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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 2
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0001名無しを整える。2018/01/02(火) 17:24:50.70ID:1i8Yd2u9
前スレ; 鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ
0002名無しを整える。2018/01/02(火) 18:09:32.08ID:1i8Yd2u9
前スレ322http://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1509160394/

1073
ウパシーヴァさんはブッダに「最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」と答えてもらってから、次の二つの質問をした。
一つは、「もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼となるのでしょうか?」です。
ウパシーヴァさんは「最上の<想いからの解脱>はまだ完全な解脱ではないと考えているようである。想からの解脱から完全な解脱になるのか尋ねているのだと思われる。そして完全な解脱な状態を清涼とイメージしているのであろう。
もう一つは、「そのような人の識別作用(あとまで)存在するのでしょうか?」。識別作用とは心の本質。だから、解脱した人には心はあるのか?と尋ねていることになる。

1074
ウパシーヴァさんの二つの質問に対するブッダの解答だが、それに対して直接解答するということではないようである。
第一の質問「多年そこにととどまるならば、清涼なるのでしょうか?」に対して直接答えてないように思われる。
第二の質問「「そのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」に対しては、炎が風で吹き消された場合を例にして答えられている。
しかし、識別作用が存在するかどうかで答えるのではなく、nmakyからの解脱について説かれています。
Nmaky(ナーマカーヤー)については、中村先生は、ナーマルーパ(名称と形態)と同じとしているが、正田先生は「名前の身体(名身)」としている。
またカーヤには集合と言う意味があるため、「名の集合」とも訳せる。識別作用の消滅に関連して、ナーマカーヤーが問題にされているから、中村先生の訳のように、ナーマルーパ(名称と形態)と同じ意味であるとしておく。
そうであるならば、ナーマルーパ(名称と形態)が消滅すれば、十二因縁の教えにあるように識(識別作用)は消滅する。その有様を、炎が風に吹き消されるように消えると答えられた。

1075
(○正田大観先生訳
〔尊者ウパシーヴァが尋ねた〕
「その、滅却に至った者(解脱者)ですが、あるいは、また、彼は、〔もはや〕存在しないのですか。
それとも、まさに、常恒に、無病の者(永遠不滅の存在)となるのですか。
牟尼よ、どうぞ、わたしに、それを説き示してください。
まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」〔と〕。)
解脱したブッダを目の前にしてこの質問をしていることになる。名称と身体が消滅して、識(識別作用)が消滅した解脱者は存在しないのですかと尋ねている。
これは、ある人間の心がまるっきり変わってしまった場合、以前の人間は存在しているのかと尋ねた。
また別の形で質問した。解脱した方は不死の境地(涅槃)に至ると言われる。だから、解脱した方は、「それとも、まさに、常恒に、無病の者(永遠不滅の存在)となるのですか?」と尋ねた。
正田先生が説明されているように、無病の者とは、単に病気にならないという意味ではなく、永遠不滅の存在という意味。居ないのではなく、ずっと居るということになる。

1076
1074で、ブッダは既に解脱者の名称と身体について、火炎に例えて説かれました。その消えてしまった火炎については論じられない。滅びてしまった者には、それを論じる基準がない。
死んだらどうなるかは実際のところは分からない。死んでみれば分かるとも言えない。しかし、解脱の場合は、ああだこうだと論じられないが、自分が解脱すれば、ウパシーヴァさんの質問について、言葉でなく分かると思われる。
だから、自分が解脱をすることが一番。
(´・(ェ)・`)つ
0003名無しを整える。2018/01/02(火) 18:18:10.06ID:1i8Yd2u9
ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、8、学生ナンダの質問

1077 ナンダさんがたずねた、
「世間には諸々の聖者がいる、と世人は語る。それはどうしてですか? 世人は知識をもっている人を聖者と呼ぶのですか? あるいは[簡素な]生活を送る人を聖者と呼ぶのですか?」

1078 (ブッダが答えた)、
「ナンダよ。世のなかで、真理に達した人たちは、(哲学的)見解によっても、伝承の学問によっても、知識によっても聖者とは言わない。(煩悩の魔)軍を撃破して、苦悩なく、望むことなく行う人々、──かれらこそ聖者である、とわたしは言う。」

1079 ナンダさんがいった、
「おおよそこれらの<道の人>・バラモンたちは、(哲学的)見解によって、また伝承の学問によっても、清浄になれるとも言います。
先生! かれらはそれにもとずいてみずから制して修行しているのですが、はたして生と老衰とを乗り越えたのでしょうか? ・・・・」

1080 師(ブッダ)は答えた、
「ナンダよ。これらの<道の人>・バラモンたちはすべて。(哲学的)見解によって清浄になり、また伝承の学問によっても清浄になると説く。戒律や誓いを守ることによっても清浄になると説く。(そのほか)種々のしかたで清浄になるとも説く。
たといかれらがそれらにもとづいてみずから制して行っていても、生と老衰とを乗り越えたのではない、とわたしは言う。」

1081 ナンダさんがいった、
「およそこれらの<道の人>・バラモンたちは、見解によって、また伝承の学問によっても清浄になれると言います。戒律や誓いを守ることによっても清浄になれると言います。(そのほか)種々のしかたで清浄になれるとも言います。
聖者さま。もしあなたが『かれらは未だ煩悩の激流を乗り越えていない』と言われるのでしたら、では神々と人間の世界のうちで生と老衰を乗り越えた人は誰なのですか?
親愛なる先生! あなたにおたずねします。それをわたくしに説いてください。」

1082 師(ブッダ)は答えた、
「ナンダよ。わたしは『すべての道の人・バラモンたちが生と老衰とに覆われている』と説くのではない。
この世において見解や伝承の学問や戒律や誓いをすっかり捨て、また種々のしかたをもすっかり捨てて、妄執をよく究め明かして、心に汚れのない人々──かれらは実に『煩悩の激流を乗り越えた人々である』と、わたしは説くのである。」

(´・(ェ)・`)つ
0004名無しを整える。2018/01/02(火) 19:12:12.81ID:1i8Yd2u9
>>3
1077
学生ナンダさんの「ナンダ経」。
ブッダとほぼ同時代に、インドのガンジス河中流地域のマガダ地方を中心に活躍した六人の自由思想家がいた。仏教の人々は彼らをまとめて六師外道と呼んだが、一般の人々からは聖者とも呼ばれていた。
そこで、ナンダさんはブッダに、「世間には諸々の聖者がいる、と世人は語る。それはどうしてですか?」と質問した。
この質問をしたナンダさんの意図は、自分も修行して聖者を目指しているから。しかし、目標である聖者がいかなるものか明確でなければ、修行は完成しない。
そこで、ナンダさんはもう少し、具体的に知識を持つことで聖者になれるのか、それとも特別な生活をすることによって、聖者になれるのか、ブッダに尋ねた。特別な生活について、中村先生は注釈書に従って「簡素な生活を送る人」と訳されている。

1078
ブッダはナンダさんに、その人の哲学的見解によって聖者と言うのではありませんと説いた。またその人が伝承の学問を学んでいるから聖者と言うのではありませんと説いた。同様にその人の知識によって聖者だというのではないと言った。
このことはすでに、四章の四経の790偈で、「見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。」というように、それらによって清らかにならないという言葉によって述べられていた。
同じような趣旨の偈は、四章五経その他でも繰り返し述べられてきた。
それにたいして、ブッダは「(煩悩の魔)軍を撃破して」(中村先生訳)が聖者であるために必須の事柄であると述べておられる。
これを正田先生は「〔一切にたいし〕敵対を為さずして行じおこなう者たち」とされている。直訳としてはこちらです。
一切に敵対しない。一切に対して対立しないのである。一切に対して世俗の次元を超えた対応をされる方が聖者。智慧がなければできない。一切にたいして真の慈しみを自然にできる方が聖者なのだと説かれている。
このような方はもちろん苦悩はなく、望むこともない。

