>>391
『I AM THAT 私は在る』
【24 神はすべてを為す者、ジニャーニは無為の人】(つづき)

 マハラジ
 あなたの言うことはすべて、外へ向かう(プラヴリッティ)道にとっては正
 しい。
 源へ帰還する(ニヴリッティ)道を行くものにとって、自己を無に帰するこ
 とは必要なことなのだ。
 私のいる無(パラマカーシュ)の境界には、いかなる言葉も思考も届かない。
 マインドにとって、そこはまったくの闇と沈黙だ。
 そこに意識が攪拌しはじめ、マインドが目覚めだし(チダカーシュ)、世界
 を投影し(マハーダカーシュ)、記憶と想像を構築しはじめる。
 ひとたび世界が存在のなかに現れたならば、あなたの言ったとおりとなるだ
 ろう。
 目標を定め、それに向かって闘い、方法と未知を探し、ヴィジョンとエネル
 ギー、そして勇気を示す、それがマインドの本性なのだ。
 それは神聖な質であって、私はそれらを否定してはいない。
 しかし、何の相違もなく、何も存在せず、それをつくり出したマインドもな
 いというのが私の立場だ。
 そこが私の居場所なのだ。
 何が起ころうと私には影響を与えない。
 ものごとがものごとに働きかける。
 ただそれだけだ。
 記憶と期待から自由なため、私はいつも新鮮で、無垢で、トータルだ。
 マインドはたいへんな働き者(マハーカルタ)で、休息が必要だ。
 何も必要ない私には、何の恐れもない。
 誰を恐れるというのだろう?
 そこには分離などない。
 私たちは分離し、孤立した自己ではない。
 ただ個人と非個人がひとつである真我、至高の実在があるだけだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
 長い質問に対する丁寧な返事でありました。