト教の欺瞞に、
当時の日本人は本能的に気づき、
ザビエルが答えに窮するような質問をぶつけたのではないでしょうか。 2015年12月、電通の新入社員だった高橋まつりさんが長時間の過重労働を苦に、自ら命を絶った。
だが現在、この事件を受けても東大生には「自分は過労死をしないから大丈夫」「激務でも自分なら大丈夫」と根拠のない自信を持つ傾向が少なからず存在するのではないか。
「彼女の死はあくまで例外的な出来事だから」。就活を控えた東大生の一人がぽつりと口にした言葉から、その根拠なき自信が透けて見えるように感じた。
東京大学新聞社は母親の高橋幸美さんや関係者の方々に高橋まつりさんがどんな東大生だったか、どんな思いで電通に就職したのか話を聞いた。
高橋まつりさんの境遇は、就活を控えた学生にとって果たして人ごとの話だろうか 「新人研修は課題も多く、結構大変」。電通に就職を決めた後、高橋まつりさんはそんな言葉を漏らすこともあったが、
基本的には前向きな気持ちで研修や仕事に取り組んでいた様子だったという。
だが入社6カ月後、「会社を辞めたい」という内容のメールが高橋幸美さんのもとに届く。その頃、研修期間が終わった高橋まつりさんの仕事量には際限がなくなり、
残業で早朝の4〜6時に退勤することが日常茶飯事となっていた。 「まつりは電通を辞める際の資料としてメールやメモなどを残していました。
そこから分かったのは、まつりはずっと黙って我慢を重ね、最後に自殺を踏み切ったわけではなく、人事部、上司、同僚と社内のいろいろな人に相談をしていたことです。
助けてほしい、と必死に声を挙げていました。まつりは母親である私にだけは心配させまいと悲観的なことを伝えておらず、
今はあの子を助けてあげられなかった後悔しか残っていません」
パソコンに保存されていたメールには高橋まつりさんのこんな記述が残っている。
「電通にすごく入りたくて入った。けれど、自分がここまで消耗して、
それと引き換えにキャリアを積もうとはもう思わない」 14日
「眠りたい以外の感情を失った」
21日
「もう4時だ 体が震えるよ…しぬ もう無理そう。つかれた」
11月3日
「生きているために働いているのか、働くために生きているのが分からなくなってからが人生」
5日
「土日も出勤しなければならないことがまた決定し、本気で死んでしまいたい」
10日
「毎日次の日が来るのが怖くてねられない」
12日
「がんばれると思ってたのに予想外に早く潰れてしまって自己嫌悪だな」
18日
「毎朝起きたくない?」「失踪したくない?」
12月9日
「はたらきたくない1日の睡眠時間2時間はレベル高すぎる」
17日
「死ぬ前に送る遺書メールのCC(同時送信)に誰を入れるのがベストな布陣かを考えてた」
20日
「男性上司から女子力がないと言われるの、笑いを取るためのいじりだとしても限界である」 「鬱だ」
平成27年12月、クリスマスの早朝に、
「仕事も人生も、とてもつらい。今までありがとう」
静岡県の母・幸美さんにメールが届きました。
そのメールを受信したお母様は、急いで電話し「死んではだめよ」と、元気づけました。
力ない声で「うん、うん」と返答し、その数時間後、高橋さんは寮から飛び降り命を絶ったのです。
「過労死ライン」は月80時間とされていますが労災認定は遅すぎました 岩戸開きの詳細が判明しました
【岩戸開き日程】
・10/20 (水星東方最大離角、未の五月五日) 七の印、日の蘇りのきっかけ
・10/22(型の冬至の対応日) 日の蘇りの始り、山の津波
────────七合目──七から八から鳴り鳴りて
・10/25 (星8/2) 八月ぐらぐら
・10/26(星8/3 )『次々に不思議出て来るぞ、不思議なくなりたら神の国、ミロクの国となるのぢゃ。八月三日』『仕組途中でグレンと変り、カラリと変る仕組してあるのぢゃ。八月三日』→ 11/3の事
・10/27
──────八合目(仕組始り)──────
