結局、想念を消して自我が消えたとき、そこには観察者の意識しかなかった。
それは気付きそのものだった。ということでしょう。
私はいないというのも、そういうことでしょ。
で、それを知ることが悟りってことでいいの?
それが覚醒ということ?
それで?だからなに?
観察者の意識は気付きそのものだったからなに?
それが神の正体だったということ?
神とは観察者の意識の気付きだった、と。
その気付きがあるから世界が認識され、世界が生まれると。
それが私の中に世界があるといわれる逆転現象の理由でしょ。
これはね、瞑想で想念消して自我消して、観察者の意識を感じるだけじゃここまで思わないね。
観察者の意識の無の状態を、勝手に意味付けした結果が、私はいなかったとか、
私とは気付きそのものだったとか、気付きによって世界が現れるとか、
勝手に解釈して思い込んでそう結論出してるだけで、
結局、自我を消せば、無でしかないんだよ。たんなる意識しかないわけだよ。
それを真我だの神意識だの高尚に言ってるけど、しょせんは自我を感じてない意識状態というだけなんだよ。
自我を感じてる意識状態が普通の状態だよ。
自我を感じてない意識状態がそんなすごいか?そんなに憧れるか?
そんなものたいしたことないべ。だから悟った人はみんなこう言うんだよ。
みんなすでに悟っている、と。