1079
1080
1079と1080、両者の前半は同じ文章であり、後半はナンダさんの疑問とそれに対するに対するブッダの解答。使われている単語はほぼ同じ。
二つの偈を要約すると次の通りです。
1079
「見解や伝承等によって清浄になれると言う沙門やバラモン達は、生と老いを乗り越えたのですか?」とナンダさんは尋ねた。
1080
「見解や伝承等によって清浄になれると言う沙門やバラモン達は、生と老いを乗り越えていない。」とブッダは答えた。
ということ。文章は長いが、内容は単純。
(´・(ェ)・`)つ
0005名無しを整える。2018/01/02(火) 19:14:48.59ID:1i8Yd2u9
>>3
1081
「見解によって、また伝承の学問によっても、戒律や誓いを守ることによっても、他の種々のしかたで清浄になれないと言うのならば、神々と人間の世界のうちで誰が生と老衰を乗り越えた人ですか?」というナンダの質問。

同様な質問は、ティッサ・メッティヤ経にもプンナカ経にもあった。当時の修行者は、現代の修行者もそうだが、何等かの修行方法によって生と老衰を乗り超えることができると考えている。すなわち解脱できると思っている。
ブッダの言葉を注意深く読めばそうではないことが解る。その点は分かり難いところである。

ダンマパダの271、272参参照
戒や禁戒によって
或はまた博識によって
或は時に禅定を得ることによって
或は離れて臥すことによっても、(安心は)ない(271)
凡夫の知らない
離欲の安楽に達する(ことでも)
比丘よ、煩悩の滅尽を得ていない者は
安心するなかれ(272)

1082
ブッダは次のように説かれました。「すべての沙門達やバラモン達が、煩悩の激流を渡っていないわけではない。
見解や伝承の学問や戒律や誓いをすっかり捨て、また種々のしかたをもすっかり捨てて、妄執をよく究め明かして、心に汚れにたくなった人は煩悩の激流を渡ったひとです。」と。
では、何故「見解や伝承の学問や戒律や誓いをすっかり捨て、また種々のしかたをもすっかり捨てて」とブッダは述べられたのか。そして「妄執をよく究め明かして、心に汚れにたくなった人」と説かれたのか。
多くの修行者は、いろいろな方法で煩悩をなくすと思っているのですのに、何故このようにブッダは述べられるのか。
この問題を考えるために、ダンマパダの五番参照。
「実にこの世においては、
怨みに報いるに怨みを以てしたならば、
ついに息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。
これは永遠に真理である。」(ダンマパダ5番、中村先生訳)
どのようにして、怨みを捨てるのか?。怨みを持っているのは自分自身だから、自分で捨てればいいだけなのである。戒律を守れば、あるいは、瞑想をすれば怨みを捨てられるのではない。そのことに気付けば捨てられる。
ただ、ただ自分の煩悩をすべて捨てるためには、自分の煩悩に気付かなければできない。そこで「妄執をよく究め明らかにする必要がある。そしてすべての煩悩を捨てる。

1083
ナンダさんはゴータマ・ブッダの言葉を聞いて喜んだ。彼は煩悩の激流を渡るのは、哲学的な見解や伝承の学問や戒律や誓いやその他の方法でないことが解った。妄執を究めて、心の汚れを取ることだとわかった。
そこで、彼はブッダの言葉を繰り返して喜んだ。

(´・(ェ)・`)つ
0006名無しを整える。2018/01/02(火) 19:20:01.88ID:1i8Yd2u9
>>3

補)
1083
「偉大な仙人のことばを聞いて、私は歓喜します。
ゴータマ(ブッダ)さま。再生の要素のない境地がみごとに説き明かされました。
この世において(哲学的)見解や伝承の学問や想定や戒律や誓いをすっかり捨てて、
また種々のしかたをすっかり捨てて、
妄執をよく極め明かして、心の汚れのない人々、――
かれらは実に『煩悩の激流を乗り超えた人々である』と、わたくしもまた説くのであります。

(´・(ェ)・`)つ
0007鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/01/02(火) 22:16:45.30ID:1tNAioMJ
妄執も観察して見極めたのじゃ。
観察しなければ心の穢れもなくならないのじゃ。
0008名無しを整える。2018/01/03(水) 16:08:36.21ID:AKq1wstv
ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、9、学生ヘ−マカの質問

1084 ヘーマカさんがたずねた、
「かってゴータマ(ブッダ)の教えよりも以前に昔の人々が『以前にはこうだった』『未来はこうなるであろう』といってわたしに説き明かしたことは、すべて伝え聞くにすぎません。
それはすべて思索の紛糺(ふんきゅう)を増すのみ。わたしはかれらの説を喜びませんでした。

1085 聖者さま。あなたは、妄執を減しつくす法をわたくしにお説きください。それを知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えましょう。」

1086 (ブッダが答えた)、「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。

1087 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、常に安らぎに帰している。世間の執著を乗り越えているのである」と。

ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、10、学生トーデイヤの質問

1088 トーデイヤさんがたずねた、
「諸々の欲望のとどまることなく、もはや妄執が存在せず、諸々の疑惑を超えた人、──かれらはどのような解脱をもとめたらよいのですか?」

1089 師(ブッダ)は答えた、
トーデイヤよ。諸々の欲望のとどまることなく、もはや妄執が存在せず、諸々の疑惑を超えた人、──かれには別に解脱は存在しない。」

1090 「かれは願いのない人なのでしょうか?  あるいは何かを希望しているのでしょうか? かれは智慧があるのでしょうか? あるいは智慧を得ようとはからいをする人なのでしょうか?
ャカ族の方よ。かれは聖者であることをわたくしが知り得るように、そのことをわたくしに説明してください。あまねく見る方よ。」

1091 [師いわく]、「かれは願いのない人である。かれはなにものをも希望していない。かれは智慧のある人であるが、しかし智慧を得ようとはからいをする人ではない。
トーデイヤよ。聖者はこのような人であると知れ。かれは何も所有せず、欲望の生存に執著していない。」

ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、11、学生カッパの質問

1092 カッパさんがたずねた、
「極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々のために、洲(避難所、よりどころ)を説いてください。
あなたは、この(苦しみ)がまたと起こらないような洲(避難所)をわたしに示してください。親しい方よ。」

1093 師(ブッダ)は答えた、「カッパよ。極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々のたの洲(避難所)を、わたしは、そなたに説くであろう。

1094 いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと、──これが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。

1095 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、悪魔に伏せられない。かれらは悪魔の従者とはならない。」

(´・(ェ)・`)つ
0009名無しを整える。2018/01/03(水) 16:24:32.49ID:AKq1wstv
>>8
1084
ヘーマカ学生の問い。
「ゴータマ・ブッダ様の教えに接する以前は、『昔はこうだった』とか『今後はこうなるだろう』とすべて憶測の教えでした。」と。憶測では、真実かどうか分からないため、私はそれら教えに満足できませんでしたと、彼は心情を吐露した。
そして、憶測のでない、真実の答えを求める。

1085
ヘーマカさんはブッダに会う前からいろいろ修行をしていた。その際、それらの修行の指導者や先輩から、種々のアドバイを受けていた。
しかし、それらのアドバイスは聞き伝えられたことや、単なる憶測によるものだった。そのため、彼らの言葉に満足できないでいた。
ヘーマカさんが自分で修行して得た結論は、欲しという気持ち(渇愛、妄執)を根絶すれば、心は動揺することなく、落ち着くだろうということだった。
そのため彼はブッダに「聖者さま。あなたは、妄執を減しつくす法をわたくしにお説きください。」とお願いした。
そして、「それを知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えましょう。」と決意を述べた。
「よく気をつけて」とは、気づきを絶やさず、不放逸を実践すること。
単に同じことを繰り返すのではなく、どんな一瞬も新しい瞬間であることを自覚して、その時の自分自身に注意を向けること。そして周りからのメッセージにも気づいていること。

