http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50806

 8月9日の長崎「原爆の日」、朝日新聞に掲載された田上富久・長崎市長の「平和宣言」を米国の首都ワシントンでじっくりと読んだ。内容は核兵器廃絶への訴えである。

 ワシントンでは今、北朝鮮の核兵器にどう対応するかが必死で論じられている。超大国の米国にとっても、北朝鮮の核は「明白な危機」とされる。まして日本にとって、北朝鮮の核武装はまさに目の前に迫った脅威だろう。核兵器の廃絶を訴えるならば、北朝鮮の核兵器廃絶を最優先で求めるべきである。

 ところが長崎市長の宣言に北朝鮮の核兵器への言及はなかった。世界にとって最も切迫した問題である北朝鮮の核の危機には一言も触れていない。代わりに強調されていたのは、日本国政府への非難だった。

 違和感を禁じえなかった。日本にとって目の前の脅威である無法国家の核武装をなぜ非難しないのだろう。

核廃絶に向けた具体的な政策は?

 私は被爆者やその家族の方々の苦しみを人一倍理解し、同情を寄せているつもりだ。

 1994年に私は米国のCNNテレビの討論番組に出演し、「長崎への米軍の原爆投下は、きわめて非人道的な戦争犯罪だ」と主張したことがある。CNNの「クロスファイアー」という人気討論番組だった。番組には広島、長崎両方の原爆投下ミッションに参加したチャールズ・スウィーニー退役将軍が登場した。司会は元大統領首席補佐官のジョン・スヌヌ氏だった。

 米国側の参加者たちは、「徹底抗戦する日本に対して本土上陸作戦での大被害をなくすために、原爆投下で降伏を早めることが必要だった」という意見を述べた。私はそれに対して核兵器の非人道性を強調しながら、以下の趣旨を述べた。スピーディーなやり取りの討論番組なので、一段と熱を込めて話したことを覚えている。

「原爆投下の時点では、アメリカ側はもう日本の降伏を確実だとみていた。ソ連の参戦もあり、特に2発目の長崎への投下は、戦争の早期終結が目的ならば不必要だった。もし日本側に原爆の威力を示すことが目的ならば、無人島や過疎地に投下すれば十分だったはずだ。合計20万以上の民間人の犠牲は、戦争継続の場合の戦死者の予測数では正当化できない」

 米国の原爆投下に対する私の基本的な考え方は今も変わらない。

 その点を強調したうえで、日本側の「平和宣言」や「反核宣言」への違和感を説明したい。

 長崎市長の今回の「平和宣言」は、日本の核抑止政策や世界の安全保障政策を非難している。それならば、核廃絶に向けた政策を語るのが自然だろう。ところがその政策論がない。

 長崎市長は、「核兵器を持つ国々と核の傘の下にいる国々」に「核兵器によって国を守ろうとする政策を見直してください」と述べる。また、日本政府に対しては「核の傘に依存する政策の見直しを進めてください」と述べていた。だが、これらの記述はいずれも政策論ではない。ただ「してください」と訴えるだけで、安全保障政策を変えるプロセスも代替政策もまったく示していないからだ。

中略

世界の現実から目をそらしてはいけない

 過去70年、広島や長崎で核兵器の廃絶をどれだけ叫んでも、現実の核兵器の削減や廃絶につながることはなかった。反核運動は、その現実から目をそらさず、もっと論理的、合理的に進める必要がある。

 もし、日本が真剣に核兵器の削減や不拡散を求めるならば、まず何よりも北朝鮮の核武装を最重点の抗議対象とすべきだろう。同時に、核戦力の強化を進める中国にも強く反対すべきである。だが、日本の反核運動はそんな動きはみせていない。北朝鮮や中国を非難する声はなぜか聞こえてこない。

 国連の核兵器禁止条約に対して日本政府は明確に反対を表明した。岸田文雄前外相や別所浩郎国連大使ら政府当局者たちは「米国の核の傘に依存する日本が核兵器全面否定のこの条約には賛成できない」「北朝鮮がこんな状況なのに、核保有国の存在を認めない条約には絶対に反対だ」と語っていた。

 この種の発言は、国内の反核勢力から、核兵器自体の容認や核戦略への同調、さらには被爆者たちへの冒涜だとして曲解されることが多い。実際に朝日新聞(8月10日付)は安倍首相が核兵器禁止条約に賛成しないことを非難して、「長崎の被爆者、首相に『どこの国の総理か』」という大見出しの記事を載せていた。だが、日本の安全保障における「核の傘」の効用を無視して、その無条件の放棄を訴えるスタンスこそ「どこの国の新聞か」と反論されても不思議はないだろう。