519 名無しヒーリング[] 2018/02/06(火) 08:46:21.59 ID:9WJpMWss
自分で考えた煩悩の定義、自分で考えたお布施の定義を根拠に延々荒らしている外道に、ひとつ知恵を授けよう

520 名無しヒーリング[] 2018/02/06(火) 08:46:36.82 ID:9WJpMWss
◎布施によって生活をする上座部仏教

古来、仏教僧侶は衣食住のすべてを一般の方々からの布施によってまかなっていた。
現在でも南アジアの国々で暮らす上座部仏教僧侶の多くは、布施による生活を続けている。
午前中に托鉢に出かけ、昼前に寺院へと戻り、いただいたものを持ち寄って食事をする。
それが毎日のベース。

なぜそのような布施による生活をしているのかと言えば、僧侶は自分で何かを生産するということが戒律で禁じられているからだ。

◎布施という考え方

仏典に出てくる話を1つご紹介したい。
ブッダの弟子に盲目の人物がいた。
ある日、この人物が自分の衣服のほころびを直すために針に糸を通そうとしたのだが、目が見えないためになかなか糸が通せない。
仕方なくこの人物は、縫うことは自分でやり遂げるから、針に糸を通すことだけは誰かに手伝ってもらおうと考えた。
そこで、次のように周囲に呼びかけた。
「誰か、この針に糸を通すことで徳を積みたい方はいませんか?」

この言葉を聞いて、どう思われるだろうか。
もし自分がこの盲目の人物であったとしたら、このように呼びかけるだろうか。
これはお布施に関する話ではないが、理屈はお布施のそれと同じである。
注意して読んでいただきたいのだが、この言葉は
「針に糸を通してくれませんか?」
とお願いしているのとは少し違う。
「徳を積みたい人はいませんか? 今なら針に糸を通して人助けをするという徳が積めるように、私がその機会を提供させていただきますが」
と言っているのだ。

◎布施とは徳行であり修行である

この話にあるように、仏教において手伝うというのは徳行であり、修行となる。
布施は正式には布施行という名前が付いているほどで、紛れもなく修行である。
徳を積むための修行、「与える」という修行、それが布施。
これは逆に考えると、修行でないものは本当は布施でないということでもある。
重要なのはそこなのだ。

布施をする者は自らの徳行として、修行として布施をするため、施しを受ける側がお礼を言ってしまえば修行にならない。
僧侶は布施の場を提供しているのであり、布施行ができる状況を作りだすという役割を担っている。
それが僧侶の重要な仕事なのである。
そのような布施の考え方からいえば、お礼を言うのは布施を行う側でなければやはりおかしい。
「布施をさせていただき、ありがとうございます」
「徳を積ませていただき、ありがとうございます」
それが布施というものの本質であり、布施を布施たらしめている根本である。
上座部仏教で、人々が僧侶に施しをし、合掌をして頭を下げるのにはそのような意味がある。
そして当然のことながら、そこで僧侶はお礼など言わない。
施しをさせてあげるのみである。

私たちの感覚からいえば、何かをいただいたにも関わらずお礼の一言もないのはあんまりじゃないかと思いたくなるが、そうではないのだ。
たとえ優しさから生まれた物品の授受ではあっても、それは徳行としての布施とはならない。
布施はあくまでも施す側にとっての修行だからである。

◎日本の布施

本来の布施とはそういうものなのだが、残念ながらこの理屈を日本で通すことは難しい。
日本にはこのような布施の下地になるような思想・慣習が存在しないからである。
それはとどのつまり、上座部仏教の僧侶のように托鉢によって生活をする僧侶がほぼ存在しないことに端を発する。