海未「オレンヂ」
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外れのガス燈の下で待ち合わせ。私は目を眇めて来た道を振り返り、未だ来ぬ待ち人を捜しながら、私を喚ぶ声に、或いは駆け寄ってくる跫に耳を欹てておりました。
遠くの方で点消方(テンショウカタ)が、ホヤを取り替えるのか、冷えた鉄の柱に梯子をかけています。
夕餉の匂い溢るる誰そ彼。氷る指を吐息で溶かすと、母が持たせてくれた懐中時計の華奢な鎖が、袂でシャリシャリと鳴るのが聞こえました。
「海未ちゃん」
その幽かな音の間隙に、件の待ち人の、あのガス燈のようにあたたかな声が滑り込みます。私は「遅いですよ」と嘯いて、本当は知っている、母の懐中時計の少し進んでいること。 「えへへ──御免なさい。色々、あったの。準備とか」
彼女はそんな私を譴責することもなく、困ったように微笑(わら)います。準備というのは、その身丈に見合わぬほど大きな、稲鶴の家紋の入った風呂敷包みの事だと、私でさえ一目で分かりました。
さっきは遠かった点消方が、気付けばもう程ない距離のガス燈に火をとぼします。
「……わたし、富岡へ往くんだ」
重々しげに口を開いた親友の貌(かんばせ)を、私は見ないよう努めました。悟っていたのです。彼女があの家を出ようとしていること──そしてきっと、これが訣別であろうこと。 パタパタ走って来た点消方が、私たちのいるガス燈へ点火棒を翳しました。ぼぅ、とガスの燃える音がして、おそらくこれが、彼の今日の最後の仕事でしょう。踵を返すその横を、ハイカラーの紳士がすれ違って往きます。
彼女は貧しい米農家の娘でした。「稲穂に果(みのり)のありますように、で、穂乃果。妹は雪穂。えへへ、米農家らしいでしょう」──幼少の砌。あれからもう幾年経つでしょうか。
穂乃果はそれから、私の名の由来も聞きたがりました。「海のように廣大でありながらなお飽き足ることのない、死ぬまで未完の女であれ──で、海未、と」そう答えると穂乃果は“園田”らしいねと淋しげに諂笑しました。私の家は、江戸より続く華族でした。 「富岡へ往って、お蚕さまから糸を縒って、お金を稼ぐんだあ。すごいんだよ、レンガ造りの建屋なんだって。わたし、レンガなんて、錦絵でしか見たことないよう」
そう云って彼女は楽しそうに──夢想の処女(おとめ)そのままに、両の手を胸の前に抱きました。けだし彼女は妹のために、進んで口減らしになろうというのに。
私の、仕立てのよい海老茶の袴から覗く革の靴が、泣いているみたいに灯を返します。私は忽ち不覚憐愍(そぞろあわれ)を催して、穂乃果に見えないように、込み上げるものを堪えながら、秘かに下唇を噛みました。 「それにね、それにね、機関車に乗って往くんだよ。わたし初めてだから……楽しみだなあ。ちゃんと乗れるかなあ、ね、海未ちゃん」
遠い英吉利(エゲレス)に想いを馳せるように、穂乃果は静かに目を伏せました。どこかから、異人さんの吹く銀の笛の音が響きます。ハモニカというのだと教えてくれたのは、慥か彼女ではなかったか。
ブリキ人形で遊んでいた子供達が、また明日と手を振って、蜘蛛の子を散らしたように駆けて往きます。文明の光が道を照らして、彼らが帰路に惑うことは、きっとないでしょう。でも、私は? ──懐中でこそこそ音を立てる、この手紙の行方は? 「わたし……わたしね。本当に楽しみなんだあ。不満も不安も、これっぽっちもないんだよ。だから、大丈夫だよ」
徒爾に終わると知りながら、私は、笑顔を繕おうとしました。そうせねばならないと思いました。果たして私の笑顔は黒のガラス板を透かして見たように曇り、けれど穂乃果は面映げに息を漏らします。
ややあって彼女は、何か思い出したように小さく声を上げ、袂を手繰るようにしました。
「そうだ──海未ちゃん。これ、あげるね。……海未ちゃんには、こんな派手な色、似合わないかなとも思ったんだけど」 やがて眼前に差し出されたのは、金具に洒脱な装飾のされた、カナリヤ色のパチン留めでした。
「向うでこんなに派手なの着けてたら、きっとわたし怒られちゃうから。……着けなくてもいいから、ときどき見て、触って、わたしのこと、思い出してね」
とうとう私はたまらなくなって、その帯留を胸に抱いて、少女みたいに泣きました。ほたほた落ちた涙が土に染みます。
だってこれは──この帯留は。成人の祝いに母が無理をして買ってくれた大事なものなのだと嬉しそうに云っていた、あの帯留に他ならなかったから。私はこれが今生の別れであると、ここへ来て漸く確信したのでした。
歳暮には帰るねと私を擁いた穂乃果の肩が、俄かに顫え出します。私の親友は昔から──嘘が下手でした。 「じゃあ……そろそろ、往くね」
本当は待ってと腕を掴みたかった。けれど、濡れた瞳を決意で隠す彼女の貌は、迚も斯くても引き止められるものではなくて──ついぞ私は、たった一葉の手紙さえ、渡すことが出来ませんでした。
「さよなら、海未ちゃん。……元気でね」
そうして彼女は髪を──この国では珍しいガス燈と同じオレンヂ色の髪を風にさらして、太陽をひと匙掬い取ったみたいに、莞爾と笑ってみせたのでした。
おわりよ 外出たら寒かったから書いた
『瓦斯燈』『煉瓦造り』『硝子板』『金糸雀色』とか書いても良かったんだけど、カタカナの方がハイカってて素敵だろう?
あと明治十年前後のつもりで書いたけど時代考証は適当です
じゃあの あったかくして寝ろよ 描写力には感心するが2ちゃんの横書きじゃ読みづらいからクソ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています