古森霧の背後から不意打ち気味にかけられた声に驚き、飛び上がるように振り向いてしまった。
そこにいたのは、キシルだった。キシルのはずなのだが…実況席でよく聞く声とは全く異なる、まるで最愛の恋人に語り掛けるような、優しい声と、目が全く笑っていないその不気味な表情の織り成す違和感に、まるでキシルではない"なにか"がそこにいるような、不思議な感覚に襲われるのであった。

「え…いったい…」
「さぁあばさん、帰りますよ?まだ借金は残ってるでしょう?」

混乱がピークに達しつつある古森霧を置き去りにして、キシルはまるで古森霧がいないかのようにあばだんごに語りかけ、スタスタと歩み寄っていく。
その目的であろうあばだんごは、先ほどの反応の薄さから一転して、今度は尋常じゃない怯えようを見せていた。

「ヒッ…いやだ…やめて…」
「もう、まったくあばさんはわがままですね。投資に失敗した自分が悪いんですよ?だいたい手コキスマブラとか言い出したのもあばさん自身じゃないですか。」

あばだんごの腕をつかみ、キシルは古森霧の宿とは逆方向に歩いていく。
古森霧の直感は、今まさに何か大事な行動をしないと二度と取り返しがつかないことになると、そう告げていた。しかし、今まさに目の前で繰り広げられた衝撃的な光景と、二人の間にあった"過去"のすべてを瞬時に処理して、即座に己の直感に従えというのは、あまりにも、あまりにも酷なことだろう。
時が止まったように動けないでいる古森霧を置いて、全てが去っていこうとしていた。距離はもう十分離れ、あばだんごの怯えたような小声も、もう聞こえなくなった。かのように思えた。

「…い…たす……!」

音としてはもう殆ど聞こえていなかったが、なぜか古森霧には彼が何と言っているか分かってしまった。分かりたくもなかった。
分かっていても、体は動かなかった。


篝火X二日目。
全国から集まった予選通過者たちは素晴らしい熱戦を繰り広げ、今でも歴代最高の大会だという声も多い。
しかし、多くの人々は口をそろえて言うのだった。
「古森霧さえ棄権していなければ、文句なしの最高の大会だっただろうに」…と。