1086
今回の偈で、ブッダは仏教の核心を説くことになる。
欲しという気持ち(渇愛、妄執)を根絶すれば固執が根絶され、固執が根絶されれば有が根絶され、有が根絶されれば生が根絶され、生が根絶されば老死が根絶され、老死が根絶されれば苦が根絶されるから。
ブッダは次のように説かれた。「この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることです。」
すなわち、美しいものを見た時に欲しい自分のものにしたいと思わないこと、好ましい音を聞いた時にもっと聞きたいなと思わないこと、素晴らしいと考えたことを自分のものと思わないこと、これらに気をつければ、渇愛(妄執)を根絶できる。
しかし、これはなかなか難しいこと。自分にとって好ましいもの、愛しいものが自分の苦しませる要因であることをよく理解しなければできない。
自分にとって好ましいもの、愛しいものも無常だから、何時までも同じ状態ではない。必ず、変化して、壊れ、消滅するの。そのために、人々は苦しむ。
だから、好ましいもの愛しいものは、悪魔が私達に仕掛けた罠のようなものだと考えた方がよい。例えば麻薬はそれがどんなに甘味なものかもしれないが、それを使用したら廃人になってしまうことを知って、それらを使用しないようなもの。
そのことを知って、快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが出来れば、解脱して、不滅の涅槃の境地を体得できる。そのようにブッダは説かれた。

1087
「このこと」とは、1086の「この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。」のこと。
このことをよく知って、よく気をつけている人々は、現世において解脱して、涅槃に達するとブッダは説かれた。これらの人々は常に静寂な者であり、世間の執著はない。

1088
トーデイヤ学生の経。彼は、既に何人かの学生とブッダの問答を聞いたから、解脱についていろいろ知識を得た。しかし、解脱や涅槃については知識だけでは理解できない。
そこで、自分が知った知識、すなわち「諸々の欲望をなくし、諸々の渇愛(妄執)をなくし、諸々の疑惑(迷い)をなくすこと」以外に、さらにどのようなこと(修行など)が必要なのかブッダに尋ねた。
(´・(ェ)・`)つ
0010名無しを整える。2018/01/03(水) 16:43:44.03ID:AKq1wstv
>>8
1089
「別に解脱は存在しない。」の意味は「別の解脱は存在しない。」ということ。つまり解脱は同じものであり、一つであるということ。ただ、心解脱とか慧解脱とかという言葉があるが、ここでは最終的な解脱を一つであるということ。

1090
トーデイヤさんは、ブッダに「別の解脱は存在しない。」と説かれた。
トーデイヤさんは自分の持っている解脱のイメージが壊れたのだと思われる。そこで改めてブッダに聖者について尋ねた。
別の経典では、預流(道)果、一来(道)果、不還(道)果、阿羅漢(道)果の境地に達した八種類の人々を聖者と述べられていますが、ここでは最終段階の境地に達した阿羅漢について述べていることにしておく。
彼(聖者)は願いごとがない人なのでしょうかと尋ねた。正田先生の訳では「依存なき者ですか」としていますが、Nirsasoをそのように訳したから。あるいは何かを希望しているのでしょうかと尋ねる。
さらに、聖者には智慧があるのか、智慧を得て何か意図しているのかと尋ねた。トーデイヤさんは少し混乱したのか。

1091
混乱したトーデッヤさんに対して、ブッダは聖者は次のような方であるとはっきり述べらた。
聖者は願いのない人である(依存なき者です)。
聖者はなにものをも希望していない(願い求める者ではない)。
聖者は智慧のある人である(知慧ある者である)。
聖者は智慧を得ようとはからいをする人ではない(知慧によって想い描く者ではない)。
そして、聖者は何も所有せず、欲望の生存に執著していない(無一物で、欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存にたいする執着なき者)。

(´・(ェ)・`)つ
0011名無しを整える。2018/01/03(水) 16:44:37.96ID:AKq1wstv
>>8
1092
「カッパ経(カッパ学生の問い)」。ブッダに人生を河の流れに例えて質問した。
この流れは、一人の一生という意味でも、もっと長期の流れとして輪廻の流れと取ってもよい。
いろいろな出来事があり楽しいこともあるが、辛いこと、悲しいこと、苦しいこともある。そのような中で激流とは親しい人の死や、自分が大病をして死を目前にする悲しみや恐怖。そのような時、どうしたらよいのかブッタに尋ねた。

1093
1094
ブッダの解答は急に難しくなった。「カッパ経」だけを読んだのでは意味は分からないと思われるが、第5章を始めから読んでおられる方はなるほどと思われるであろう。
「無所有と無執著が洲(避難所)だ」がカッパさんへの解答。そして「その他に洲はなく、これが涅槃というものだ。そしてそれがプンナカ学生等の質問にもあった老いと死を滅尽し、克服することであることが述べられた。
無所有(いかなる所有もなく=無一物にして)は、実際に何も持っていないという意味ではなく、所有しているものが自分のものという意識がないという意味。自分自身も自分のものでなく、借りものだという意識でいること。
何故それが必要かと言えば、次の無執著につながる。すべて自分のものでなければ、すべてに執著することにならない。何ものにも束縛されることがない。完全に解放されていて自由。それを涅槃と言う。
そこには老いも死もない。だから、老いと死の滅尽なのである。

1095
「このことをよく知って」とは、「無所有と無執著は洲(避難所)であることをよく知って」ということ。
そのことによく気をつけて実践する人は、この世で、つまり死ぬ前に、全く煩いを離れた(涅槃に到達した)者となるとブッダは述べておられる。
そのような人々は、悪魔に負けない。悪魔の奴隷にならない。悪魔とは欲望の支配者ということだから、そのような人々は欲望に負けない。欲望の奴隷にならないということ。

(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚、あけおめことよろであります。
0012名無しを整える。2018/01/04(木) 11:22:30.60ID:Qm/RdGtn
ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、12、学生ジャトゥカンニンの質問

1096 ジャトゥカンニンさんがたずねた、
「わたくしは、勇士であって、欲望をもとめない人がいると聞いて、激流を乗り越えた人(ブッダ)に<欲のないこと>をおたずねしようとして、ここに来ました。
安らぎの境地を説いてください。生まれつき眼のある方よ。先生! それを、あるがままに、わたくしに説いてしださい。

1097 師(ブッダ)は諸々の欲望を制してふるまわれます。譬えば、光輝ある太陽が光輝によって大地にうち克つようなものです。智慧ゆたかな方よ。智慧の少いわたくしに理法を説いてください。
それをわたしは知りたいのです、──この世において生と老衰とを捨て去ることを。」

1098 師(ブッダ)は答えた、
「ジャトゥカンニンよ。諸々の欲望に対する貪りを制せよ。──出離を安穏であると見て。取り上げるべきものも、捨て去るべきものも、なにものも、そなたに存在してはならない。

1099 過去にあったもの(煩悩)を涸渇せしめよ。未来にはそなたに何ものもないようにせよ。中間においても、そなたが何ものにも執著しないならば、そなたはやすらかにふるまう人となるであろう。

1100 バラモンよ。名称と形態とに対する貪りを全く離れた人には、諸々の煩悩は存在しない。だから、かれは死に支配されるおそれがない。」

ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、13、学生バドラーヴダの質問

1101 バドラーヴダさんがたずねた、
「執著の住所をすて、妄執を断ち、悩み動揺することがなく、歓喜をすて、激流を乗り越え、すでに解脱し、はからいをすてた賢明な(あなた)に切にお願いします。

