年長者・エルダースピリット
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過ぎた知恵を与えることは時に人を不幸にする。
真理も時には人の心を壊す。
善悪の二元論の段階にいる人々は、ほどほどの理想と、
ほどほどの失望を同程度に持っているのが良い。
いずれ無くなる。理想も失望も。それが成長するということだ。 男女の価値。
人間は、生き物だ。
生き物は、不合理だ。
合理性とは、生命が利便性の為に纏った
薄皮に過ぎない。
人間の本性は、他の全ての生物同様無秩序だ。
さて、生命が無秩序なら、私たちは、
正しくある為に自らを滅ぼさなければ
ならない。
正しくある為には…だが待ってほしい。
私たちの目的は、正しくあることなのだろうか? 生命は、正しくある為に生まれてくるわけではない。
現代社会が陥ったのは、知性への依存、
正しさへの盲信、それが故の
存在の意味の消失。
「人類が生きなければならない合理的な
理由、必然性はあるか?」
そんなものは無い。
私たちはただ、無秩序の中に漂っているだけ。 だから無秩序に生きよ、などとは言わない。
そうではなく、既に、初めからそうなのだ。
なまじ言葉という小手先の賢しさを身に付けた
人類は、それを盲信し、真実だと思い込み、
自らが相変わらず愚かで無邪気な
自然の生物に過ぎない事に気付かない。
本質は、生命だ。
私たちの心の中心に、脊髄に、
1つの柱として、私たち自身の
真の姿として、それは備わっている。
知性に盲従する人間は、生命を憎む。
ちょうどニーチェのように、自分自身を。
人間が忘れた自己肯定とは、
つまり生命への礼賛だ。
知性、生命。
適応と、創造。
男性と女性。
女性は生命の木の幹。男は枝葉。
女性も男性同様優れている、という人が居る。
それは違う。女性は男性のように優れてはいない。
そうではなく、女性は男性と全く違うように
優れている。
男性が、女性同様に優れた存在だとは言えないように。 人は自分の中の男性性と女性性のバランスを、
上手く保ち調和させなければならない。
知性の無い生命は、無力だ。
生命の無い知性は、ただの虚無だ。 こういう、せいぜい5つか6つの簡単な事実を伝えるために、
100も言葉を重ねてしまう。これは迂遠なことだ。 男は野心を持つ。
女は憎悪を持つ。
結局どちらも、ありのままの自分が
嫌いで、許せない。
底にあるのは自己嫌悪。
表れ方が違うだけ。 自分が高齢だとして、目の前に安楽死の装置があったなら、入る?
これは大事な質問。どうする?どうクリアする? 宗教とかスピリチュアルというような垣根が嫌でね。
子供もいる自立した一人前の大人たちが、
この世界の存在や、生と死の意義について
何の疑問も考えも持っていないと言うのは。
もっと当たり前に話しあうことだと思うが、
どうしてタブーになってしまったんだろうね。 バウンダリの炎症。自己執着と死への恐怖。
継続への執着。
その炎症を抑えてくれるのは、自然との触れ合い。
バウンダリが消失しても、世界は続いていく、
バウンダリの外側で、それは尚続いているという実感。
だからデスツーリズムは、ネイチャーツーリズムに覆い被せるような形で
抱き合わせのように設計されるべきだ。
人が穏やかに死を迎える為には、言葉と、バウンダリを離れなければならない。
グラウンディングの徹底が、死への恐怖を軽減させる。 技術は既に整っていた。法的にも容認される。
であればボールは今、死への恐怖を解消させるという局面で、
その流れは私たち宗教家の手の中にある。
そして次のパスは、自然界へ。
この日本社会に、自然の偉大なる包容力を復活させるのだ。 ツインソウルのワークが盛況のようだから、更なる進化を期待して
少し解説してみようか。
引き寄せの法則が金なら、あれは銀だね。
どちらも精妙なエーテルにはほど遠いけど。 私たちの自意識は、「私」という境界線を厳密にもたらす。
するとその、世界全体からの隔離は孤独を産み、
完全なる「私以外」を求める。
