【コラム】ネットを騒がす陰謀論「田布施システム」の謎を安田浩一が解き明かす 後編
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ネット界隈でしきりに取りざたされる噂や陰謀論──その真相にジャーナリストの安田浩一が本気で挑む。題して「安田浩一ミステリー調査班(通称YMR)」。
第一回目のテーマは「田布施(たぶせ)システム」。9月8日に配信された「前編」は大反響を呼んだ(前編はこちら)。
山口県の小さな町が、日本を代表する政財官界の大物を次々と輩出、我が国を影で操っているという「噂」の真偽とは? なぜこのような「噂」が生まれたのか?
いよいよ後編!
■天皇の末裔
大室天皇──近所の人からは、そう呼ばれていたという。
1996年に92歳で亡くなった大室近佑(おおむろ・ちかすけ)さんのことだ。
明治天皇にすり替わったとされる大室寅之祐の弟の孫。
つまり、近佑さんにとって寅之祐は大叔父にあたる。
実はこの近佑さんの存在もまた、「田布施システム」を信じる一部の人に、いくばくかの"根拠"を与えていた。
大室家に向かう間、私が思い浮かべていたのは、町の人によって語られる、存命中の近佑さんの姿だった。
「変わった人じゃった」。町の古老はそう述懐した。
「長いあごひげが特徴の、仙人みたいな風貌でしたな。町の中に出てきては『わしゃ、天皇じゃ!』と叫んでいたこともあった」
そう、「天皇の末裔」であることを町内で訴えていたばかりか、自らが天皇であるのだと叫んでいた。
少なくとも町内でまともに取り合う人はいない。
露骨に嫌な顔をする人がいた。
避けて通る人がいた。
遠くからニヤニヤ笑いながら見ている人がいた。
多くの人は無視してやり過ごした。
「だから、本人としてはますます腹立たしく思うわけだ。
天皇じゃ、天皇じゃ言うても、見向きもされんわけだから、怒りっぽくもなってなあ……」
怒鳴られた人も少なくないという。
■「悪人ではありません」
「大室天皇」の偏屈ぶりは町中に知れ渡っていた。
近佑さんと親交のあった人の中には、少しばかりの同情を寄せる人もいる。
これまた別の古老の話。
「(近佑さんは)普段はひとのいいお百姓さん。少しばかり頑固なところがあるだけですよ。
ご本人は、本当に自分が天皇の末裔だと信じていただけで、誰かをだますために天皇を名乗っていたわけじゃない。
それを頭から否定されることが多いから、悲しかったんじゃろうねえ。
変人ではあったかもしれんが、悪人ではありません」
自らが天皇の末裔であることを信じ、周囲との衝突を繰り返し、地域から浮いた存在となった近佑さん。
「悲しい」エネルギーを発散させながら、世間の無理解と闘っていたのだろう。
■引き裂かれた家族の物語
そのエネルギーに惹かれ、完全に理解を寄せた数少ない人々のひとりが、前述した鹿島昇(弁護士で『裏切られた三人の天皇』著者)だった。
鹿島は同書のなかで次のように書いている。
<筆者はかつて田布施町の地に大室家を訪れて、ご当主の近佑氏から事の次第を詳細に説明された。
「明治天皇は私の祖父の兄で、十六歳のとき維新直前に長州藩主に呼び出され、『マンジュウをつくりに行ってくる』といって出かけたが、京都に上って即位し、以後帰らなかった。
また明治10年に軍艦で家の水場(※筆者注:海岸のこと)近くにやってきて、艦上から姿を見せ、『ソクサイ(※「息災」)かあ』と叫んだ』という。
明治天皇はアンコをつくる職人として呼び出されたというのであるが、このような苦難の半生が、のちに国家の進路を定めるときに、エンジンを逆噴射させたのではないか>
鹿島が述べるところの「逆噴射」とは、その後に続く「天皇親政」の国家建設であり、戦争へと続く道のりのことだった。
鹿島はあくまでもリベラルの立場から大室天皇説に傾き、「田布施システム」の足場を固めた。
一方、近佑さんは、おそらく親に聞かされたであろう大叔父の物語を、ずっと信じていた。
