>>461
時の流れ 4
鈴木 大拙

「時」の流れに沿うて歴史が展開して行くと云ふことを聞くこともあるが、こんな無意味なことはないと思ふ。歴史と云ふものがあつて、時を流れるとは考へられぬ。
時は前述の如く、白紙を瀑布のやうに拡げて居て、そこを歴史が或る高処から落ちて来る。而してそれを吾等が見て居ると云ふものではないのである。
白紙を掛けたやうな「時」と云ふものは本よりないのである。さう考へるのは抽象の結果である。
随つて歴史が其上に何か跡づけて行くと云ふのは、本当の歴史の影を追つかけて飛びまはると同じである。
手に入れたと思ふのは抜殻に外ならぬ。そんな抜けがらを捉へて後生大事と心得て居るものに限つて、生きたものを死んだものに仕替へてしまふ。
即ち死骸のミイラを仏壇なり神殿なりに祭り込んで、その前に三拝九拝して、その中から後光の流れ出るのを待つて居る。
鰯の頭の信心よりまだ馬鹿げて居るのみならず、こんな手合ひに限つて、自分の抽象した干枯びたミイラの押売りをやらうとする。
自分だけの信心ならそれもさうで、別に他から何とも云はれず、またそれで趣きのあるものである。が、干物の押売をやる連中になると、その禍の及ぶところ誠に図り知るべからざるものがある。
 歴史の干物、「時」の影ぼふしを随喜渇仰して居る人々は、「過去」に膠着して一歩も前進し能はぬのである。干物はどうしても蘇息せぬ、影ぼふしはどうしても自分で動き出し能はぬ。
それ故、彼等には現在も未来もない、また主観を飛び越えるほどの元気もない。彼等はいつも過去の影を背負つて居るので、而してその影の重きに堪へ得ないので、過去をぬけ出て、現在にはひることが出来ぬ。
ましてそれから未来への飛躍を試みんとする意気に至りては、露ほどもない。本当の歴史は飛躍の連続である、非連続の連続である。
独尊者はいつも現在の刹那において過去から未来へ躍り出る。彼は現在の一刹那において黒暗暗の真只中を切り抜ける。此一飛躍の中で所謂る「過去の歴史」なるものが、溌剌たる生気を取り返すのである。
独尊者の巨歩は実に此の如く堂堂たるものである。何ものの閑人ぞ、敢て彼を干乾しにはせんとする。又何ものの「現実」主義者ぞ、彼を「過去」の棺桶の中に封じ去らんとする。
(´・(ェ)・`)
(つづく)