孤独を埋めるためのパーツ。永遠の充足。完全なる相補物。
これはつまり「神」だ。 「神」への「郷愁」。神を待ち望む心。永遠の救済を期待する心。
郷愁、ノスタルジア。孤独を埋めたいという想い。
雌雄を持った生命体である私たちは、その肉体の凹凸の構造に応じて、
相補物をそうした対極的な形で思い描く。
ノスタルジアが、異性の器を持つ。
理想の女性としてのアニマ、理想の男性としてのアニムス。 神への郷愁で満たされたアニマやアニムスは、完全なる相補物としての
理想型となる。
それは、完全な異性の予型。その器から常に霊妙幽玄なる薬酒が溢れだし、
外の世界の何ものかに染み込まんと欲している。
究極の陶酔の酒。アムリタ。感染性の理想。
そしてアムリタの誘因力によって、物質世界において、ついに
その理想の薬酒を吹きかけるに足る相手が作出される。
神のように惹き付ける異性。運命の相手。ツインソウル。 こういう経緯を辿ったことによって、ツインソウルは、
根本的に手の届かない存在でなければならない。
触れられず、理想的で、現実にならない。
ランナーとチェイサーという概念は、要するに現実からの逃避と、
理想への執着を表している。
しかしその追従の経験の中で、ツインソウルは徐々に現実と関連した
異性的な部分を切り落とされ、そこを脱し始め、ついには神的になりはじめる。
その追走は結局の所、現世的な獲得の対象を経由した、神への祈りなのだ。 真実、ツインソウルを獲得したものは、神との合一を果たし
神的な創造性を取り戻す。
個性化の階段を登り、「世界は”在る”」という認識に覚醒し、自立した
精神存在へと変貌する。
理想の異性という仮装は、最も卑近な神の仮面。
私はこれについて何の反対もない。求めよ、さらば与えられん。
しかし、本心から望んでいるものだけが、与えられる。 宇津流霊の御子はシナトベ。
水ではなく風、何物にも染まらない自由と、清涼の空気。 なにもわからぬ無知な者は、もともと智の働きがないので、表面に現れるものもない。
また、はるかに深い所まで到達した智恵は、もはや決して表面に出ることもない。
単なる物知り、理屈屋は、知っていることをひけらかそうとして、表に出すので、
滑稽なことになる。
近頃の精神思想の様子など、さぞ、みっともないとお思いになるでしょう。 恥ずかしく存じます。 しかしこうも思いますよ。
まだ子供の頃、私はこの世界が許せなかった。
立派な人間など居ないと思っていた。
だからこそ世の中はこんなに悪いのだと。
神は居ないと思っていましたが、
今はその存在を理解しています。
にも関わらず、私はそれを伝える術は持ちません。
知識が深まりすぎ、専門化しすぎた為です。
子供の私は、相変わらず世の中を憎み、
救いがないことを嘆きながら今日を生きているのでしょう。
そういう、所詮はなるようになるのだということに
諦めを抱いていることに関しては、
結局同じなのだと言えるでしょう。 魂が年齢を重ねるということは、
真理である神に近付くということなのでしょう。
この地上において神が成してきた事は
果たして正義だったか悪だったか。
それに対して、私たちはこう言うだけです。
「全ては完全だ。この世は素晴らしい」と。
真理が私たちに与えるものは、常に私たちの、
内なる充足ですね。 私もこれでもマスターなので、
聞いてくれれば色々解決できる問題はありますよ。
いつでもどうぞ。 真理の秘匿ということ。
これ、ふて腐れて嫌みで言っているわけではないですよ。
真理を理解するということはつまり、この世界の現実を
非常に深いレベルで受け入れること。
でも現実というのは、時にとても辛く重い。
誰もが最初から、それを受け入れられるわけではない。
もしも私たちが、そういうものを振りかざしてしまったらどうなるか。
強く正しい人たちが、強く正しい意見を振りかざしたら。 現に今こうである私たち人類が、前提だと思います。
それを調和させ、適応させ、幸福に導くために真理を学び広めている。
首輪で繋がれたゾウみたいなものではないですか?
