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『I AM THAT 私は在る』
【27 はじまりなきものは永遠にはじまる】(つづき)

 質問者 大海のなかで、波のざわめきが深海の静けさと共存するように、そ
 れらは共存できないのでしょうか?
 マハラジ
 マインドを超えたところに体験はない。
 体験とは二元的状態だ。
 実在をひとつの体験として語ることはできないのだ。
 ひとたびこれが理解されたならば、あなたはもはや在ることと成ることを分
 離し、対立したものとして追い求めたりはしないだろう。
 実際には、同じ木の根と枝のように、それらはひとつであり分割不可能だか
 らだ。
 そのどちらも意識の光のなかにのみ存在することができ、どちらも「私は在
 る」という感覚のなかに立ち現れる。
 これが基本的な事実であり、もしこれを逃したならば、すべてを逃すことに
 なる。
 質問者 存在の感覚は体験によってのみ生じるのでしょうか? 偉大な真言
(マハー・ヴァーキャー)、「タット・サット」(我はそれなり)
 は単なる思考の様式なのでしょうか?
 マハラジ
 何であれ、語られたことは言葉にすぎない。
 何であれ、考えられたことは思考にすぎない。
 真の意味は説明不可能だが、体験することは可能だ。
 マハー・ヴァーキャーは真実だが、あなたの観念は偽りだ。
 なぜなら、すべての観念(カルパナ)は偽りだからだ。
 質問者 「我はそれなり」という信念も偽りなのでしょうか?
 マハラジ
 もちろんだ。
 信念とは精神的状態だからだ。
 「それ」のなかに「私は在る」はない。
 「私は在る」という感覚が現れると、日が昇るとともに星が消え去るように、
 「それ」は光を奪われる。
 しかし、太陽とともに光が射し込むように、自己の感覚とともに至福(チダ
 ーナンダ)が訪れる。
 そして至福の原因を「私ではないもの」のなかに探求することによって束縛
 がはじまるのだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)