>>44
『I AM THAT 私は在る』
【33 すべてはひとりでに起こる】(つづき)

 質問者 もしすべてが光なら、どのようにして暗闇は現れるのでしょうか?
 光のただなかで、どうして暗闇がありうるでしょうか?
 マハラジ
 光のただなかに暗闇はない。
 真我を忘れることが暗闇なのだ。
 真我ではないものごとのなかに没頭するとき、私たちは真我を忘れてしまう。
 それは不自然なことではない。
 しかし、なぜ過剰な執着のために真我を忘れることがあろうか?
 体験者と体験の両方の源である真我をけっして忘れないことのなかに智慧が
 あるのだ。
 質問者 私の現状では、「私は身体だ」という観念は自然にやってきます。
 一方、「私は純粋な存在だ」という考えは、何か真実として、しか
 し体験されてはいないものとして強要されなければならないものな
 のです。
 マハラジ
 そうだ。
 サーダナ(修練)は自己の純粋な存在を強いて思い起こさせることにある。
 何か特定の存在としてではなく、特定の存在の総計としてでもない。
 宇宙を構成する、すべての特定のものの全体としてでもない。
 すべてはマインドのなかに存在する。
 この身体でさえ莫大な数の知覚感覚の統合でしかなく、そのそれぞれもまた
 心理的状態にすぎないのだ。
 もしあなたが「私は身体だ」と言うなら、見せてみなさい。
 質問者 ここにあります。
 マハラジ
 あなたがそれを想うときにだけあるのだ。
 マインドも身体も断続的状態だ。
 つかの間の記憶の総計が、存在しているという幻想をつくり出す。
 はかなきもののなかで何が永遠なのか、非実在のなかの実在を調べなさい。
 それがサーダナだ。
 質問者 私が自分を身体なのだ、と考えていることは事実です。
 マハラジ
 あらゆる方法で自分自身を考えてみなさい。
 ただ、身体という観念をもちこんではならない。
 そこにはただ感覚、知覚、記憶、そして観念の流れがあるだけだ。
 身体とは抽象的観念であって、多様性のなかに統合を見いだそうとする私た
 ちの傾向にすぎず、それは何も間違ったものではない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)