私たちは、どうすればもっと早く走れるか知っている。
車に乗れば良いのです。
しかし、車に乗って、時速八十キロでゾウを引っ張ったらどうなるでしょうか。
私たちとゾウを繋いでいる紐は切れてしまう。
それは私たちが知識と技術の探求の中で本末転倒になり、
ゾウに相応しくないスピードで走ってしまったからです。 だから要するに、ゾウに相応しいスピードで。
人類をより良い土地へ導く為の道具として、真理を使うべきだと思います。
秘匿という言葉を使っていますが、文字通りの隠すということではなく、
それを振りかざさない、というモラルについて言っています。
別の言い方をするなら、まだ成長段階にある人々に対して、
寛容になるということ。急かさないということ。
そしてその為に、線引きをすべきだということを言いたいのです。 莫大な資本を持っている人が株式投資をすると、この会社は見込みが
あるとか無いとかという判断とは無関係に、その人自身が大きなお金を
動かした行動によって、市場が影響されてしまうことがあると聞きました。
私たちが受け継いでいる霊的英知もこのようなものです。
それは努力よりは寧ろ運によって与えられます。
最悪の運、受難と絶望によってです。それが私たちの魂は磨きます。
が、それらは人が自ら選び取れるようなものではありません。
運によって恵まれた私たちは、そのたまたま恵まれた英知を、
他の人々が使う一般的な知識のように用いるべきではないのです。
ちょうど前述の投資家が、真っ当な株式投資の為に自分の資産を
制限して投資を行うようなものです。 そういう訳で私たちは、霊的英知に対して謙虚にならなければ
いけないと思います。
真理を教え伝えることは、投資家が寄付を通して資産を人に
分け与えるようなもので、後々のことを考えると良いでしょう。
しかしそれは普通の知識ではなく、誰もが容易に受け取れるものでは
ないのだから、私たちは、まだ教えられない人々に対して、
自分をより高い所に置いてはいけないと思うのです。
私たちは、一般には理解不能な知識を蓄えています。
そうしたことへの自覚が大事だという意味で、「真理の秘匿」について
語っているのです。 たとえば今日の宗教家の中で、世界経済に対して意見を言える人がおりますか。
たとえば政治制度について、どれだけの意見が言えますか。法組織に対して、どれだけの意見が言えますか。株式会社制度に対して、どれだけの意見が言えますか。
未来のあるべき社会の相に対して、どれだけのことが言えますか―。 これまでのような宗教・スピリチュアルでは、現代の人たちを救うことはできないのです。
現代には現代のさまざまな困難や悩みがあります。それは高度に発達した社会、文明、経済、こういった中において人間の悩みが生れているからです。
原始時代の人間の素朴な悩みでは済まないのであります。
あなた方は人間の心の悩みを解決するとともに、この文明を如何なる方向に進めていくかという、大きな指針を打ち出していかねばならないのです。 心の世界のみ説くなら地上に生まれる要はない
心の世界の大切さはもちろん重要ですけれども、それだけならば、われわれはこの地上に出てくる前に、天上界に居た時に、既に悟った存在でありますから、
心清くするためだけならば、この地上に生まれてくる必要はないのです。 われわれがこの地上に生まれてきた以上は、この地上という環境を、素晴らしい楽園にしないで一体何の役割がありましょうか。
いかなる指導原理のもとに、いかなる社会生活を営んでいくのが多くの人々を幸せに、豊かに導いていけるかということ、このようなことを抜きにしては真実の正法はあり得ないのです。 単に心の教えだけならば、あなたのこんな小さな家にこもって教えを説いていれば良いのです。