1102 健き人よ。あなたのおことばを聞こうと希望して、多数の人々が諸地方から集まってきましたが、竜(ブッダ)のおことばを聞いて、人々はここから立ち去るでしょう。
かれらのために善く説明してやってください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるのですから。」

1103 師(ブッダ)は答えた、
「バドラーヴダよ。上にも下にも横にでも中間にでも、執著する妄執をすっかり除き去れ。世の中の何ものに執著しても、それによって悪魔が人につきまとうに至る。

1104 それ故に、修行者は明らかに知って、よく気をつけ、全世界においてなにものおも執してはならない。──死の領域に愛著を感じているこの人々を<取る執著ある人々>であると観て。

(´・(ェ)・`)つ
0013名無しを整える。2018/01/04(木) 11:28:45.49ID:Qm/RdGtn
>>12
1096
ジャトゥカンニン学生。
「<欲のないこと>をおたずねしようとして、ここに来ました。」とブッダに述べたす。彼はそれが安らぎの境地(=寂静の境地)につながることを確信していた。
ブッダを欲望を求めない勇者として、安らぎの境地を尋ねた。

1097
欲望を制した方として、生と老いを捨て去ることを尋ねた。彼は欲望を制することによって、生と老いを捨てることができると考えている。
このことは逆に考えれば理解できると思われる。すなわち、生と老いを捨て去った人には、特に望むことはないのだろうと予想できるということ。
ここで少し注目することは、太陽の光が大地を光によって克服するように、欲望を乾燥させるような方法をイメージしていること。
中村先生の「ブッダのことば」の注によれば、「ウパニシャッドでも同様に言う」と書かれているが、これは伝聞による知識。だからブッダに質問した。

1098
先ず欲望の対応方法が示される。欲望をなくすというよりは欲望に対する貪りを問題にされている。とりあえず欲望があっても問題ない。しかし、欲望に執着することが問題。だから、欲望に対する貪りを制せよと説かれる。
ここで欲望を持ってはいけないと思うのではなく、その欲望に執着しなければ、その欲望を持つ自分を観察することが出来る。この自分はその欲望を持たないでいることもできる。この自分はこのよくから離れれば、安穏で居られる。
Nekkhammaの訳である出離は出家という意味もあるが、ここでは欲から離れること。
この偈で終わりにジャトゥカンニンさんに、ブッダは執着して取り上げるものも、嫌って捨て去るものもあってはならないと無執著の態度が説かれる。

1099
1098のの後半「取り上げるべきものも、捨て去るべきものも、なにものも、そなたに存在してはならない。」を過去、未来、現在に分けて説かれている。
過去にあったもの、悩みや苦しみやトラウマと言われるものも、もう済んて今はないものとして、記憶にあっても執着しないこと。未来に対する心配や恐怖は杞憂であると理解して、また期待や願望は捨て去ること。
そして今の事柄に注力すること。しかし、今の事柄さえ、それは無常であり、必ず変化するものであるから、それに執著しないようにと述べられ。そうすれは、寂静の人になるだろうと、すなわち涅槃の境地を体得すると説かれた。

1100
中村先生訳の始めの言葉「バラモンよ」とはジャントィカンニンさんにたいする呼びかけ。そして「名称と形態とに対する貪りを全く離れた人には、諸々の煩悩は存在しない。」という言葉はこの偈とこの経の眼目。
名称と形態はパーリ語のナーマとルーパの訳だが、名称とは心を意味している。思いや考えのこと。そして、形態は身体や物質を意味している。だから、思いや考えや身体や物質に対する貪りを全く離れた人には、煩悩がない。
つまり欲や怒りや無智がなく、悩み苦しむことがないと説かれている。
正田先生の訳にあるように、名称と形態は心(精神的なもの)と物質だから現象世界と言うことが出来る。現象世界は無限にあり、どの現象を取り上げて、いろいろ思うのは個人個人。
悲観的な人は悲観的な現象を取り上げて思い悩む。また楽天的な人は楽天的な現象を取り上げて喜ぶ。だから現象世界は個人個人が作っているとも言える。
現象世界はその人の関心のある一部に向けられている。
どんな現象世界に対しても、自分が選択した現象世界だが、ただ反応するのではなく、その現象を選択した(作った)のは自分なのだと自覚して、現象に執着しないで、それを選んだ(作った)自分に関心を向けるべし。
どんな場合でも自分が問題なのである。この自分は外の現象を選ぶことができる。他の現象を選べば現象世界は変わる。それにより心は騒がしくも静かにもなる。すべての現象世界への貪りを離れれば、すべての煩悩がなくなる。
(´・(ェ)・`)つ
0014名無しを整える。2018/01/04(木) 11:29:21.00ID:Qm/RdGtn
>>12

1101
「バドラーヴダ経」、中村先生訳と正田先生の訳の最後の部分が異なる。これはそれぞれの先生の訳されたパーリ語の原文が異なるから。正田先生訳の最後の部分は中村先生訳では次の偈、即ち1102番の始めの行になっているから。
「執著の住所をすて」とは、原文の直訳では「家を捨て」。この場合の家とは執著の象徴。ここでは狭い意味での「出家」ではないと思われる。
「妄執を断ち」は、色・声・香・味・触・法への六種の渇愛を断ちと注釈書には解説されている。
「悩み動揺することがなく」は世間法(@利、A不利、B名誉、C不名誉、D非難、E称賛、F楽、G苦)に対して動揺しないということ。
「歓喜をすて」とは、歓喜はやはり興奮状態のこと。寂静の状態の者には歓喜はふさわしくない。また歓喜は既に述べたように、輪廻の支配者たる悪魔の罠。しかし、凡夫にとっては受け入れ難い項目。
「激流を乗り越え」は、煩悩の激流を乗り超えたという意味。
「はからいをすてた」は、中村先生訳「ブッダのことば」の注には「多くの学者は『時間を捨て』と解するが、どうもそぐわないように思われる。」と記されている、注釈書には「(渇愛・見解)という」二類のはからいを捨てた。」と記されている。
「思考でなく智慧で」という意味だと思われる。
この偈全体の意味は、以上のようなブッダに切にお願いしますということになる。

1102
中村先生訳の「竜(ブッダ)のおことばを聞いて、人々はここから立ち去るでしょう。」は正田先生訳では次のように述べられていた。「龍(ブッダ)の〔言葉を〕聞いて、〔ここに集いあつまった者たちは、満足して〕ここから立ち去るでありましょう。」
正田先生のように「満足して」という言葉を補って訳した方が分かりやすいところ。
「多数の人々」は、バーヴァリ・バラモンの16人の高弟がそれぞれ1000人ほどの弟子を連れていたので、「多数の人々」とはほぼ16000人の人々ということ。
そして、バドラーヴダ学生のブッダへのお願いとは、正田先生の訳では、「彼らのために、どうか、〔真実の法を〕説き示してくださ。」ということになる。

1103
バドラーヴダ学生の願いに応じて、ブッダは真理の言葉を述べることになる。
ブッダは「執著する妄執(渇愛)をすっかり除き去れ」と説かれる。「執著する妄執(渇愛)」とは何か? 執着しているものを自分のものにしたいという思いだと思われる。
そのことを「上にも下にも横にでも中間にでも」という言葉で検証してみる。
上とは、天界。死後は天界に生まれ変わるという思い、下とは、死後に地獄に行きたくないという思い、そして、横とは、この世のこと、この世で安楽な暮らしをしたいという思いだろうと思われる。
では中間とは何か。中間とは、上と下と横の中間とは、自分自身。自分自身に対する執着。これが一番強い。これらの執着をすべて捨て去れとブッダは説かれた。
その理由は次の言葉。「それによって悪魔が人につきまとうに至る。」から。何故それがいけないのか。悪魔は欲界(輪廻の世界)の支配者だから、悪魔に付きまとわれると輪廻の世界から解脱出来ないから。
悪魔は我々に、甘い罠をいろいろ仕掛け、修行が出来ないように、解脱出来ないようにするから。