軍艦から「ソクサイかあ」と手を振る大室寅之佑の姿を、幾度も想像していたに違いない。
マンジュウをつくりに出かけたら、天皇に祭り上げられてしまった大叔父。
悲劇とも喜劇ともつかぬ話は、近佑さんにとっては、連綿と引き継がれた「家族の物語」でもあった。
つづく
現代ビジネス
2018.9.15
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57496 ■すり替え説を信じた郷土史家
鹿島氏以外にも、近佑さんを天皇の末裔だと信じ込む人がいた。
隣町の柳井市に住む郷土史家・松重正さんである。
松重さんは何度も大室家に通い、近佑さんから「秘話」を聞き出し、信じ込み、地域では数少ない「明治天皇すり替え説」支持者となった。
鹿島が「すり替え説」に基づいた本を書き上げることができたのは、地元の地理や歴史に詳しい松重さんの助けがあったからだ。
その松重さんも、2017年10月に92歳で亡くなっている。
ようやく探し当てた松重さんの長男(60歳)は、「親父が"大室天皇"を信頼していたことは事実です」と言葉少なに語った。
松重さんは若いころ(戦後まもなく)は日本共産党の活動家で、県委員会の幹部まで務めたという。
しかし党内抗争に巻き込まれて離党。
その後は自民党員となり、保守系政治家として柳井の市議などを務めたという。
「そうした経歴を持つだけに、権力を支えるものは何か、といったことを常に考えていました。
私にはよくわかりませんが、正史には存在しない"何か"を親父は"発見"してしまったのでしょう」
そう述べて、やはり困った顔を見せるのだった。
松重さんが「発見」したのは、近代日本の夜明け前に、深い闇が仕掛けられたこと、そして大室天皇の存在だったのだろう。
■「いまさら私に何ができるでしょうか」
田畑に囲まれた山の麓に大室家はあった。
家の前には「大室遺跡」と記された案内碑が建っている。
近所の人によると、近佑さんが存命中、弥生時代の土器がこの場所から発見されたのだという。
大室家の敷地内ということから、「大室遺跡」と名付けられた。
家の敷地から土器が出てくることじたい、大室家の神秘性を思わせるには十分な話だ。
私は玄関の前に立ち、ドアを叩いた。
男性が顔を見せた。
「大室天皇」こと大室近佑さんの次男だ。仮にAさんとしておこう。
Aさんは69歳。線の細い、おとなしそうな男性だった。
来意を告げると、Aさんは視線を下に落とした。
「その話はしたくないんですよ」
ぽつりと漏らす。会いたくない人に会ってしまったときに誰もが見せる、嫌悪と諦めの表情が浮かんでいた。
そうですよね──さんざん言葉を探しあぐねて、私もそう返すしかない。
沈黙。静寂。鳥の声しか聞こえない。
Aさんは、心優しい人だった。
遠方から訪ねてきた私への気遣いなのだろう。ため息と一緒に、ゆっくり口を開いた。
「これまでにもいろいろな人が訪ねてきました」
視線を落としたまま、Aさんは続ける。
「歴史家や研究者、作家。そして、よくわからない人たち。
いずれにせよ、いまさら私に何ができるというのでしょう。
どんな答えをすればよいのでしょう」
■冷たい視線 残酷な言葉
天皇の末裔かと問われ、「はい」と頷けば人は喜ぶのか。
それとも冷笑するのか、怒り出すのか。
逆の答えをすればどうなのか。
「歴史家でもない私には、お答えできるだけの何の材料もありません。
じゃあはっきりと否定しろ、と迫る人もいますが、それにしたって、私の知識のなかには根拠と呼べるものがない」
だから、ずっと言い続けてきた。
「知りません」「わかりません」
そう答える以外に、どんな言葉があったのだろう。
集団で訪れ、矢継ぎ早に質問してくる者たちもいた。
答えろ。教えろ。何か知っているはずだ。何かひとつでも天皇に繋がる物は残っていないのか。
みなでニヤニヤ笑いながら、Aさんを取り囲んでいた。
詰問することだけが目的のような人たちだった。
一方で、「大室天皇」を信じ切っている人もいた。
