坐禅は最もシンプルにして、ダイレクトに非二元の世界に入る技法です。
技法というと、何かに到達するための手段のように感じてしまいますが、実際には坐禅自体が結果なのです。

したがって悟るために坐禅をするなどと言うのは、まったくの的外れということになります。
何かをどこかに目指している限り、いまここの真実から遠のくばかりです。

シンプルなものほど易しい気がしますが、実際にはシンプルであればあるほど、マインドは取り逃がしてしまいます。
マインドは、ほんの少しでも混み入ってないと、考えることも捉えることもできません。
坐禅が難しくなってしまうのはそのためです。

我々は目にするものを瞬時に判断しています。
これは床だ、テーブルだ、カーテンだ、窓だ、愛犬だ、家族だ・・・

そしていま何が起きているかを、自分なりに把握しています。
いちいち意識はしませんが、たとえば夫が部屋に入ってくれば、「こういう」経緯があった夫、「こういう」考えを持つ夫、「こういう」人柄の夫と出会っています。

「こういう」というのは、過去の記憶からくる決めつけですが、そうやって決めつけた相手が自分を含めて周り中にいて、その人たちとの無数のストーリーを持ち運びながら人生を作っています。

しかし夫も他の人達も、そしてあなたも、ただあるがままにあるだけであり、全てのものに過去の記憶が投影される前の、あるがままの姿があります。

そうやってあらゆる人や物、そして起きている現象に対して一切の判断を止め、ただそのままを見ることができた時、その時初めて完全にいまにいます。
そこに、いままで一度も隠されたことがなかった真実があるのです。

一番大切なポイントは、坐禅とは、「何かの目的に向かう手段」ではなく、すでにそれが結果であるということ。

坐禅の通常の解説は、調身、調息、調心の三段階に分かれます。
正しく姿勢を調え、呼吸を調えることで、自然に心が調うというわけです。

これは大切な基本ではありますが、このことを一生懸命にやるのが坐禅だと思っている人がいて、その人に取って坐禅は、正しいやり方で彼方に向かう手段となってしまいます。
頑張れば頑張るほど、本末転倒です。

確かにこの基本形に馴染むには、少しばかりの時間が必要になるかもしれませんが、ポイントはそこではなく、一切の判断を止めて、ただいまここに在るということに尽きます。

身も心も大いなる命に任せきり、まるで自分が座布団にでもなってしまったかのように、いまここの一部としてただ在るのです。

その時、分離はどこにもありません。
なんの問題もなく、ただあるがままが在るだけです。

一切のストーリーを横に置いて、ただいまここに寛いでみましょう。
その時訪れる本当の安らぎは、人生で何が起きていても同じです。
日々の出来事や状況に一切影響されていない、純粋な存在がいまも在ります。

それが本当のアナタ。