1104
「死の領域」という言葉。
悪魔の支配領域と考えていい。死が存在するのは欲界、輪廻の世界。<取る執著ある人々>は「死の領域」に居るということになる。取る執著のない人は輪廻の世界から解脱するから、死はない。だから一切の執著を捨てなさいと言うことになる。
それはいろいろ想像してもこの世の情報を材料にして考えても分からない世界。ブッダの説かれるようにすべての執著を捨てた時、体験できる。
(´・(ェ)・`)つ
0016名無しを整える。2018/01/05(金) 10:39:15.49ID:vlxSJGZ8
ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、14、学生ウダヤの質問

1105 ウダヤさんがたずねた、
「瞑想に入って坐し、塵垢を離れ、為すべきことを為しおえ、煩悩の汚れなく、一切の事物の彼岸に達せられた(師)におたずねするために、ここに来ました。無明を破ること、正しい理解による解脱、を説いてください。」

1106 師(ブッダ)は答えた、
「ウダヤよ。愛欲と憂いとの両者を捨て去ること、沈んだ気持ちを除くこと、悔恨をやめること、

1107 平静な心がまえと念いの清らかさ、──それは真理に関する思索にもとづいて起るものであるが、──これが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、わたしは説く。」

1108 「世人は何によって束縛されているのですか? 世人をあれこれ行動させるものは何ですか?何を断ずることによって安らぎ(ニルヴァーナ)があると言われるのですか?」

1109 「世人は歓喜に束縛されている。思わくが世人をあれこれ行動させるものである。妄執を断ずることによって安らぎがあると言われる。」

1110 「どのように気をつけて行っている人の識別作用が、止滅するのですか? それを先生におたずねするためにわたくしはやってきたのです。あなたのそのおことばをお聞きしたいのです。」

1111 「内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、このようによく気をつけて行っている人、の識別作用が止滅するのである。」
(´・(ェ)・`)つ
0017名無しを整える。2018/01/05(金) 11:11:30.63ID:vlxSJGZ8
>>16
1105
ウダヤ経。ウダヤ学生は注釈書によると、第四禅定を得ていたと記されている。
ウダヤさんの問いをこの経では三回に分けて質問。今回の問いは「無明を破ること、正しい理解による解脱」について。この表現では「無明を破ること」と「正しい理解による解脱」は同じことなのか、別のことかよく分からない。
ウダヤさんはどのように考えていたのか。正田先生の訳でも「了知による解脱を、無明の破壊を、〔わたしに〕説いてください。」となっているので、その点についてはよく分からない。

1106
ブッダは無明と解脱を説く前に、先ず愛欲について説かれた。仏教用語で愛欲とは対象に強く執着すること。人間の心は愛欲によって盲目になる。これによって事実を正しく見ることが出来ない。
また心の苦しみである憂いについて述べた。これにより人間はエネルギーが失われ、活力がなくなる。だから無明を破るためには、愛欲を捨て、憂いを捨てることが大切。
更に、仏教用語で沈(こんちん)と言われる言葉がある。この意味は心が沈んで、委縮した状態。これを排除するように説かれた。
また後悔もしないように述べられた。世間では反省は必要なことと思われているが、注意しなければならないことは、反省と称して後悔している場合が多い。
過去のことは終わったことで、どうすることもできない。必要な反省はさっさと行い、後悔をしないこと。後悔をすればするほど心は汚れ、暗くなる。これらは無明を破る前提。

1107
愛欲と憂いと落ち込みと後悔、これらのものが消えたとき、心は平静で思いは清浄になる。このときの状態をブッダは第四禅定と名付けた。
この偈ではこれを「それは真理に関する思索にもとづいて起るものであるが(中村先生訳)」と訳されている。しかし、これは言葉の限界で事実をありのままに伝えられていないと思われる。
まず、思索という言葉だが、これは広辞苑によると「物事をすじみちを立てて深く考え進むこと」と記されている。考えことは概念によるものであり、概念に拘束されるから、ありのままに見ることはできない。
あえて訳せば「それは物事を正しく観する察ことによって起こるものであるが」ということになると思われる。
以上をまとめて言えば、「愛欲と憂いと落ち込みと後悔、これらのものが消えたとき、物事を正しく観察することによって、無明が破られる。これが正しい理解による解脱と、私は説く。」ということになる。
ウダヤさんは第四禅定を得ていたから、ブッダのことばを了解したのだと思われる。

1108
ウダヤさんは更に三つの質問をした。
1.世人は何によって束縛されているのか?
ここで束縛と訳された言葉はsayojanoだが、辞書には「縛、結縛、束縛、軛(くびき)」等が記されている。軛は牛馬の後頸にかける横木だが、比喩的に自由を束縛するものとして使われる。
つまり、人々は何によって自由を束縛されているのかということ。
2.世人をあれこれ行動させるものは何か?
この問の訳は1の問いと無関係な問いとして訳されているように取れるが、1の束縛を機能させるものは何かと訳すこともできる。

3.何を断ずることによって安らぎ(ニルヴァーナ)があると言われるのか?
この三つの問いの目的は三番目にあると思われるから、1.2.3.の質問は関連したものとして理解した方がよいと思われる。
(´・(ェ)・`)つ
0018名無しを整える。2018/01/05(金) 11:44:26.47ID:vlxSJGZ8
>>16
1109
ブッダのウダヤさんの質問に対する解答。
1.世人は歓喜に束縛されている。
バドラーヴダ経参照。(1101番>>12>>14)
2.思わくが世人をあれこれ行動させるものである。(中村先生訳) 
思考が、それにとっての彷徨となります。(正田先生訳)
中村先生訳であれば、この解答は1の歓喜とは関係ないが、正田先生訳であれば歓喜(愉悦)にとっての彷徨(うろつくこと)になる。意味は分かり難いが。
思考(妄想)が歓喜の原因となっているとも理解できる。
3.妄執を断ずることによって安らぎがあると言われる。(中村先生訳)
渇愛を捨棄することで、『涅槃』と呼ばれます。(正田先生訳)
歓喜を求めることが妄執(渇愛)だから、妄執(渇愛)を断ずること(捨棄すること)とは歓喜を捨てること。歓喜を捨てることは束縛を捨てること。束縛を捨てることは自由になることであり、安らぎ(涅槃)あると呼ばれる。

1110
ウダヤさんの三回目(最後)の質問。
・どのように気をつけて行っている人の識別作用が、止滅するのか?(中村先生訳)
・どのようにして、〔あるがままに〕行じおこなう、気づきある者の、識知〔作用〕(識:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)は止滅するのか。(正田先生訳)

十二因縁の教えによれば、無明などの十二の項目のどれか一つが滅すれば、すべて苦の滅があり、それは解脱です。そのために、ウダヤさんは最後に識(識別作用)はどのようにして滅することができるのかブッダに尋ねた。

識(識別作用)とは、心の本質のようなものだから、識別作用の滅とは心を滅するという意味になる。
そのことは想像できない。自己と他者を識別する働きと取れば、自他無二、自己と他者は一体であると感じることであろか。

