OSHO【究極の旅】禅の十牛図 第三図 『見牛』(見性)

経文は言う
『その声を聞けば 人はそれの源を感じとることができる
 六感が解け合うやいなや もう門の中に入っている 』

ここで禅はみごとだ 他のどんな宗教も 他のどんな発展形態も これほど深く正道に触れてはいない

感覚は生きたままでなければならない それだけでなく
あなたの感覚は ふか~いリズムとハーモニーを醸し出していくべきだ

それらは1つのオーケストラになるべきなのだ そうして初めて《真実は知られうる
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この一体性は 染料の中の色素のようなものだ どんなし細なものであれ 自己を離れたものはない

そして 感覚のこの全体性(Wholeness)から《真我》《アートマン》あなたの《真の実存》が浮かび上がる

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ワイの見牛体験は 喫茶店でコーヒーを飲みながら OSHOの『存在の詩』(マハムドラーの詩)を読んでいる時に 自然に訪れたなあ

あのときに どんな瞑想をしても得られなかった サット・チット・アーナンドの意識に入っていったんだわ

だからこの時点で 初めて至福のなんたるかを知り得たと言えるな
せやから 誰でもゆったりと自然な境地と言う マハムドラーに意識をチューニングすれば 見牛は直ぐなんやとおもうでえ

だって探求者としては凡人のワイでも 存在の詩を読み初めて3ヶ月目ほどで見牛行けたんやさかい そんな難しくは無いんやないかなあ?