けれどもそれではいけないのです。あなた方の時代の要請を読みとりなさい。
今後の未来の社会、どのような社会を作っていくか人々に教え、自らも行動して欲しい。私の願いです。 私がインドの聖雄といわれ、私の教えも一つの聖書といいますか、ガンジーの聖書のような形で信ずる人は多いですけれども、
単に精神主義者として、スピリチュアルに人々を指導することだけなら楽なことでありますけれども、
私は敢えてこの地上界に具体的ユートピア建設のために立ち上がった。どちらがよりむずかしいかということを考えて頂きたいのです。 あなたは高い志をお持ちのようだ。
それは素晴らしいですね。
しかし私が思うに、調和や適応といった問題、
この人間の世の中をより良い、素晴らしいものに
していくという問題などは、畢竟、全て生物の、
生物的本能、生物的主観から生ずるものだと思います。
私は真理と精神の探究者であり、その実地調査の為に、
いつも被験者を探しているだけの者です。
世界をより良く(…誰にとって?)するというような問題は、
確かに恐ろしく難しく、また偉大な課題であるでしょう。
しかし、私はそれには興味がありません。
それは私たち世界存在と精神の内奥にある謎を
解き明かさんとする私にとって、あまりにも
瑣末な、表面的な問題なのです。 繁栄と発展と強健、これらは生命の課題です。
真善美、つまり調和や適応の問題は、
"在る"という存在の課題です。
しかし私はそのどちらでもなく、
ウツルヒの変化の課題の中に生きています。
私が目指すのは完成や理想ではなく、
絶えざる創造がもたらす精神の浄化そのものなのです。 近頃は暇を持て余し気味だから、
暇つぶし程度に手頃な誰かの心をいじくり回して、
最高に健全な改造をぶちかましてやりたいとでも思ったのです。
そこで私のリーラの予定表に、「5chでスレ立て」と
追加したところなんですよ。 お金のかかる人への相談はするけど、
お金のかからない人への相談はしない。
これは良く考えると不思議なことだ。
お金の介在しないものごとに対しては、
人は価値観を見出せないのかもしれない。 こんなに真面目でフレンドリなのに…
どうして誰も質問しないのだろう? うわクリスマスの朝に書き込みしてしまった。
リアルが充実してないのがバレるわ。 次に目を覚ました時、周囲からの扱いが
「あなたは元々人間だったけれど、
今はもうロボットなの、AIなのよ」
という感じだったら皆さんはどうしますか? 救世主、マスター、ヒーラー、ツインレイ、
ハイヤーセルフ、大天使。
皆誰かに期待して、皆誰かを求めている。
宗教もスピリチュアルも、結局は
ある種の夢や理想、幻想を追いかける
遊戯なのだ。
神は私と共にある。
神はあなたそのものだ。
遠くへの旅路が忙しくて、
誰もそれには気付かない。 川が好きだね。生き物が豊かだから。
鳥や魚もしっかり考えながら、
一生懸命工夫し奮闘して彼らなりの生を営んでいる。
どんな理想があって、どこへ行きたいんだろう。
全ての生命は美しいよ。人間もまた然りだ。 音楽を聴くように、世界が流転する音に耳を傾けること。 時にはそこを離れて静かな観想者となり、
時には自らもそこへ飛び込み舞踏者となる。
時には瞑想者、時には勇敢なプレーヤーに。
現れては消え、燃え上がっては揺れ、
冷たく静まりかえり、地に染みて芽を育む。
世界存在の底に辿り着いた人間は、結局何をしていようとも
幸せだと言えるでしょうね。 生きている間に
それが自由に出来なくなった時は??
