上級なんて昔からど屑なのさ


竹田恒和
恒徳の三男。自動車事故で女性を轢殺。周囲の助けによりわずか2年で五輪代表に復帰。
親のコネでJOC会長に就任。
生活困窮すると、元電通専務である大学の先輩高橋治之の力で、名誉職で無給だったJOC会長を月130万円の有給にしてもらう。
見返りに高橋を招致委員にする

生粋の屑

ここもド屑の家系やんけ

北白川宮成久王(北白川肇子の祖父)

1923年(大正12年)、成久王は滞仏中に運転を覚え、「一度、稔彦王に腕前を見てほしい」と、当時同じく留学中であり既に自動車運転の覚えがあった東久邇宮稔彦王と
一緒にドライブを行う。しかし成久王の腕前が怪しかった為、稔彦王は「あなたはまだ危ないからおやめなさい。よほど安全な広い通りならいいが、
お気をつけになった方がいい」と忠告した。

しかし成久王は聞き入れず、1923年4月1日には「ノルマンディー海岸の避暑地ドーヴィルまで泊りがけでドライブに行かないか」と稔彦王を誘う。
稔彦王はここでも「あなたの運転は、失礼ですが、まだ十分でないからお止めなさい」と忠告したうえで、イギリスに行く約束があることを理由にこれを断って、
ロンドンに向かった。そこで成久王はドライブの相手を同じく留学中の朝香宮鳩彦王に変え、同日朝に妃の房子内親王やフランス人の運転手等と共にドライブに出発した。

途中で鳩彦王を拾い、エヴルーで昼食をとったあと、成久王がハンドルを握った。その後ペリエ・ラ・カンパーニュの村から遠くない地点で前の車を追い抜こうとした際に、
スピードの出し過ぎで車は大きく横に滑って道路を飛び出し、成久王が運転する車は路傍にあったアカシアの大木に衝突。この事故で、運転していた成久王と助手席にいた
フランス人運転手は即死、同乗していた房子妃と鳩彦王も重傷を負った。