にこ『可愛いあなたに』
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半年ぶりに例の部室の扉を開くと、眠たげな凛の横顔が目に入ってきた。人がドアを開けたというのに机に片肘をつき、向かいの壁を眺めている。窓から差し込む日の光が相当に気持ち良いのか、それとも眠たいだけか、こちらには気付いていないようだ。
そのけだるげな視線の先は…今や懐かしきμ'sの九人が、はち切れんばかりの笑顔で飛び上がる瞬間を写したポスター。あれは確か、暑い夏の日にしんどい思いをしながら撮影したものだ…思い返すだけで汗をかきそうになる。 久しぶりの彼女の制服姿は思ったよりも変わって見えず、なんだかホッとした。だがよく観察してみると、私が覚えているよりもやや髪が長い。加えて眉の形や、化粧なんかにも手を加えたのだろう。それらが彼女に落ち着いた雰囲気を纏わせていることに気がついた。
そんな横顔を見ているうちに私は、凛もこうして大人になっていくのだな、などと趣深いことを考える。とはいえその持ち前の明るさや、四六時中大好きと公言していたあの同級生たちとの関係だったりは、変わっていて欲しくない。
そんな願望を抱きつつ、私は声をかけた。
「凛、久しぶり」 「うわっ、にこちゃん!どうしてここにいるにゃ!?」
先ほどまでの印象とは一転、予想したよりもずっと大きく、明るい返事が返ってきた。語尾は相変わらず可愛らしい猫のそれである。凛はすぐさま立ち上がると、トテトテと私の方に駆け寄ってきてくれた。
なんだ。やっぱりこの子はあまり変わってない。 嬉しそうに話しかけてくる彼女の姿はどこか、自分の妹と重なって見えた。昨年は同学年かのような付き合いをしていた訳だから、違和感を覚えないでもないけど…高校生と大学生って結構違うものね。今日は年上らしく振る舞ってみようかしら。
お姉さんらしい声の調子で、この来訪の目的を告げた。
「どうしてって…後輩のラブライブ予選の前に、励ましに来たに決まってるじゃない」 だが部室での再会に少し舞い上がっているのだろうか、会話は上手く繋がらない。
「にこちゃん、なんかお洒落…」
目を丸くして、どこか憧れてくれているような気さえするその表情を見る限りは、昔よくされた皮肉の類いではなさそうだ。
これには違和感どころの騒ぎではない。 …申し訳ないことではあるが、この子に褒められるのはちとむず痒い。もったいないとは思いつつ、昔のようにどこかお互い意地の張ったあのスタンスに戻すことにした。
「あら、あんたが素直に褒めるなんて珍しいわね。しばらく見ないうちに、少しは成長したってことかしら」
この明らかに素直ではない返答で、彼女は私の意図を察してくれたようだ。目をじぃっと細めると先ほどとは一転、声の調子を落としてポツリと、
「…中身は相変わらずだにゃ」
そしてはぁ、とため息ひとつ。そうそう、あんたとはこうでなくちゃね。
「あんたの減らず口も相変わらずね」
口は悪いけど、決して仲が悪いわけではない…と思う。こんな風に、半年もの時間が流れた今でも昔と同じような掛け合いができることに、有り難さを感じた。 「ところで、他の連中は?」
「今日はね、休みにしたの。これから予選の本番まで最終調整しないといけないから、最後のお休みだよ」
そうだったのか。危うく誰にも会えずに帰るところだった。
「それで、あんたは一人で何してたのよ」
「お昼寝」
………なんか、昔より幼くなってない? 立ち話をするのもなんだからと、凛がパイプ椅子を勧めてくれたので腰かけたところ、三年もの間お世話になっていたその肌触りが非常に懐かしく感じる。だがその一方で、なんだか座り心地に馴染みがない。