1111
この経の最後の偈で一番大切。
無明などの十二の項目のどれか一つが滅すれば、すべて苦は滅するのだから、どれか一つを滅すればよい。
しかし、ブッダはウダヤ学生に識別作用を止滅させることを説かれた。それはウダヤさんにそれが一番適切であると思われたからだと思われるが、それは現代の多くの人々にも適切なのだろうと思われる。
この偈をよく読むと三段階になっている。第一段階は修行の目標。それは識別作用を止滅させること。
第二段階は、そのために感覚的感受を喜ばないこと。感覚的感受とは、苦と楽と不苦不楽と説かれているから、直接的には楽を喜ばないことが必要。それをどのようにするのか? 
その方法が第三段階。すなわちそれは「よく気をつけて行っている」ことが必要。それがヴィパッサナー瞑想。楽と感じる感覚的感受をよく気をつけていること(念:サティ)によって抑えられる。
そのようにして感覚的感受を喜ばないことができる。尚、よく気をつけていること(念:サティ)については、第5章の一番始めの経であるアジタ経参照。(1035 >>300>>302)
感覚的感受を喜ばなければ、感受作用が止滅する。(感受作用の止滅とは感覚がなくなるのではなく、苦、楽、不苦不楽と感じるのではなく、ただ感じていることとと思われる。)
そうすれば渇愛は起こることはなく、解脱するということになるが、その時、識別作用は止滅している。
「内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人」の「内面的」とは苦、楽、不苦不楽のことであり、「外面的」には色、声、香、味、身、法を指しているのだろうと思われる。
(´・(ェ)・`)つ
0020名無しを整える。2018/01/05(金) 12:45:17.90ID:vlxSJGZ8
>>19
再訂正

正しいレス番に飛ばないようであります。
>>302まで遡る。
1035、念:サティについての解説あり。
(´・(ェ)・`)つ
0021鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/01/05(金) 22:09:40.98ID:jPsrPYvP
どれか一つだけではいかんのじゃ。
無明がなくならない限り苦はなくならないのじゃ。
あるがままに観察して滅するのじゃ。
0022名無しを整える。2018/01/05(金) 22:41:12.65ID:vlxSJGZ8
>>21
実は、元ブログの原文でも混乱のあったヵ所であります。


<1110>の貴コメントの中に、
「十二因縁の教えによれば、識(識別作用)が滅すれば、行(形成作用)が滅し、行が滅すれば無明が滅するのです。」とのご説明がありました。
しかし、このご説明は、伝統的な十二縁起の滅観の一般的理解とは縁起の論理が逆転しているように読めます。
伝統的な十二縁起の滅観においては、
無明が滅することに縁って(無明が滅すれば)行が滅する。
行が滅することに縁って(行が滅すれば)識が滅する。
識が滅することに縁って(識が滅すれば)名色が滅する。
・・・・・
とされています。

という読者からの指摘に対して、

確かに、「十二因縁の教えによれば、識(識別作用)が滅すれば、行(形成作用)が滅し、行が滅すれば無明が滅するのです。」の説明は正しくはありません。ですから次のように訂正します。
「十二因縁の教えによれば、無明などの十二の項目のどれか一つが滅すれば、すべて苦の滅があり、それは解脱です。」
よくわからなかったので、訂正された文章をはめ込みました。

ご指摘ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ
0023名無しを整える。2018/01/06(土) 10:32:20.72ID:FRZfFb+Y
ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、15、学生ポーサーラの質問

1112 ポーサーラさんがたずねた、
「過去のことがらを説示し、悩み動揺することなく、疑惑を断ち、一切の事物を究めつくした(師)におたずねするために、ここに来ました。

1113 「物質的なかたちの想いを離れ、身体をすっかり捨て去り、内にも外にも『なにものにも存在しない』と観ずる人の智を、わたしはおたずねするのです。シャカ族の方よ。そのような人はさらにどのように導かれねばなりませんか?」

1114 師(ブッダ)は答えた、
「ポーサーラよ。すべての<識別作用の住するありさま>を知りつくした全き人(如来)は、かれの存在するありさまを知っている。すなわち、かれは解脱していて、そこをよりどころとしていると知る。

1115 無所有の成立するもとを知って、すなわち『歓喜は束縛である』ということを知って、それをこのとうりであると知って、それから(出て)それについてしずかに観ずる。安立したそのバラモンは、この<ありさまに知る智>が存する。」


ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、16、学生モーガラージャの質問

1116 モーガラージャさんがたずねた、
「わたくしはかってシャカ族の方に二度おたずねしましたが、眼ある方(釈尊)はわたくしに説明してくださいませんでした。しかし『神仙(釈尊)は第三回目には説明してくださる』と、わたくしは聞いております。
1117 この世の人々も、かの世の人々も、神々と、梵天の世界の者どもも、誉れあるあなたゴータマ(ブッダ)の見解を知ってはいません。

1118 このように絶妙な見者におたずねしょうとしてここに来ました。どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?」

1119 (ブッダが答えた)、
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。」

(´・(ェ)・`)つ
0024名無しを整える。2018/01/06(土) 10:38:51.52ID:FRZfFb+Y
>>23
1112
ポーサーラ学生が問うという経。
質問の前に彼はブッダを「過去のことがらを説示し」と賞讃。これは人々の過去生を見ることができると評価している。
「悩み動揺することなく」、人々はすべていつも悩み動揺しているから、動揺しないことは称賛すべきこと。
「疑惑を断ち」、これも普通の人間はできないこと。人々はいつも疑惑の中にいて、確信することがない。
「一切の事物を究めつくした(師)に」の「一切の事物」とは「一切の事物の本質と法則=真理」と理解した方が分かりやすい。
真理は一つだから、この一つを究めた人は一切を究めた方なのである。一方、学問は一切の事物の本質を究めることなく、現象を研究しているから、究め尽くすことが出来ない。

1113
ポーサーラ学生の質問の内容はかなり難しい。先ず、「物質的なかたちの想いを離れ」(中村先生訳)はどのような意味なのか?
この意味は分かり難いので、正田先生は、「実体を離れた形態の表象ある者」と訳され、次のような解説をされた。
(妄想によって固定され実体化された形相を捨象し、認識対象をあるがままに表象する者)、これはよく読んで考えれば意味は分かるが、原文のVibhtarpasaissa
はそのような意味なのか?
そして「身体をすっかり捨て去り」を文字通りにとれば、肉体を捨てるとは死んだ時だが、この偈で意味していることはまだ死ぬ前の人について述べているのだから、その意味ではないと思われる。ではどのような意味か?
「物質的なかたちの想いを離れ」と「身体をすっかり捨て去り」とを合わせて、既に何度か述べられた「名称と形態の消滅」を意味しているのではないか。
そのような意味であるならば、そのような人は、「私(個人)という想いのない人(無我の人)」なのではないか。このような人は解脱している。
そのような人は「内にも外にも『なにものにも存在しない』と観ずる人」だが、ここで少し注意しなければならないことがある。
それは無色界の禅定に「無所有処定」(何もないことを認識している境地)というレベルがあるが、このレベルはまだ涅槃の境地ではないから、まだ上を目指さなければならない。
しかし、ここは解脱した人の「なにものにも存在しない」ということだと思うから、同じ表現だが、内容は異なる。
そしてポーサーラ学生の質問は、解脱した人が更に導かれることが必要ですかということで、更にどのような修行が必要ですかとブッダに尋ねていることになると思われる。

