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僧堂教育論(つづき)
――禅僧の友人に与う――
鈴木大拙

 禅堂教育で予の最も喜ぶところはその実地的なるところに在る。人生の実際について直ちに品性の陶冶とうやをやるところが教育になるのである。近頃米国あたりの新教育主義に“Learning by doing”と云う
事がある、それは勿論知識修得の上の話である。固もとより知識修得がやがて品性陶冶になるので、所謂る智育と徳育とは一つになって行なわれるのである、が、新教育主義の眼目は知識を実地経験の上に獲得し
ようとする処に在る。僧堂教育はこれを直ちに品性修養の上に実習するのである。「一日不作一日不食」というた百丈の精神は経済的であったか、今日の所謂る共産主義者の心持であったかどうか、それはわから
ぬとしても、日日の作務普請によりて、禅の力を実地の上に鍛錬することは、禅堂の特色である。大衆が自営主義を実行するのは貧乏のためだけではない、この貧乏で一物いちもつ不将来ふしょうらいの所が又有
り難いのであるが、とに角経済の上には托鉢をやり田作りをやり薪拾いをやらねばならぬ。それをやる所に空想妄想の発生を自ら防ぐ途が開けて来る。そうしてその中から水を汲み柴を搬はこぶ即ち是れ神通妙用
じんずうみょうゆうという智慧が湧き出る。かくの如くにして湧き出たものでないと、所謂る学校の卒業生のようで煩悶とかいうものに囚われて仕舞う。何だか理窟はいうても、手や足が言うことを聞かぬ。覚え
た理窟は概念で抽象性を帯びているから具体の実地界へ来るとまごつかざるを得ぬ。これを禅坊さんの如何にも甲斐々々しいのに比べると話にならぬ。実地の訓練をへぬと物にならぬ。日本近時の学校教育が形式
にばかりなって働きがないのは、つまり僧堂教育の精神がかけているからである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)