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『I AM THAT 私は在る』
【21 私は誰か?】(つづき)

 質問者 同じ行為がある時点では自然な行為と見なされ、ほかの時点では罪
 と見なされます。何がそれを罪なものとするのでしょうか?
 マハラジ
 何であれ、あなたがよりよい知識に反してするならばそれは罪だ。
 質問者 知識は記憶に依存しています。
 マハラジ
 自己を覚えていることが徳であり、自己を忘れることが罪だ。
 つまり、それは魂と物質の心理的な連結部だ。
 この連結部を精神(アンタカラナ)と呼んでもいいだろう。
 この精神が未熟で、未発達であり、まったく原始的ならば、それは粗雑な幻
 想に支配される。
 それが広さと繊細さにおいて成長すれば、純粋な物質と純粋な魂との完璧な
 連結部となり、物質に意味を与え、魂に表現を与える。
 物質的世界(マハーダカーシュ)と霊的世界(パラマカーシュ)がある。
 その間に宇宙的マインド(チダカーシュ)と宇宙のハート(プレマカーシュ)
 と呼ばれるものがある。
 その二つをひとつにするのは愛の智慧なのだ。
 質問者 ある人は愚かで、ある人は知性的です。この違いは精神のなかにあ
 ります。成熟した人は、その背景により多くの経験をもっています。
 子供が食べ、飲み、眠り、遊んで成長するように、人の精神も考え、
 感じ、為すすべてによって、魂と身体のかけ橋として、充分な役目
 を果たすようになるまで形成されていきます。橋が両岸の間の通行
 をもたらすように、精神は源とその表現をひとつに結びつけるので
 す。
 マハラジ
 それを愛と呼ぶがいい。
 その橋が愛なのだ。
 質問者 究極的に、すべては体験なのです。何であれ、私たちが考え、感じ
 ることは体験です。その背後には体験者がいます。私たちの知るす
 べてはその二つ、体験と体験者で成り立っています。しかしその二
 つは、実際にはひとつです。体験者のみが体験なのです。それにも
 関わらず体験者は体験を外側にあると見ます。同じように、魂と身
 体はひとつであり、二つに現れて見えるだけです。
 マハラジ
 魂にとっては、一者だけが存在する。
 質問者 他者は誰にとって現れるのでしょうか? 私には、二元性は精神の
 不完全性によって導かれた幻想と見えます。精神が完全になったと
 き、二元性は消え去るのです。
 マハラジ
 あなたの言うとおりだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)