(´・(ェ)・`)つ
0025名無しを整える。2018/01/06(土) 10:50:01.91ID:FRZfFb+Y
>>23
1114
修行完成者のあり方が述べられている。それは解脱して如来になられた方だから、更に修行をする必要はない。
そのような方は、すべての<識別作用の住するありさま>を知りつくした全き人。
<識別作用の住するありさま>の意味は、中村先生訳「ブッダのことば」の注によれば、
四識住(色、受、識、行)と七識住(@、人間、天の一部、四悪趣の一部、A初生の梵衆天、B光音天、C浄天、D空無辺処天、E識無辺処天、F無所有処天)の二つがあげられていると記されている。
<識別作用の住するありさま>とは、簡単に言えば「心のありさま」。アビダンマでは心を欲界心54種、色界心15種、無色界心12種、出世間心8種、合計89種の心について述べられている。如来はそれらすべてを知り尽くしている。
そして、「かれの存在するありさまを知っている」の意味は、それらの心にある人の状態をして知りつくしたということ。
「かれは解脱していて、そこをよりどころとしていると知る。」の「よりどころ」のパーリ語はparyaaですが、それには究極、行き着く所と意味があり、彼は究極、行き着く所を知っていて、そこに行き着いたということ。
この偈で如来という言葉が使われているということは、そのように来た人、或はそのように行き着いた人の意味。
この偈は修行完成者、如来について述べられている。如来は更に修行する必要はない。

1115
今回の偈も難しいので一応解説するが、間違っているかもしれない。これを参考意見として読み、自分で探究すべし。
ポーサーラ学生は1113偈で「内にも外にも「なにものも存在しない」と観ずる人の智を」ブッダに尋ねたが、その時の「なにものも存在しない」は「物質的なかたちの想いを離れ、身体を捨て去り」という条件が付いていた。
しかし、今回の1115偈の始めの言葉「無所有」はパーリ語kicaaだが、無色界の禅定である無所有処の境地を意味している。これではまだ如来(ブッダ)の境地ではない。
そこで、修行者はこの無所有処の境地を静かに観察する。そうするとその境地のもとに喜びがあることを知る。すなわち自分はこの境地を喜んでいることを知る。そして「この喜びが束縛である」と言う智慧が現れる。
この智慧の現れたバラモン(修行者)には、「ありのままに知る智」が現れ、修行が完成する。
無所有の境地は、このポーサーラ学生達の師匠であるバーヴァリ・バラモンもこの境地を願って南国に向った(976偈)のように、当時の修行者達の目指すべき目標だった。
しかし、単に「何ものも存在しない」という境地だけであるならば、それが最高の境地であるか分からない。前偈1114偈の学んだように、心のありさまを知り尽くすことが必要。

(´・(ェ)・`)つ
1114の<識別作用の住するありさま>の意味の解説は、全く理解できないくまである。
0026名無しを整える。2018/01/06(土) 10:57:16.61ID:FRZfFb+Y
>>23
1116
15番目の質問者モーガラージャ、(モーガラージャン)
実はモーガラージャ学生は、始めの質問者アジタ学生の次にブッダに質問した。しかし、ブッダは彼の質問に答えなかった。注釈書には「彼の機根が熟すのを待つために答えなかった」と記されている。
アジタ学生の質問の流れから外れるために、ブッダは彼の質問を飛ばして、次のティサ・メテイヤ学生の質問に答えたようにも思える。
更に、彼はティサ・メテイヤ学生の質問の後にもう一度ブッダに同じ質問をした。その時もブッダは彼の質問に答えなかった。
彼の質問にブッダは答えたくなかったのだと思われる。彼の質問は直接答えを教えて下さいというようなものだったからと思われる。
ブッダは、答えを導く方法を教えるが、問題を解くのは自分で行いなさいという意図があるように思われる。
しかし、モーガラージャ学生が述べているように、ブッダは三度同じ質問をされればその質問に答える。そこでついに今回、モーガラージャ学生の三度目の質問に答えることになった。

1117
まだモーガラージャさんの質問には入らない。彼は質問の前にゴータマ・ブッダ様の見解をこの世の人々もあの世の人々も神々も梵天も自分を含むすべての生命は知らないと述べる。
これはブッダが一切知者であり、ブッダには世間の智でない、出世間の智があることを称賛している。

1118
やっと、モーガラージャさんの質問の内容が明らかになった。「どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?」これがモーガラージャさんの質問。この質問の「死王は見ることがない」と同様の表現はダンマパダ170にある。
「世の中は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。
世の中をこのように観ずる人は、死王もかれをみることがない。」(中村先生訳ダンマパダ170)
死王が見ることの出来ない人はどのような人なのか。死王は悪魔の別名。悪魔は欲界の支配者、欲のある生命を見て支配することができる。しかし、欲のない生命は見ることが出来ない。
モーガラージャさんの質問の内容は、完全に欲をなくした人の境地をブッダに尋ねている。完全に欲をなくした人とは貪欲(欲界の欲)、色貪(色界の欲)、無色貪(無色界の欲)などのすべての欲をなくした解脱した人。
つまり解脱した人の境地(涅槃)について尋ねている。
モーガラージャさんは巧妙にブッダに涅槃について尋ねた。ブッダは涅槃を言葉で表現できないということもあるが、それは自分で修行して体得すべきことだと考えておられたから、彼の質問には答えなかったのだと思われる。
しかし、三度尋ねられたからということもあるが、16人の質問者の15番目になりましたから、質問に答えることにした。

(´・(ェ)・`)つ
0027名無しを整える。2018/01/06(土) 11:06:44.58ID:FRZfFb+Y
>>23
1119
いよいよ、モーガラージャさんの質問に対する答え。
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。」これがその答え。
答えの中心は、「世界を空と観ずる人を<死の王>は見ることはない。」ということになる。では「世界は空である」とはどういうことか分からなければ、この偈の意味は分からない。後にこの「空」は大乗仏教で空の哲学として究明することになる。
しかし、ここではパーリ経典相応部第四巻第2部4章第2節の「空経」を参考にして考えてみる。アーナンダ尊者のブッダへの質問の始めの部分を引用。以下の世間という言葉はパーリ語ではローカで世界と同じ言葉。
「尊い方よ、『世間は空である、世間は空である』といわれていますが、いったいどの点から、『世間は空である』といわれるのですか」と。
「アーナンダよ、実に我について空であり、我に属するものについて空であるから、それゆえに、世間は空といわれる。アーナンダよ、我について空であり、我に属するものについて空である、とは何であるか。
アーナンダよ、実に、眼は我について空であり、我に属するものについて空である。色は我について空であり、我に属するものについて空である。眼の識別作用(眼識)は我について空であり、我に属するものについて空である。
眼と色と識別作用との接触(眼触)は我について空であり、我に属するものについて空である。
また、眼の接触によって生じるところの、楽と感じること、苦と感じること、苦でもなく楽でもないと感じること、それもまた我について空であり、我に属するものについて空である。
(以下同様な内容が耳、鼻、舌、身、意について述べられます。そして、結論は次の通りです。)

「アーナンダよ、実に、我について空であり、我に属するものについて空でから、それゆえに、世間は空であるといわれるのである。」」
(春秋社版:原始仏典U相応部経典第四巻182p:から引用)

空を難しく考えずに、「空っぽ」と解してもよい。空っぽに対しては欲も起こらす、執着もない。そのような人には欲はない。だから悪魔は見ることが出来ず、悪魔の支配から離れている。
ブッダは解脱した人の境地(涅槃)を「空」で説かれたが、その際も修行者にとって一番大切なこと、「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って」、そうすれば、「世界は空である」と分かるという形でこの偈を述べられた。
(´・(ェ)・`)つ
0028名無しを整える。2018/01/06(土) 13:50:34.88ID:FRZfFb+Y
ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、17、学生ビンギヤの質問

1120 ビンギヤさんがたずねた、
「わたくしは年をとったし、力もなく、容貌も衰えています。眼もはっきりしませんし、耳もよく聞こえません。わたくしが迷ったままで途中で死ぬことのないようにしてください。
どうしたらこの世において生と老衰とを捨て去ることができるのですか、そのことわりを説いてください。それをわたくしは知りたいのです。」