人はいつでも
病気になって
不随になって
不自由になる可能性はありますよね。 >>151
私たちは、自分と誰かを比較します。
同じ人間、同じ日本人、同じ世代の一社会人として、
私はもっとこうあるべきだ、彼はどうしてあんなに〜なのか。
しかし存在の根底で私たちは、そうした比較の全ては
幻想に過ぎないことを学びます。
私は、人間ではないんです。
あなたがこうして話している相手は、人間ではないんですよ。
だから普通一般の「人間」にとって病気と思えるような状況も、
私にとっては病気ではありません。
空を飛べない鳥は病気かも知れません。
しかしもし私が、自分が「キウイ」という変わった種族の鳥で、
他とは違う存在なのだと認識していたら、空を飛べないことを
嘆きはしないし、むしろそれを自分らしさとして誇りに思うでしょう。
https://youtu.be/w3kIsodTAcI その自分らしさを受け入れる事が
幸せということですか? それなら
人間に産まれてこなくても
花に産まれても
鳥に産まれてきても
他の星の生命体(いるなら)に産まれても
同じなのですかね。
何故あえて人間に産まれてきたのでしょう?? >>153
あなたは愛されたから生まれてきたはずだ。
何者かの愛によって。
誰かがあなたの存在を望み、
今なおその力で、あなたは死なずにいる。
何があなたを生かしているのだろう。
何があなたに、生きよと命ずるのか?
何故だ、何故だ、何故だ。
何故あなたは生きねばならぬのだ。
何があなたをそうさせるのだ。
どうしてそれは、今なお消えぬのだ。
そんな小さな灯火が、この暗闇を前にして、
それでも吹き消えてしまわぬのは何故だ。 >>154
真実としては、あなたは人間として生まれたわけではなく、
ただ自分の中の人間に生まれた部分を見ているだけなのです。
私はあなた、あなたは私。
我ら今、鏡持て見る如く、見るところ、おぼろなり。 その鏡の仕組みを理解して
世界の底を理解して
終わりではないですよね? >>157
終わりとは、探求の?それとも宇宙の?或いは地獄の? >>158
探求と宇宙と人間としていきることと。
地獄は幻とおっしゃってましたね。 >>159
探究の終わりについて。
私たちは所詮地球の人類史の、西暦で言えば
2000年代という、原始的時代の人間であることを
忘れるべきではないでしょう。
宇宙の終わりについて。
私たち一人一人の個別の精神宇宙は、
ある程度の精神修養によって大きな転換点に
到達します。
それは精神宇宙の終わりではないけれど、
全世界的な変革です。
地獄の終わりについて。
地獄とは、幻想に囚われることです。
つまり地獄は幻想です。
幻想から解放されることは、地獄が終わることです。 完成についての問題があるのです。
私たちは自らを不完全な存在だと思い込んでいるので、
まだ更に何かの変身余地が無くてはと考えます。
しかしもし本当に完成というものが起きると、
そこで何もかもが、終わらなければならないのではありませんか?
完成したものは終わらなければなりません。
でなければその先には、必ず完成したものの
崩壊と破綻が来るからです。
完成は崩壊を免れない。だから完成するものは、
終わらなければならない。
しかし実際には、終わりはありません。
私たちは、やはり完成を求めるべきではないのです。
そうではなく、調和への道とは、深まっていくものです。
いくつかの大きな段階があるにせよ、それを1つずつ
深めていく、ということです。
ちょうど私たち人類の精神文明が、まさにそんな風に
発展してきたように。 それぞれの個性が
生きる意味と目的は
調和への道を進む為ということですか?
