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『I AM THAT 私は在る』
【31 注意を過小評価してはならない】(つづき)

 質問者 あるチベット人のヨーギは、神は目的をもって世界を創造し、ある
 計画にしたがって維持していると書いています。その目的は善であ
 り、計画はもっとも賢明なものです。
 マハラジ
 それらはみな一時的なものだ。
 私は永遠について語っている。
 神と宇宙は来ては去っていく。
 アヴァターラ(神の化身)たちは終わりなき継続性のなかでつぎつぎと現れ、
 最終的に私たちは源に帰っていく。
 私はすべての神と彼らの宇宙、過去、現在、そして未来の時間を超えた源に
 ついてのみ語っているのだ。
 質問者 あなたはそれらをみな知っているのでしょうか? それらをみな覚
 えているのでしょうか?
 マハラジ
 数人の子どもたちが舞台の上で劇を演じているとき、注意を払ったり、覚え
 ていなければならないようなことが何かあるだろうか?
 質問者 なぜ世界の半分が女性で、半分は男性なのでしょうか?
 マハラジ
 彼らの幸福のためだ。
 非個人性(アヴィヤクタ)は関係性のなかでの幸福のために個人性(ヴィヤ
 クタ)となる。
 グルの恩寵(おんちょう)によって、私は個人性と非個人性を等しい目で見
 ることができるのだ。
 私にとって二つはひとつだ。
 生のなかで、個人性は非個人性のなかに溶け去る。
 質問者 どのようにして個人性は非個人性から出現するのでしょうか?
 マハラジ
 二つはひとつである実在の相にほかならない。
 ひとつをもうひとつに先んじて語ることは正しくない。
 これらすべての観念は目覚めの状態に属するのだ。
 質問者 何が私を目覚めの状態に連れ出すのでしょうか?
 マハラジ
 すべての創造の根底には欲望がある。
 欲望と想像が互いを促進し、増強しあう。
 第四の状態(トゥリーヤ)は純粋な観照、無執着の気づきであり、醒(さ)
 めた、世界のない状態だ。
 それは空間のように、何であれそれが包括しているものに影響されない。
 身体的、精神的苦痛はそれに達しない。
 それらは外側の「そこ」にあり、一方、観照はつねに「ここ」にあるのだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
うー・・・ちょぴっと難しいのである。