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「赤狩り安倍」こと長州田布施閥、特高安倍源基は19人殺した

1894年、山口県熊毛郡曾根村(現平生町)に生まれた。山口県士族安倍半次郎の長男[注釈 1]。
山口中学、徳山中学(現山口県立徳山高校)、第六高等学校を経て、1920年、東京帝国大学法学部を卒業し、内務省に入省。

1932年、警視庁において初代特別高等警察部長となり、赤色ギャング事件や日本共産党査問リンチ事件を通じて「赤狩り安倍」の名[要出典]を轟かせた。
安倍が特高部長であった1933年には、19人が特高警察の過酷な取調べで死亡しており(19人は戦前で最多[1])、その中にはプロレタリア文学作家の小林多喜二も含まれている。
1936年の二・二六事件に際しては、特高部長として戒厳会議の構成メンバーであった。
宮崎学の『不逞者』によると、1937年12月、右翼団体風雲倶楽部主宰の千々波敬太郎に社会大衆党党首・安部磯雄襲撃を依頼したとある [2](安部磯雄襲撃事件を参照)[注釈 2]。その後、内務省保安課長、同警保局長、警視総監、企画院次長及び企画院総裁(心得)を歴任した。

太平洋戦争末期の1945年、鈴木貫太郎内閣で内務大臣に就任。終戦時の国務大臣兼情報局総裁下村宏によれば、ポツダム宣言受諾には豊田副武などと共に反対意見[3]だった。
安倍自身が著書で語るには、終戦に反対の閣僚は誰一人いなかったが、国体護持について明確な返答をするよう連合国に再照会すべきという意見だったのが、陸軍大臣阿南惟幾、司法大臣松阪広政、そして安倍自身との事である[4]。

戦後、A級戦犯容疑者の一人として逮捕された。しかし、東條英機ら7人の死刑執行の翌日の1948年(昭和23年)12月24日、不起訴・釈放となった[4]。
公職追放となり[5]、その後、岸信介・木村篤太郎・安岡正篤らと共に新日本協議会を結成、代表理事に就任した。のちに全国警友会連合会会長、東京都警友会会長、松陰会会長を歴任した。従三位勲一等に叙位・叙勲される[要出典]。

1956年の第4回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で山口地方区から立候補したが、落選している。なお、自民党が参院選山口地方区(山口選挙区)で敗れたのは、この時と1989年(日本社会党の山田健一が当選)、1998年(無所属の松岡満寿男が当選)の3回しかない。

1954年の新警察法による警察行政の中央集権的一元化実現に尽力した[6]ほか、旧内務官僚出身者を中心とする自民党右派で構成された、自由民主党政務調査会治安対策特別委員会(治対委)[注釈 3]の中心人物として活動した。
岸信介は第1次岸内閣の国家公安委員長候補に安倍を推薦していたが、この案は強い反対に遭い挫折している[6]。