>>347
『I AM THAT 私は在る』
【21 私は誰か?】(つづき)

 質問者 純粋な存在が無意識であるはずも、識別力のないはずもありません。
 どうしてそれが罪と徳を超えられるのでしょうか? どうか教えて
 ください。純粋な存在には知性があるのでしょうか?
 マハラジ
 これらすべての質問は、あなたが自分を個人だと信じるために起こるのだ。
 個人であることを超えて見なさい。
 質問者 個人で在ることをやめなさいと言うとき、あなたは正確には何を意
 味しているのでしょうか?
 マハラジ
 私は在ることをやめなさいとは言ってはいない。
 それは不可能だ。
 私は、あなたが生まれ、両親をもち、この身体であり、いつか死が訪れ……
 といった想像をするのはやめなさいと言っているだけだ。
 試してみなさい。
 はじめて見なさい。
 それはあなたの思うほど困難ではないのだ。
 質問者 自分を個人だと考えるのは非個人性の罪です。
 マハラジ
 これもまた個人的見解だ!
 なぜあなたは非個人性をあなたの罪と徳という概念で汚(けが)すのだろう
 か?
 それはまったく当てはまらない。
 非個人性は善や悪といった言語では描写できないものなのだ。
 それは存在、智慧、愛、絶対なるものだ。
 どこに罪の余地があるだろう?
 そして徳とは単に罪の反対でしかない。
 質問者 私たちは神聖な徳について話しているのです。
 マハラジ
 真の徳は神の本性(スワルーパ)だ。
 真のあなたがあなたの徳なのだ。
 だが、罪の反対である、あなたの言う徳は恐れから生まれた服従でしかない。
 質問者 それでは、善であろうとするすべての努力はどうしてあるのでしょ
 うか?
 マハラジ
 それはあなたを動かしつづけるのだ。
 神を見いだすまであなたはつき進む。
 そして神はあなたを神自身のなかに引き入れ、あなたを彼のごとくにするの
 だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)