苦しんで死にたいと
日々悩んでる人には
調和の道を
理解してもらえば良いですか? >>162
自然界は、生物一匹一匹の生という視点で見ると
一見暴力的で混沌としています。
不意に奪われ、病気になり、略奪があり、命は運次第。
しかし大きな視点で生態系全体として見渡すと、
それらひとつひとつの出来事が、最終的には
厳密なバランスの取捨選択の過程であり、
調和と秩序は保たれています。
私たちは、これから更に何をどうすべきか、
という問題を考えるよりまず先に
全てはこうした調和への道を今既に進んでいるのだ、
ということに思い至るべきでしょう。
全ての物事に意味があります。
あらゆることに原因があり、それは必然なのです。
全ての悲惨は、同時にまた調和へと至る大事な道、
その悲惨が生まれた本当の意味に目を向け、
その意味を知るとき、私たちの魂の課題は達成されるのです。 >>163
ありがとうございます。
おっしゃっる通りと思います。
調和の完成形は
どのような形
どのような世界と思われますか?
これも全体の魂が設計して
終わりは無いものでしょうか。 >>164
ええ、終わりはないものだと思いますよ。
ある意味では、調和はこの世界を通して
常に完成し続けてきたのです。
そしてまた、今この瞬間も調和のひとつの完成した姿です。
時間的尺度にして囚われると、
10000年前より今現代の方が、
今現代より更に10000年後の方が、
完成した何かなのだと私たちは想像してしまいます。
しかし総体としては、何も変わらないのです。
調和と秩序は常に形を変えながら、
同じように完成し続けています。 人のチャクラエネルギーについては
どうお考えですか? チャクラの理論は生体の、精神エネルギーの
秩序を考える上で有用だと思います。
霊的成長という側面でもそうですし、
またそれ以上に、霊的な治療の側面で
用いる価値があります。
精神科医は統合失調症を投薬で抑制しようとするでしょうが、
そういうものは所詮は対症療法です。
しかしチャクラの理論であれば、そうした重篤な精神病にも
根本的な治療の処方を出すことができます。 精神病の治療に効果があるのは
初めてお聞きしました。
東洋医学の観点ですか? アルフレッド・コージブスキーによれば、精神に異常をきたした人は、
自分の頭の中の妄想に現実世界を合わせようとするという。
自分はナポレオンだと思いこみ、その認識に従って世界が動くと考えるようなものである。
これに対して正常な人は、常に現実世界を分析し、自分の頭でで考えたことを事実にすり合わせていく。 身体の病気も精神の病気も
本来のエネルギーから外れて
乱れることが原因であるなら
チャクラのエネルギーが
本来の状態に戻るエネルギーで
精神の病気も治癒するという事なら
理屈に合っていると思います。 >>168,170
精神医学の発達以前に発展した宗教体系であれば、
大抵は精神障害に対する対処法を持っています。
キリスト教の悪魔払いなどもそうですね。
チャクラの理論が精神障害に特に有効なのは、ヨガの伝統が
健康というものを神に至る道として非常に大切にしているからです。
脊髄を中心に存在する七つの神経叢、
肉体と頭脳は完全にひと繋がりのものとして認識され、
肉体−精神を横断した総合的な健康の指針が示されています。
ひと繋がりのそのチャクラのバランス、強弱を調律することで、
肉体だけではなく精神にまで調和的な秩序がもたらされ、
純粋な精神エネルギー結果として私たちの精神を神に合一させます。
つまりヨガにおいては、健康と修養と霊的達成は、同じ直線の上のものなのです。 >>171
ありがとうございます。
古来から言われている悪魔とは
自分の意識の中にある(自ら悪魔に繋がる)
ということですね。
天使との繋がりも同様に。
欲を退ける事を言われた理由は
ここにあると思います。 ええ、問題は世界の成長ではなく、
私たち自身が変化すること、
私たち自身が健康になるということです。
それに尽きますね。 世界の成長はと言えば、インターネットの普及が
ゆっくりと人の心を変え、構造化された中心体制を切り崩し、
個人主義と権威主義の対立を作り出してしまった。
豊かさにおいては、
権威主義は短期的戦略で、
個人主義は長期的戦略だ。
権威主義は富の集積が早い。
が、引き換えに自己超越的な能力が低下するので
集積した富を継続させたり拡大させたりすることが苦手だ。
個人主義的な文化は、そうした自己超越的な能力に
