>>262
ヴェーダンタ的に言うと、
ヴァイラーギヤ
(ヴィラーガとも。離欲。この世の生まれては死ぬを繰り返す
物質世界の儚さに対してある種の飽き、
もうこんなのお腹いっぱいだよ…な気持ち、
諦観の境地)が自己に生じた人と、
それが起こる前の人とでは、
世界に対する興味の対象が違う…というか変わる。

正しくヴァイラーギヤが起こったなら、
自然と人はモークシャを求めるようになる。
(モークシャは悟りとも解脱とも翻訳されるが
伝統的なヴェーダンタの教えでは
「自分以外の何かに絶えずなりたいという衝動(サムサーラ)からの終了」
と定義してる。←尚この衝動がある為、人は輪廻(サムサーラ)を繰り返す)
ちっぽけで常に満たされない自分、という誤った自己像を検証して
真の自己の本質(真の自己は永遠不滅の存在だと理解する事で、
人はモークシャ…真の安心と幸福を得る。
…得るというのは誤解を産む表現で、
私の本質は生まれる事も死ぬ事も無く初めからすでにして有り
私自身が幸福の本質だったと理解する事。
(伝統的なヴェーダンタはその為の体系化された学問)

で、
死後、体が腐らないっていうのは、
真の自己を理解する過程で起きた副産物でしかない。
それが目的じゃない。
自己の本質は、時空間の上位なので自然の法則に縛られようがない。
その証明(遺体が腐らない、死後実体を持って現れる、
一瞬で半身不随が治る等の奇跡)
が一般の人に目で見える形で存在するという事実は、
それを見た人に、自己の本質の永遠の可能性を
インスパイアする事になるではないか?意味大有りだよね。

これでも屁理屈が出るなら
あなたはヴァイラーギヤが起こるはるか手前の人だから
今は何言っても理解できないかも。
長文疲れたから、質問返しはしない。