・10/28 (裏旧6/28=因縁の日) 岩戸開きの幕あけ、GESARA
・10/29(星8/6)『岩戸開きのはじめの幕 開いたばかりぞ。八月六日』
・10/30(星8/7)『覚悟よいか。待ちに待ちにし秋来たぞ。八月の七日』
────────九合目─────────
・10/31(星8/8) 岩戸開き本番の始り 火の雨
・11/1(星8/9)
・11/2(星8/10) 『世界の愈々のメグリが出て来るのはこれからであるぞ、九月八日の九の仕組 近付いたぞ。八月十日』
────────十合目─────────
・11/3(星8/11、ゴジラの日、断層の境目) 【秋の空グレン】『神の仕組一切り。八月十一日』『この大掃除一旦やんだと安堵する。この時、富士鳴門がひっくりかえるぞ。八月十一日』
¹
・11/4
・11/5(型9/7、世界津波の日)
────────九(光)の世───────
・11/6(型9/8) 九月八日の九の仕組、天照大神殿の十種の神宝にテンが入る(旧九月八日の仕組完了)
・11/7 (型9/9、星8/15)『言答(いわと)明けたる今日ぞ目出度し、二の言答(いわと)早よう明けてよ。八月十五日』
・11/8(型10/10) 『岩戸がひらけたら、岩戸の中から黄(基)の馬が飛び出してくるぞ』
・11/9(星8/17) 『いよいよ地獄の三段目に入るから、その覚悟でゐて呉れよ。八月十七日』
ひふみ神示 〜 世は七度の大変り(最終版)
http●s://i.imgur.com/bfHN9Q0.jpg
根本の型
https●://i.imgur.com/tvRuJhF.jpg 実力よりコミュニケーション能力が求められるのは女性ならではなのか
超絶プライドの尊厳死と言う復習、良くやった 本来は地球上に数ある諸文明の一つに過ぎない欧州文明を格別のものとしてみなす考え。
欧米文明を西洋としこれ以外の文明を全て東洋とすることなどはその一例とされる。 第二次大戦以降これらの植民地の多くは独立したが、その後も欧州とアメリカ合衆国の技術的、政治的、
経済的優位は変わらず、ヨーロッパ中心主義は根強く残った 哲学の始まりをギリシャからとし、それ以外の地域の哲学は傍系のものとする。
欧州文明を西洋として、それ以外の文明を東洋としてひとまとめにする。
欧州の技術、科学が全時代にわたって他文明のそれに対して優位にあったと見なす。
欧州文明は合理的であるとし、それ以外の文明は非合理的であるとする >>165
高橋まつりさんの悲劇を二度と繰り返してはいけない
電通に入社しなければ
結婚して幸せな人生歩めたろうに >>169
女は結婚しても不利だからなー
まー旦那がちゃんと家事炊事育児完全分担できたとしても身重になるハンデを何で補うか
それを望んでたのならプライドなんか放棄してただろう
まー今頃もー立派な女鬼神の若手ホープにでもなってくれているだろう
地上への音絵を待ち詫び尊敬しています >>169
結婚して幸せな人生って…
結婚=幸せだと思ってるんだ。
世の中結婚して不幸だと嘆く人も多いというのに。
私は最高に幸せですけどね。 >>171
もちろん結婚=幸せだとは思ってません
独身の方が幸せだっていう人も居ますし
ただこんな精神状態まで追い詰めた会社や社会はやはり狂っているとしか思えません 長期休み明けの出勤日の朝になると、胸騒ぎがしはじめます。
「ただいま人身事故が発生しました。振替輸送を行っていますのでそちらをご利用ください。」
このようなアナウンスを、何度となく聞いたことでしょうか?
月曜日の朝は、時間通りに行けたことなんてあったでしょうか? 休み中は楽しく過ごせたのに、会社に行く日になったら猛烈に会社に行きたくない病に駆られると思います。
そんな心がモヤモヤとする時は、一体どうしたら心の平穏を保てるのでしょうか? 会社って、どうしてこうもわけわからない人達が集まっているのでしょうか?