今や私はこの部屋の住人ではないのだ。当時は私の好み一色であったこの部屋の壁も、花陽が愛してやまないアイドルたちに塗り潰されてしまった。私に関係しているものといえば、最後に置いていった伝伝伝と…壁に貼られたあの九人のポスター。それくらいであろう。
ここの部員はあの奇跡のような成功にすがらず、卒業していった私たちに弱音を吐くこともなく、未来だけを向いて走り続けている。正直に言ってしまえば少し寂しい気もするが、これでいいのだろう。
そんな無鉄砲な青春の中にこそ、μ'sの歌は流れるのだから。 「それで、どうなのよ?」
すると腕を組み、何やら考え始めた凛。何がとは言わなかったが、尋ねたいことは伝わったようだ。ここで聞いているのは当然、すぐそこに迫った第三回ラブライブ予選への意気込みである。
音ノ木坂の新生グループはすこぶる前評判が良く、あらゆる場所で優勝候補と持てはやされているが…勝負の世界は残酷なものである。もし少しでも天狗になっているようなら、その鼻を叩き折ってやらねばならない。今日はその為に来たのだ。 しかし、期待していたような傲慢な意気込みは返ってこなかった。
少し険しい表情でうんともすんとも言おうとしない凛。
私を直視するのを避けているかのように、その視線はふらつく。 しばしの静寂の後、彼女は私の手元に視線を落とした。
そして小さな声で、「分かんない」と一言だけ呟く。
予想外の展開である。 人づての情報を聞くに、そこそこ上手くやっていると思っていた。何回か彼女達のライブを見に行ったが、昨年に勝るとも劣らないクオリティと人気を誇っていたと記憶している。
凛も当初こそ覚束なかったものの、徐々にリーダーらしく振る舞うようになって…少なくとも私からはそう見えた。これでようやく安心して大学生活を送れると、希や絵里と喫茶店で笑い話をしたのは記憶に新しい。 元々、卒業していく最上級生はアイドルを続ける彼女たちにあまり干渉しすぎないことを決めていた。勿論出来ることがあればしてやりたいが、それとは話が別である。
これは、卒業した私たちがどれほど力を貸したとしても、本質的にアイドルとしての活動を手助けしてあげることはできない、という考えからだ。そもそも、その必要性すらあまり感じていなかった。
しかし今目の前のリーダーの姿を見るに、看過できない問題が転がっているように思える。 「あんたこの間なんかのインタビューでさ、絶対優勝します!って」
「ん、言ったよ」
伏目のままに凛は続ける。
「そんなに悪くはないと思う」
らしくもない弱気な発言に驚く。本番はすぐそこまで迫っているというのに。
「リーダーがそんな調子でどうすんのよ」 浮かない顔で彼女が続けた言葉には、さらに驚かされた。
「リーダーが凛で良かったのかって、最近いつも思うんだよね」 「穂乃果ちゃんだったら、って・・・」
その神妙な面持ちからは、とても冗談まがいの自虐を行っているようには思えない。
この自信の無さはいったい、どういう訳なのだろうか。 自信といえば、根拠があるのか無いのか分からないが、穂乃果はいつも呆れるくらい自信満々に胸を張っていた。あんな自信は、誰でも持てるものでも無いし持たれても困るが…皆の先頭を走る者として欠かせないのも事実だ。
けれどもそもそも自信なんてものは成功する中で身につけていくものなのであって、あのバカみたいに最初から持っている方がおかしいのだ。今回の大会で成功してようやくリーダーとしての自信が身につくというのが自然だろう。
気休めは好きではないしキャラでもないが、今日はお姉さんとして来ているのだ。自分の言葉に説得力があることを信じ、気休めと分かった上でも自分の思っていることを伝えることにした。
「何馬鹿なこと言ってんのよ。あんた達、優勝候補だって書いてあるの見たわよ」 気休めにふさわしい、弱い愛想笑いが返ってくる。
