まあラマナはヴェーダンタとヨガを一緒にして
説明している部分があるので混乱しますね。

もしこの方が、仏教あるいはヨガなどの教義に賛同しているのであれば
何も言うことはありませんが、ラマナあるいはヴェーダンタに
賛同しているのであれば、ミスを犯しています。

私達はすでに真我、究極には非二元の気づきであり解放されていて
それは悟ることも、経験や対象を得ることで何かになることもありません。
だから解脱とは根本的に無知の問題で
無知を終わらせたら、その人はデフォルトで自己です。

だから人が自己であるとき、ラマナは聖者とみなされません。
人として、聖者としてラマナを見るならばラマナほどすごい聖者は知りませんが
ラマナは自らは真我だと言っているので
聖者はラマナですが、ラマナは聖者ではありません。
私達とラマナとの間に差はありません。
どれだけ悟っているかも自らの観点からは有り得ません。
Jivaのレベルにおいて無知がどれくらい残っているかは言えるでしょう。

そして自らがJivaを超越していると理解されたとき
創造の中で何かを達成することで自らが満足することは有り得ないので
Jivaをどうにかする探求に惹かれることはないと思います。