いずれにせよ、誰の期待に応えることもできない。
「はっきりしていることは、ただひとつ。
私の父親は確かに『天皇』だと吹聴してまわり、そのせいで、家族は大いに苦しんだということです」
Aさんは声を絞り出すようにして、つぶやいた。
「子どものころから、いじめられてきました」
学校では、同級生たちが囃し立てた。
「天皇陛下の子だ!」「おい、皇太子!」
何を言われても黙って耐えた。
つづく 地元で就職し、社会人になっても同じだった。
子どものように露骨にからかう者はいない。
しかし、陰で話題にされているのは知っていた。
職場の離れた場所から指をさし、くすくす笑っている者たちもいた。
上司から突然、こう言われたことがある。
「大室家なんてもんは、存在してはいけないんだよ」
ニセ天皇と言いたかったのか。あるいは単なる冗談だったのか。
その真意はAさんにもわからない。
だが、そうした目で見られているのだということは、理解できた。
「いまの時代であれば、いじめ、パワハラみたいなものですよ。
でも、あの頃は笑ってすませるしかありませんでした」
■「私の代で終わりにします」
Aさんは、父親の近佑さんと「天皇」について話すことを避けていた。
その話題は、自分にとっては厄災でしかないからだ。
大室家は農家だった。
父親はトマト、きゅうりなどの野菜をつくっていた。
だが、一方で大室家の歴史を研究する歴史家を任じてもいた。
歴史を紐解く作業に熱中すればするほど、本業はおろそかになる。
だからAさんの子ども時代の生活は苦しかった。
「私以上にオフクロが苦労したでしょうね。
オフクロもまた、好奇の目で見られていましたし、父親に代わって畑仕事もひとりでしなければならなかった」
だから──とAさんは続ける。
「この話は私の代で終わりにします。
信じるも信じないもない。実際、我が家には何もない。
そして、たとえば父親の話すことが仮に真実であったとして、それがどうしたというのでしょう。
何も変わりませんよ」
過ぎ去った時間は戻らない。過去を上書きすることはできない。
いじめも。冷笑も。貧しかったときの記憶も。
私が大室家から引き上げる際、Aさんは直立不動の姿勢で見送ってくれた。
バックミラーにAさんが深々と頭を下げる姿が映った。
そう、これで終わりだ。終わりにしよう。
■「田布施システム」はなぜ広まったのか
前編で報告した通り、「田布施システム」は元ネタとして鹿島昇らの著作があり、ネットユーザーによって肉付けされ、世間に流布されることとなった。
根幹となる「明治天皇すり替え」には何の根拠もないが、陰謀論としての完成度はそれほど低くはない――正直に言えばそう思う。
「明治維新」や「皇室」をブラックボックスに見立て、世の中の様々な不条理をそこに押し込めば、いかなる物語だって量産できる。
デマとはそういうものだ。だからこそ危険だ。
ポンと膝を打ち、何かがわかったと思い込んだ瞬間、私たちは誰かを勝手に悪魔に仕立て、天使にも仕立て、無自覚のうちに偏見を抱く。
偶然と必然が複雑に絡み合った歴史の営みに、人柱を捧げているのだ。
そもそも、「システム」と呼ぶことができるほどの力を田布施という小さな町が持っているのか。
総理大臣を二人、出した。
"結果"が出ているのはこれだけだ(しかも二人は兄弟である)。
同じ県内の萩市は8人もの宰相を輩出しているではないか。
そもそも田布施町内で「田布施システム」を信じている人など、おそらくいない。
しかし──私は初めて足を運んだ田布施に、何か独特の雰囲気を感じたのは確かだ。
つづく ■そこに、かつて「王国」があった
「そう、何かあるかもしれんねえ、この町には」
生真面目な表情でそう話すのは、地元の郷土史家・林扶美夫さん(82歳)だ。
林さんは陰謀論者でもなければ、安易にデマに加担するような人ではない。
古くから「田布施地方史研究会」の代表を務め、地元に関する歴史発掘に努めてきた歴史家だ。
当然、「田布施システム」なるものは一笑に付す。