「みんなのおかげだよ。リーダーが穂乃果ちゃんだったらきっと、もっと凄いグループだったと思う」
彼女が先ほどから見せる、穂乃果への執拗なこだわり。
合点がいったような気がした。 この半年間凛はずっと、あの太陽のような少女と自分を比べていたのかもしれない。
そんな彼女をほっとくような仲間では無いに違いないが…メンバーの誰にも、最愛の幼なじみにすらその陰りを見せず、リーダーとして明るく振る舞ってきたのだろうか。
ことあるごとにメンバーの物真似をして見せたり、可愛さへの憧れをひた隠しにしていたり…一見何も考えていないように見える彼女が、実はかなりの演技派であったことを思い出す。 自嘲的に口角を軽く上げ、軽口のように自己否定を繰り返す彼女からは、その表情以上に陰鬱としたものを感じる。凛が私に対してこれほどまでにシリアスな語り口をしたことが今まであっただろうか。
こっちまで、焦りが出る。 「いつまでそんなこと言ってんのよ。μ'sとは方向性をガラッと変えて、ちゃんと凄いグループに仕立て上げたじゃない」
不出来な慰めだ。言った後で、しまった、と思った。 ゆっくり顔を上げた凛は躊躇いがちに、この一連の会話で初めて私と目を合わせた。
そして、なんとも心もとない声で問いかける。
「ねぇ」 「にこちゃんは、μ'sと比べてどう思う?」
どうにも堪え切れないかのようにこぼれだしたその一言に、部屋の空気がピンと張り詰める。 「…それ聞いちゃうの?」
なんと答えれば良いか見当もつかず、こんな不誠実な返答が精一杯であった。
「…ごめんなさい」
今にも泣き出しそうな彼女の口から漏れ出たその謝罪は、何に対してのものだろうか。 本当に、大変だろうとは思う。あの九人は、思い返せば思い返すほど、特別で、最強で、奇跡みたいなもので。きっと散々比べられて、辛い思いをしてきたことだろう。
私が新生グループのライブを見る時だって、はっきり言ってあの九人のことを思い出さずにはいられない。あの中に私がいたらどうなっていただろうか、μ'sとはイメージを変えたのか、絵里の言いつけを守って踊れているか。
要するに、「あの頃」より上手いのか、下手なのか…
あの光はあまりにも眩しすぎる。それは輝かしい思い出であると同時に、呪いのように彼女をじわりじわりと追い詰めていた。 「はぁ…愚問ね。超スーパーアイドルにこにーのいたグループに、そう簡単に勝てる訳ないじゃない」
相変わらず私の口からは、ごまかしと安い慰めしか出てこない。 「卒業までに超えられるもんなら超えてみなさいよ…にこにー不在じゃ、苦労するとは思うけどね」
「うん」
生気を欠いた凛の返事。
だめだ。これでは、それこそ気休めにしかならない。 仲間に必死に隠してきたらしいその弱さを、どう言うわけかさらけ出した凛。
きっと、私しかいないのだ。
彼女を、心からの笑顔でステージに立たせてあげられるのは私しかいない。 笑顔という言葉に、しばらく忘れていた熱い感情が湧き上がってくるのを感じる。
宇宙ナンバーワンアイドルは、まだ私の中にいるだろうか。
机の下でそっと、左の中指と薬指を折りたたんだ。にっこりの魔法だ。
私ならやれる。 こんな時に必要な言葉は何か。意外にもすぐに答えは出たが、それは私が最も苦手とするものであった。
それは例えば、うざったらしいほど真っ直ぐなμ'sのリーダーが放つ言葉であり、
それは例えば、可愛い自分に変身したいとずっと願っていた凛を、最後の最後に勇気づけた最愛の幼なじみの一言。 覚悟を決めろ、矢澤にこ。
「凛。一つだけ、言っといてあげるわ」
いや。宇宙ナンバーワンアイドル、にこにー。 やや嘘も交えて、もっともらしく語る。