上司にしろ同僚や後輩にしろ、自分が思った通りになることなんてありません。
「こんなに一生懸命働いているのに、誰も私のことなんてわかってくれない。」 私も散々落ち込んで、泣きながら悩みましたよ。
なぜ自分が悪くないのに、自分が上司に謝らなければならないのだろうって。
どうして月収40万円の人と同じ仕事をしているのに、月収15万円しかもらえないのだろうって。 会社はお金を稼ぎに来ているからこそ、働いた対価を報酬としてきちんと得たいはずです。
でもやっぱりそんな簡単に人は認めてくれたりしませんから、ストレスになってイライラします。 会社の周りの人にイライラしてしまうのは、相手が思い通りに動いてくれない時です。
他人は思い通りにいかない生き物です。
他人に認められたい承認欲を排除しましょう。
肩の力が抜けて、少しずつ楽になってきます。 「お昼は職場の人同士でランチを食べないと、仲間はずれにされちゃう。」
学校の延長でもないのに、会社でもお局さんや上司と一緒にランチに行かないと、
自分の悪口を言われているのではないかという気持ちになってしまいます。 「おーい、今から飲みに行くぞー!」
今日は子供の誕生日祝いで早く帰る予定なのに、
上司に誘われてそちらを優先しないと来年の昇給はなくなってしまうかのような恐怖感に襲われてしまいます。 会社で働いている以上、人に嫌われたくない気持ちが働いて相手の期待に過剰に答えようとしてしまいます。
でもこれが原因で苦しんでいる人が、世の中とても多いように思います。 >>182
悪口言われても気にしない。
行きたいときは行くし、
行きたくないときは断ります。 そういうのもない会社ですけどね。
選べばいいんですよ。 >>173
超絶プライドだから
仕事で認めさせたい、
相手は仕事なんて見る気なし、
コミュニケーション取ってくれない奴なんか気遣わない望み通り激務して死んでろいぢめ >>184
NOを言えない苦しみ、
それが更にそいつらを助長させ、他の多くの人も苦しむ連鎖
NOを皆で突きつけないとな 日本人は真面目で相手の期待に過剰に答えようとする国民性なのかもしれません
外国人ならはっきりNoと言えるのかもしれませんが
日本人って気を遣ってしまう人が多いじゃないですか
これが会社や社会でマイナスに働いてしまうのではないでしょうか 嫌われたくない仲間はずれにされたくないというエゴの間違った防衛でしょう。 突然、強い不安とともに動悸や息苦しさ、冷汗、吐気などの発作(パニック発作)におそわれるパニック障害は、
現代において「うつ」と同様、多くの方々が悩んでいる問題です。
初めてパニック発作におそわれた人は、身体的な問題ではないかと考えて内科などを受診することが多いのですが、
検査を行なっても特にその原因と思われるような異常は見つかりません。
新しいタイプの「うつ」では、このパニック障害との境界線はかなり曖昧で、両者が合併していると診断されるケースもあれば、
パニック障害から始まって後に「うつ」が徐々に現われてくるケースもあります 「死ぬかもしれない」不安は、なぜ起こるのか?
パニック障害は従来「不安神経症」と呼ばれていたもので、その特徴である発作(パニック発作)は、もともと「不安発作」と呼ばれていました。
このことからもわかるように、パニック障害は強烈な不安を伴っているところが最大の特徴です。
この不安は「このまま死ぬかもしれない」と感じられるようなものであることが多く、それがあまりに強烈であったために、
予期不安と呼ばれる「またいつ発作が起こるかわからない」という心配におびえ、生活にもさまざまな支障を来たすようになります。
それにしても、なぜ「死ぬかもしれない」といった不安が、わざわざ自分の内部から起こってくるのでしょうか。 「病というものは、何らかのメッセージを自分自身に伝えるべく内側から湧き起こってくるものである」、
あるいは「病は、その中核的な症状によって、自分自身をより自然で望ましい状態に導こうとしている」という見方で「うつ」について考察しましたが、
ここでもその考え方を用いてみましょう。すると奇妙なことに、「死ぬかもしれない」と自分自身に思わせることにパニック障害の意味がある、という話になってしまいます。
さて、これはいったいどういうことでしょうか。 パニック発作や予期不安は、特に地下鉄や急行・特急電車の中で出やすい傾向がありますが、
同じ乗り物でも、地上を走る各駅停車の電車やタクシーなどは比較的大丈夫なことが多いようです。
これは、地上なのか地下なのかによる「閉塞感」の違いや、「降りたい時にすぐに降りられるかどうか」
という点が重要なポイントになっていることを示唆しています。
ここからある大切なことが推測できるように思います つまり、その人はすでに心理的にいまの生き方に「閉塞感」を感じ、
「降りたい時に降りられない」レールの上を走っているような人生になってしまっているのではないか、ということです。
そうだとすれば、まさに同じような状況が物理的にもたらされた時に、
その人は心理的・物理的に二重に「閉塞」させられるわけで、
それに反発して発作が起こりやすいのも不思議はないと考えられるのです。 13日、愛媛県松山市で、在間亮平(ざいま・りょうすけ)容疑者(41)が運転する乗用車が約1時間にわたり暴走した事件。
「会社の人間関係などのストレスで数日間眠れずやってしまった」などと供述しているとのことです ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています