>>314
『I AM THAT 私は在る』
【19 実在は客観性の内に在る】(つづき)

 質問者 神を見るために世界を見なければならないのでしょうか?
 マハラジ
 それ以外どうするというのだろうか?
 世界がなければ神もない。
 質問者 何が残るのでしょう?
 マハラジ
 あなたが純粋な存在として残る。
 質問者 そして世界と神が何になるのですか?
 マハラジ
 純粋な存在(アヴィヤクタ)になる。
 質問者 それは偉大な広がり(パラマカーシュ)と同じなのでし
 ょうか?
 マハラジ
 そう呼んでもいい。
 言葉は問題ではない。
 言葉では表現不可能だからだ。
 完全な否定によってのみ表現できるのだ。
 質問者 どうすれば世界を神としてみることができるのでしょう
 か? それはどういう意味なのでしょうか?
 マハラジ
 それは暗室に入っていくようなものだ。
 あなたには何も見えない。
 あなたは触れるかも知れないが、色彩も輪郭も、何も見えない。
 そこで窓が開き、部屋は光で溢れ、満たされ、色彩と形態が現れ
 だす。
 光を与えたのは窓だ。
 だが窓が光の源なのではない。
 太陽が源なのだ。
 同じように、物質は暗室のようなものだ。
 意識が窓だ。
 感覚と知覚によって物質はあふれだす。
 そして物質と光の両方の源である至高なるものが太陽なのだ。
 窓は開いているかも、閉じているかもしれない。
 太陽はいつも輝いている。
 太陽は部屋に完全な変化をもたらしたが、太陽は変化しない。
 しかし、これらすべても小さな「私は在る」にとっては大きな意
 味を持たない。
 「私は在る」なしには何も存在できないからだ。
 すべての知識は「私は在る」に関わる。
 この「私は在る」についての誤った考えが束縛へと導き、正しい
 考えは自由と幸福をもたらすのだ。
 質問者 「私は在る」と「そこに在る」は同じでしょうか?
 マハラジ
 「私は在る」は内側を、「そこに在る」は外側を意味する。
 ともに存在(ビーング)の感覚に基づいている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)