「私ね、この半年で色んな人見てきたわ。それこそ雑誌のモデルから、トップアイドルって呼ばれる人まで」
微妙なラインだ。全くの嘘かと言われると必ずしもそうではないが、やや盛ってしまっている。でも別にいい。 「…それでもね、凛」
大切なのは、凛の目を真っ直ぐ見つめること。
そして、こっ恥ずかしくなるほど正直な思いを隠さず、ありのままにぶつけることだ。 「音ノ木坂の新リーダーより可愛いやつなんて、誰一人としていなかったわよ」
これには、何一つ嘘をついたつもりはない。 「いくらなんでも言い過ぎだよ...」
凛はしばらく、何を言われているのか分かっていないようであったが、次第にその言葉の意味を飲み込むと、頬を染め下を向いてしまった。
ここが勝機と見て、畳み掛ける。
「大真面目よ。だから凛、自信持ちなさい」 真っ赤な顔して、まさに猫のような声を上げる凛。
「にこちゃん、いつからお世辞言うようになったにゃあ!」
私たち、そんな関係じゃないでしょ。
「お世辞じゃないわよ」 次は流石にちょっと言い過ぎかもしれない。でもそれでいい。
これはどんな女の子にも効く、魔法の言葉。
そののぼせ上がった頬を両手で挟み、諭すようにして語りかける。
「凛、覚えときなさい」 「あんたが、世界で一番可愛いんだから」
アイドルたるもの、それくらいの気持ちでステージに望まなければ。
そして、誰にだってその資格はきっとある。 「…かよちんよりも?」
あんたたちなんて全員、可愛くてしょうがないわよ。順位なんて決められるものか。
そう言いたい気持ちをぐっと堪え、自信たっぷりに返す。
「花陽よりもよ」 「真姫ちゃんとか、ことりちゃんよりも?」
「もちろん」
「何それ…」 いっそう顔を赤くして、机に突っ伏せてしまった凛。
そんな彼女の姿を見ていると、先ほどの言葉もあながち言いすぎでは無いように感じる。 そして、どのくらいの時間が経っただろうか。ふっと顔を上げる凛。
「…あれ?にこちゃんよりも可愛いの?」
あ、しまった。この子はとぼけたような顔して、どうでもいいとこだけ鋭いんだから。
…そんなわけないでしょうが。 「ごめん。あんた二番だったわ」
凛はしばらくポカーンとこちらを見つめていたが、その口元がようやく少しほころんだ。
それで、両手を大きく上げて伸びをすると、
「ま、にこちゃんには間違いなく勝ってるにゃ!」
イタズラっぽい顔でけしかけられてしまった。 ふふっ。あんたがそのつもりならと、昔のように喧嘩っぽく声を張り上げる。
「あんたがにこに可愛さで勝とうなんて、百年早いわよ!!」 吹っ切れた様子で、凛の顔から笑みがこぼれた。
「えへへ…なんか懐かしいね」
あの日々がどれだけ楽しかったものであるか、今更気付かされる。
もう戻りようはないけれど、それでもこの関係は今も続いていて、この先もなくなることはきっとない。
それだけで、私たちは進んでいける。 頑張れ。私にはもうそれを背負ってあげる事はできないけど、ずっと見守っててあげるから。
凛の背中を叩いた。昔からこうすると喜ぶのだ。
「まぁ頑張ってきなさい。あんた達なら大丈夫だから」 「うん!」
彼女は息を大きくスーッと吸い込むと、今日一番大きな声を上げた。
「にこちゃん、凛頑張って歌うから!!絶対近くで見ててね!!」
やっぱり可愛い。素直で無邪気で、明るくて。この子をリーダーに据えたみんなの判断は、何も間違ってなかったのだと改めて確信する。 「ふふっ、楽しみにしてるわよ」
彼女がセンターを務めるそのライブは、きっと世界で一番輝くステージになるに違いない。 たくさんの嬉しいコメントありがとうございました。
読んでいただいた全ての方、こちらこそ愛しております
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