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(資料: 日中共同歴史研究から) つづき
南京を攻略した後も,日本軍は相変わらず捕虜をまとめて虐殺しつづけた。
第 13 師団の山田支隊は日本軍の入城式の前日,揚子江沿いの幕府山の麓で数回に分けて約 2 万人を虐殺した。
現在発見されている日本軍の南京戦闘詳報においては,その戦果として具体的な殲滅人数はほとんど列挙されているものの,捕虜の人数はほとんど記載されていない。
日本軍が南京戦で,上から下まで捕虜の虐殺政策を徹底的におこなったことは間違いない。
退路がなかったので,中国の守備軍の一部の将兵は軍服を脱ぎ武器を捨てて,南京の難民区に逃れていった。
「敗残兵」を捜査し捕まえるために,日本軍は男性の顔つきだけをもとに勝手に判断した。そのため,多くの民間人が軍人と誤認され殺害された。
12 月 24 日だけでも金陵大学の難民所であるテニスコートで,一日に二,三百人が日本軍に五台山と漢西門外に連れ出され虐殺された。
市街地と同様に,日本軍が南京近郊の広大な農村地帯で起こした民間人虐殺の暴行も,猖獗をきわめた。
1938 年 3 月から 4 月まで,金陵大学社会学部スマイス(Lewis S. C. Smythe)教授が行なった江寧,句容,凓水,江浦,六合などの地域でのサンプリング調査によると,
日本軍の虐殺による死亡者数は 3 万 950 人で,民間人が 1 千人当たり 29 人死亡し,7 世帯毎に 1 人が殺害されたことが判明した。
年齢構成から見ると,15−59 歳の死亡者数は全体の 77%,60 歳以上の老人が 12%を占めていた。