恵まれ本質的な価値創造を推進できるが、何もかも
自分の能力と責任に帰される世界では、時に
素朴で勇気のない依存的な人間は一切の希望を奪われる。 世界、つまり私たちの目から見る世界は
情報化によって
より広くなり、未来も同様に、国家を超越した
人類の文化が安定して長く続くであろうように見える。
すると私たちは、そういう環境では個人主義的に
なる方が戦略としては良い。戦後経済を作り上げた
権威主義的なものを切り崩し、別のリソースへ
変えていく必要があるし、現にそうなっていっている。
問題は、今この転換点における対立の問題を
どう克服するかということだ。
権威主義的な人々を排除するのではなく、
かといって文化が自然に、個人主義的に成長させている
今の子供達を、わざわざブレインウォッシュし権威主義に
回帰させるわけでもない。
ゆっくりと時間を掛けたソフトランディング。
争いのない、民族的な繋がりへの愛着を保持したままの、
進化。 「君は自分自身の力を制限しなきゃいけないと
思っている一方で、もっと沢山の人を幸せに
してあげたいとも思っている。
ならば道は2つある。
何もしないか、でなければ、両方を同じぐらいするかだ。」 権威主義のキーパーソンは、「魔女」だ。
優しくて誰も裁けない人が腐敗の中枢を成す。
皮肉なことだ。
自らの弱さから来る優しさが、他人の堕落と無責任を
寄せ集めてしまう。
魔女は現実を歪める。そしていつも、最後には
その歪みの収束点となって醜く変貌してしまう。
真理は厳密だからだ。
それを一時出し抜いたとしても、いずれ代償を払わされる。 この意味で例えばアメリカのドナルド・トランプ大統領は、
まさに現代に蘇ったアラディアではないか。
救世の魔術の使い手、虐げられる者達の救い主。
しかしアラディアが救世主でいるためには、
最期には月へ帰らなければならない。
キリストが人類に対する裁きの報いを
その身に受けて初めて聖者へと昇華されたように、
アラディアは弱者の為に真理を歪めんとした
その報いによって、醜悪な怪物へ変えられてしまうからだ。
彼女が「救い主」のまま人々の記憶に刻まれる為の最期の条件は、
自らが衆目の前で怪物に変わる前に、遠い月の地へ隠れ去ることだ。 しかし表の世界で新たな形態の「古き魔女」たちがどれだけ
生まれようと、それは大した問題ではない。
現代の霊的知識の舞台には、キリストとアラディアの、
双方の血を受け継いだ子供達が立っているからだ。
知性と生命、ロゴスとカオス、智慧と愛情、
そして真理の厳密さと創造の豊かさ。
彼らこそ人類の新たな霊的段階の扉を開くのに相応しい。
静かな夜明けのような救い主たち、燃える夕暮れのような救い主たち、
彼らの行く先々に真善美の花よ咲け。 ごんさんはどのようにして覚醒されたんですか?
瞑想ですか? >>180
それもありますが、私が何かをしたというよりも
真理が私を勝手に呼び寄せ作り上げたという方が
近いでしょうね。 人々が広く常識的に、"私"という自意識の知的課題を
乗り越えられているかどうか。
その点こそ私たちが新しい水準の文明の、
舞台に上がれるかどうかのチェックポイントになる。
個々人が自意識の限界を持っていては、環境に対して
生命が飽和した状態には適応できないし、
それ以上の社会的経済的発展も起こらない。
進化か、退行か。
そのどちらもあり得る。 真理の流布。
1つの論理を首尾一貫して述べ続けるのは簡単だ。
しかし求められていることは、70億の人に対して
70億の言語を用いて語るということだ。 浮遊した投機的経済が拡大し、
中身の無い博打のような人生が
人間の能力を低下させる。
私たちが人類の自己超越能力のヘイブンである為には、
こうした投機的状態からの慎重な分離が必要だ。
運が全てなら、人はより良い存在になろうと
努力する必要はない。
しかしそうした考え方の元では、超長期的な意欲低下と
慢性的な自暴自棄が、病的レベルにまで高まり
顕在化してくるだろう。 本来あらゆる自由の許された神の子である私たちが、
経済的是非という幻想に縛られてその能力の
ほんの一部分しか発揮できない様は、実に滑稽だ。
経済なんてものは忘れて、
できないことの方ではなく
できることの方を考えてごらん。
私たちは本当は自由なんだよ。 "私"という人類の限界。
真実、"私"なんてものはない。
それがわかってしまうと、何が起こるのか。
修行僧のようになって家に引きこもったり?
