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アランカルデックの本から抜粋。

ある段階への進歩をなし得た霊が、さらにより上の進歩を望むことによって
苦しみに打ち勝ったぶんの報酬として向上しようと、その向上に値するだけの苦境での任務を
神に求めることがあります。
善人で高潔で過去からの悪をどこにも引きずってないような人の場合これにあてはまります。
反対に、その人にとって不満の原因となったり、その人の神への反感の原因となる場合、
過去のあやまちへの償い、つまりカルマであると言えます。
ある苦しみがその人に不満をもたらさなかったのであれば、その苦しみは間違いなく試練であると考えられます
そうした苦しみは、霊自身が自発的に求めたのであり、過ちへの償いとして強要されたものではありません。
すなわち、そうした苦しみは、その霊の強い決意の証しであり、進歩のしるしなのです。

ということらしいです。
簡単に説明すると、苦難には2種類あって、カルマによる苦難と、進歩向上のためにあえて受ける苦難。
キリストの場合は裏切られたりはりつけにされる苦難を通して、より魂を成長するための試練だったとおもう。
そういう苦難の場合は、不平不満がでない。カルマの場合は愚痴や不平不満がでる。
不平不満がでるかどうかで、その苦難がどちらなのか判断できる。
でも試練の向上のための苦難の場合は、そうとうな善人で善良なタイプの人間に与えられることがあるから、
ふつうのほとんどの人の苦難というのはカルマの場合がおおいとおもう。