そんな林さんでも、田布施には不思議な歴史の文脈が流れているのだという。
「かつて、このあたりは熊毛王国と呼ばれていました」
天皇すり替えどころの話ではない。
王国である。
ただし、弥生時代の話だ。
「熊毛地方(田布施を含む近隣地域のこと)は、かつて瀬戸内海の要所であり、人や文化の集積地点として栄えました」
大和朝廷が完成するまで、人口が集中する地域は独自の小国家をつくった。
そのひとつが「熊毛王国」だったらしい。
町内に古墳が多いことも田布施の特徴だ。
現在、確認されている古墳の数は85基。
山口県で最古の古墳である国森古墳も田布施の町はずれにある。
また、そうした海上交通の要所という"地の利”から、大和朝廷成立後も、朝鮮半島や中国大陸とは交易の中継点として繋がりをもった。
この地に渡来人が住み着くケースも少なくなかった。
「田布施システム」を"朝鮮人支配"と結びつける説も、実はそこが根拠となっている。
実際、7世紀の「白村江の戦い」(朝鮮半島の白村江を舞台とした倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争)では、戦後、多くの朝鮮半島出身者が日本に渡り、その一部は田布施で下船し、そのまま定着したという。
「いまでも、その痕跡は町内に残っていますよ」と、林さんが教えてくれたのは、「神籠石(こうごいし)」の存在だ。
「要するに"朝鮮式山城"と呼ばれる遺跡です」
日本に渡った朝鮮半島の人々は、敵の来襲に備えて山城をつくった。
切り石を、レンガを積むように並べる手法は中国大陸由来とされ(万里の長城も同様の積み方である)、これが後に「朝鮮式山城」と呼ばれるようになった。
「つまりね」と林さんが続ける。
「遠い地域の文化が残されている。
人が行き来している。
こんな小さな町でも、歴史を紐解けば、世界と繋がっているんだよ」
林さんが「何かある」というのはそういうことだ。
■神籠石が物語るもの
私は神籠石、つまりは朝鮮式山城を探すべく、町のはずれ、光市との境界にある石城山の山中に入った。
アップダウンの激しい山道を歩き、突然視界が開けたその先に、神籠石は残っていた。
確かに形状は「レンガ積み」だ。
日本の城壁で用いられる石垣(菱形の石を組み合わせた形状)とはまったくの別物だ。
こんな山奥に、朝鮮半島の文化が生きていた。接点があった。
「朝鮮人支配」などというバカバカしい偏見の正体は、おそらくこれだろう。
「支配」なんかじゃない。
これは、異なった地域が、国が、それぞれの歩みを進めながら、どこかで繋がっていたという証拠なのだ。
そうした文化の交差点で、たまたまふたりの総理大臣が輩出された。
権力構造を説明するに都合の良い「天皇すり替え説」が生まれ、それを信じる人々がいた。
それだけの話だ。
「システム」を匂わせるものなど、この町には何一つ残っていない。
田布施に残るのは、歴史の営みだ。
東アジアの槌音だ。
そして、歴史をつくってきた人々の息遣いだ。
整然と積み上げられた神籠石が、そう訴えているようにも思えた。
(文中一部敬称略)
終わり 「田布施システム」なんちゃ地元の人間も
しらんほじゃがのぉ
朦朧妄想論はやめちょくれ〜 >>5
天皇制があるかぎり日本の体制は盤石ニダ
天皇制を無くせば日本は大混乱するニダ
だから天皇はすり替えられた別の人だと疑ってくれる日本人を増やしたいニダ これ田布施町の人すら知らないんだけどw
安部ちゃん天皇につながるなら
オカルト話でもなんでも首を突っ込みます
バカチョン!笑 安部ちゃん天皇につながるなら
オカルト話でもなんでも首を突っ込み利用します
バカチョン!笑 >>7
竹内文書が、オーパーツだと証明するため
天皇は歴史泥棒だ を検査したら、釜山出身の(漢字で)スモモ 明博 と明仁の遺伝子検査を強行させたw
安田の親友達
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