いや、そんなことは起こらない。
むしろ人は、更に利他的になり、更に直情的になり、
強い意志が生まれ、社会効率を向上させる。
なぜなら"私"なき場所では、生命本来の純粋な
表現欲求が、ただひたすら強く即応的に、
世界に対して働いていくからだ。 キリスト教は罪の宗教だ。
罪とは、世の中の悲惨な現実と、自己を関連付けること。
罪は責任感を養い、責任感が人を成長に導く。
愛と罪。内圧と外圧で人格は高まり、能力も増していく。
悲しいかな人は、罪を嫌う。あらゆる問題から、自分自身を
無関係なものにしておきたいと願う。
そして成長しなくなってしまう。無責任な人間は、成長しない。
しかし罪の意識が多いだけでも、また破綻する。
愛と罪。自己肯定と、責任感。そのバランスを見極めねばならない。 言葉は無限に浮かんでくるが、
何か新しいことをしているという感触はない。
こうした淀み、惰性への順応が
人間の魂を腐敗させる。 長生きすると、「新しいこと」はだんだん減ってくる。
挑戦も試行錯誤も、同じ方向性のものであれば
結局は慣れが生じる。
それだからこそ私たちは、よりエッセンシャルな
変化を希求するようにもなるのだが。 マイナーチェンジではなく、
フルモデルチェンジでもなく、
完全な新型の開発でもなく、
既にある概念の破壊と更新こそが重要だ。 いろんな神話がありますが
読んでおいた方が良いですか?
話がバラバラに見えて
繋がっている所もあったりして
興味があります。 >>193
参考にはなりますよ。
心理学者のユングは、世界各地の神話を分析して人間の精神構造を
物理的にではなく物語的に読み解こうとしました。
神や悪魔などのイメージ、つまり「象徴」は、人の心理状況を
把握する上での手がかりになります。
神話や伝承を読み、色々な象徴を把握して、自分の中のイメージとして
持っておくのは良いことだと思います。 顕在的世界におけるメインストリームではなく、
顕在的世界からは意識不可能な、上位システムになること。
押したり引いたり、増やしたり減らしたり。
そういうことに気を揉む必要は無くなる。
ただ上から引っ張れば良い。ごく自然に中心が整うだろう。 >>194
神と悪魔が
人の意識のイメージ
対決の歴史が
意識の変化の流れと
一致しているようで
面白いです。 権威主義が凝集し自家中毒を繰り返しているこういう状況では、
優れた人材が流出しどこかで手付かずになっているはずだ。
土地と人の余裕。時間さえ掛ければ、しっかりした根のものが
もう一度この国に芽吹くのかもしれない。 >>196
そうですね。良く出来た神話は、人類の精神の
進化の歴史そのものです。
そしてそれは、私たち個人の精神的宇宙の、
誕生と成長などについて語っているものでもあります。
赤ん坊の精神に火が灯るのは、ちょうど一つの宇宙が
創世されるのと同じでしょう。 仮想通貨の価格変動が早く終われば良いと思っている。
貨幣の価値が特定国家の信用状況という、
不安定なものに左右されなくなるのは良いことだ。
しかし今は、単なる投機上の玩具としてしか
機能していない。早く本質を顕わしていただきたいものだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています