ある人々は、内的重要性の感情があまりに肥大していて、どんな些細なことでも自分の意見を押し通そうとする。
内的重要性が、すべてを自分のコントロール下に置こうとする異常なまでの熱意に発展してしまう。「それがどんなことであれ、私は自分の正当性を全員に認めさせてやるのだ」、と—。
これは余りに有害な習慣である。このような習慣は、何よりもまず真実の庇護者を自認している本人自身にとって、人生を大変困難なものにしてしまう。

もしあなたの利益が大きく損なわれないのであれば、勇気を出して状況から少し身を引き、水面を両手でたたきつける権利を他者に与えてみよう。
もしこれが意識的にできるようになれば、魂の状態がすぐに軽くなり、自分の見解を証明する場合よりもかえって楽になる。
あなたは自分の意義に固執しないでいることが普通となり、ちょうど賢い親が無分別な子供たちを相手にするかのようにふるまうことが可能となる。
そして自分のステージが一段階上がったという事実で、あなたは満足感を覚えるだろう。

もう一つ、こんな例も…
あなたは仕事で猛烈ぶりを発揮していて、そのことでこれまで培われてきた物事の秩序を乱しているとしよう。職場では改善すべきことが数多く見受けられ、自分は正しく行動しているという絶対的なまでの確信をあなたは持っている。
しかしながら、もしあなたによる新しいやり方が、同僚たちの人生で馴染んだやり方と相容れないのであれば、良いことは何も期待できない。
これはまさに「言いだしっぺは罰せられる」という諺通りのケースである。あなたは、ゆっくりではあるが穏やかで順調な流れに乗っているのに、もっと速く泳ごうとして両手で水面を全力で叩きつけているのである。

反対するような言葉は一言も口にできず、目立ってもいけないとしたら、今にどういうことになるのだろう?
まあ、そんなにひどいことにはならない。この問題には損得をよく考えた上でアプローチする必要がある。
あなたを直接邪魔していることに対して、あなたによる批判が何かを良い方向へと変化させる場合に限り、憤慨したり怒ったりしてもよい。
しかし、すでに起こってしまった変更の利かないことについては、決して批判してはならない。
その他のことについては、全体と折り合いをつけながら、コントロールすることから見守ることへと重心を移す方法で、流れに沿って進むという原則を柔軟に適用する必要がある。
見守ることを主体にして、性急にコントロールしようとしてはいけない。加減の取り方はおのずと分かるようになるので心配はいらない。