>>430
私という観念から生じる精神活動は消せるなら消して相手にしないのがいいでしょうね

ただ非二元でもよく言われるのが心身と同一化しないということ、同一化してなければいいということ
つまり心身の活動に巻き込まれなければそれでいいという話です

例えば仏陀は弟子が死んだときに泣くのですが、悟った仏陀がなぜ泣くのかという議論があります
またマハラジや多くの覚者が不機嫌そうな顔をしたり怒ったりしてるように見えるが悟っているのにあれはどうなんだという話
クリシュナムルティは悟っても個性は残るというような発言をしています

彼らに言わせると、これまでの業でできた心身はいまここにあるので、それは何かあれば反応は当然あるということです
ただその心身を自分だとみなしていないので、自分はただ起こる心身の反応から離れているというわけです
つまり心身や心身の反応は自然と起こっているがそれを自分とみなしていない(それらと同一化していない)ということです

そうである場合、周りからは一見私から生じているように見える精神活動も実際は心身が勝手に反応してるだけということになるのでしょう

ただそれはもう悟ったような境地の方の話で、修行者はまず自身を注視し、私が絡む心身活動はなるべく生じないようにしていくのがいいのでしょうね

自分の心身活動を注視していくと、だんだん余計な私という観念は出なくなっていき、心身活動も整理されていくと思います
自分の内面が整理されていくと、やがて心身やその反応、活動を自分だと思わなくなっていき、
心身や心身の反応はただ生じ、自分はそれらから離れているようになるのではないでしょうか

消えていい余計な心身活動は消えるでしょうし、心身にとって自然な心身活動は残りますが、それからも離れていくと思います
心身とその反応と完全に離れることができれば自分はもう私でも個人ではなく悟り、真我実現なのではないでしょうか