>>431
『I AM THAT 私は在る』
【26 人格、ひとつの障害】

 質問者 私が見るには、世界はヨーガの学校であり、人生そのも
 のがヨーガの修練です。誰もが完成を求めて闘っていま
 す。ヨーガもまた戦いにほかなりません。いわゆる「一
 般」の人びとと彼らの「一般」の人生は、何も卑しいも
 のではありません。彼らもヨーギと同じように厳しい努
 力をし、苦しみます。ただ彼らは真の目的を知らないだ
 けなのです。
 マハラジ
 いったいあなたの言う一般の人びとがどのようにヨーギなのかね?
 質問者 彼らの究極的目標は同じです。ヨーギが放棄(ティアー
 ガ)によって確保するものを、一般の人びとは体験(ボ
 ーガ)によって実現するのです。ボーガの道は無意識で、
 それゆえ反復し、長引きます。一方ヨーギの道は熟考さ
 れ、強烈で、それゆえより迅速なのです。
 マハラジ
 おそらくヨーギの期間とボーギの期間は交替するのだろう。
 まずボーギ、ヨーギ、そしてまたボーギ、ふたたびヨーギと。
 質問者 その目的は何なのでしょうか?
 マハラジ
 弱い欲望は内省と瞑想によって取り除かれる。
 しかし、強く、深く根づいた欲望は満たされ、その結果は甘かろ
 うと苦かろうと体験されなければならない。
 質問者 それでは、なぜ私たちはヨーギに敬意を払い、ボーギを
 軽んじるのでしょうか? ある意味では誰もがヨーギな
 のです。
 マハラジ
 人間的な価値の尺度では、意図的な努力は賞賛されるものと考え
 られている。
 実際には、ヨーギもボーギも機会と環境に合わせ、彼らの本質に
 したがっているのだ。
 ヨーギの人生はひとつの欲望、真実を見いだすことに支配されて
 いる。
 ボーギはたくさんのマスターに仕えている。
 しかし、ボーギはヨーギとなり、ヨーギはひと巡りしてボーギと
 なるかもしれない。
 最終的な結果は同じだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)