1121 師(ブッダ)は答えた、
「ビンギヤよ。物質的な形態があるが故に、人々が害われるのを見るし、物質的な形態があるが故に、怠る人々は(病などに)悩まされる。ビンギヤよ。それ故に、そなたは怠ることなく、物質的形態を捨てて、再び生存状態にもどらないようにせよ。」

1122 「四方と四維と上と下と、これらの十方の世界において、あなたに見られず聞かれず考えられずまた識られないものもありません。
どうか理法を説いてください。それをわたくしは知りたいのです、──どうしたらこの世において生と老衰とを捨て去ることを。」

1123 師は答えた、
「ビンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ビンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」


ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、18、一六学生の質問の結語

 師(ブッダ)は、マガダ国のパーサーカ霊地にとどまっておられたとき、以上のことを説かれ、(バーヴァリの)門弟である一六人のバラモンに請われ問われる度ごとに、質問に対して解答をのべた。
もしもこれらの質問の一つ一つの意義をしり、理法を知り、理法にしたがって実践したならば、老衰と死との彼岸に達するであろう。これらの教えは彼岸に達せしめるものであるから、それ故にこの法門は「彼岸にいたる道」と名づけられている。

1124 アジタと、ティッサ・メッテイヤと、プンナカと、メッタグーと、ドータカと、ウバシーヴァと、またヘーマカと、

1125 トーデーヤとカッパとの両人と、賢者なるジャトゥカンニンと、バドラーヴダと、ウダヤと、ポーサーラ・バラモンと、聡明なモーガラージャと、偉大な仙人であるピンギヤと、──

1126 これらの人々は行いの完成した仙人である目ざめた人(ブッダ)のもとにやってきて、みごとな質問を発して、ブッダなる最高の人に近づいた。

1127 かれらが質問を発したのに応じて、目ざめた人はあるがままに解答された。聖者は、諸々の質問に対して解答することによって、諸々のバラモンを満足させた。

1128 かれらは、太陽の裔である目ざめた人・眼ある者(ブッダ)に満足して、優れた智慧ある人(目ざめた人)のもとで清らかな行いを修めた。

1129 一つ一つの質問に対して<目ざめた人>が説かれたように、そのように実践する人は、此岸から彼岸におもむくことであろう。

1130 最上の道を修める人は、此岸から彼岸におもむくであろう。それは彼岸に至るための道である。それ故に<彼岸にいたる道>と名づけられる。

(´・(ェ)・`)つ
0029鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/01/06(土) 21:45:31.70ID:8mzOrYRN
要するに心の働きを全て観察して厭離するということじゃな。
認識にまで観察が至ればもはや悟りがやってくるのじゃ。
0030名無しを整える。2018/01/06(土) 22:31:48.85ID:FRZfFb+Y
1/1120
ピンギヤの経。注釈書によれば、この時、彼は120歳。眼はよく見えなく、耳もよく聞こえない。彼は大仙人ピンギヤと呼ばれて、1000人もの内弟子もいた。
しかし、彼は生と老いを乗り越える理法を知らなかった。そのためこの老修行者は愚かなまま死にたくないという悲痛な叫びをブッダに訴えた。
この経は16人の質問者のまとめの経にもなっている。

1121
人々は肉体に執着しているために、だんだん衰えて、弱くなり、壊れて行く肉体に対して悩み苦しんでいるのだと説かれる。
「それ故に、そなたは怠ることなく、物質的形態を捨てて、再び生存状態にもどらないようにせよ。」(中村先生訳)と説かれた。「怠ることなく」は、肉体への執着が苦しみの原因であることによく気付いて、ということ。
「物質的形態を捨てて」は肉体への執着を捨てて。ということ。「再び生存状態にもどらないようにせよ」は輪廻から解脱せよということ。これが「この世において、生と老いを捨て去ること。

1122
ピンギヤさんは、再度同じ質問をする。
ピンギヤさんは老いて無力だったので、特別な境地を証得しないまま、世尊に再度て説示を乞う。
ブッダは、別の言葉によって答える。

(´・(ェ)・`)つ
0031名無しを整える。2018/01/06(土) 22:34:40.88ID:FRZfFb+Y
1123
ブッダは、再度ピンギヤさんの質問に答える。それは仏教の一番大切の教えである四聖諦の核心。
ピンギヤさんは、高齢になり、多くに人々が生きることに苦しみ、また自分自身も生きることが苦であることを実感したでしょうとブッダは述べる。これが四聖諦の第一苦聖諦。
そして、それらの苦しみの原因が渇愛(妄執)であることもよく観て来たでしょうとブッダは言う。これが第二苦集聖諦。
生きることの苦しみを取り除くためには、苦しみの原因をなくせばよい。苦しみの原因は渇愛(妄執)だから、渇愛(妄執)をなくせばよい(第三苦滅諦)。
だから、ブッダはピンギヤさんに「そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」と説かれた。
「怠ることなくはげみ、妄執を捨てて」は、妄執(渇愛)を捨ててと言われても簡単にはでない。そこで「怠ることなくはげみ」ことが必要になる。
この内容は第四苦滅道聖諦だが、具体的には八正道だが、狭い意味では八正道の正念。心に妄執(渇愛)が現れないようによく気付いていること。これにより妄執を捨てることができる。
「再び迷いの生存にもどらないように」とは、再び生まれ変わらないように、すなわち輪廻を繰り返さないようということ。
妄執(渇愛)がなくなれば、再度生まれたいという要因がなくなるから、再度生まれ変わるということがなくなる。
(´・(ェ)・`)つ
0032名無しを整える。2018/01/06(土) 22:46:57.30ID:FRZfFb+Y
彼岸に到る道の結語の序.

「第五章 彼岸に到る道の結語の序」
「もしもこれらの質問の一つ一つの意義をしり、理法を知り、理法にしたがって実践したならば、老衰と死との彼岸に達するであろう。」
解脱して涅槃に達することができるであろうということ。本文の意義と理法を再確認して、目標達成のてこにするべし。

1124 1125 1126
16人のバーヴァリ・バラモンの高弟が質問するためにブッダに近づいた。

1127
真理を探究していた修行者の究極の質問に、即座に答え、彼らを満足させるブッダという存在に改めて感動する。

1128
16人の学生達と彼らの弟子達はブッダの説法を聞いたら、すぐその場で、説かれたように、そのように実践してたのだ。

1129
16人の学生達の質問は、彼岸(悟りの世界)に至る道のりの最後の難関だった。ブッダが示された解答は、最後の難問を問うことができる修行者だったから、そのような質問が出来たの。
またそれに対する解答を理解することが出来、その場で実践できた。

1130
ブッダは最終的には、最上の道を選択してその道を進むことになると教えている。その故にその最上の道とは、彼岸(涅槃)に到る道であると説かれている。
(´・(ェ)・`)つ
0033名無しを整える。2018/01/06(土) 23:24:51.68ID:FRZfFb+Y
>>29
鬼和尚、ありがとうであります。
心の働きを全て観察するであります。
(´・(ェ)・`)つ
0034名無しを整える。2018/01/07(日) 14:58:25.22ID:fn0tE7QK
ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、18、一六学生の質問の結語

1131 ピンギヤさんは(バーヴァリのもとに帰って、復命して)いった、
「<彼岸に至る道>をわたくしは読誦しましょう。無垢で叡智ゆたかな人(ブッダ)は、みずから観じたとおりに説かれました。無欲で煩悩の叢林のない立派な方は、どうして虚妄を語られるでしょうか。

1132 垢と迷いを捨て去って、高慢と隠し立てとを捨てている(ブッダ)の、讃嘆を表わすことばを、さあ、わたくしは誉めたたえることにしましょう。

1133 バラモンよ。暗黒を払う<目ざめた人>(ブッダ)、あまねく見る人、世間の究極に達した人、一切の迷いの生存を超えた人、汚れのない人、一切の苦しみを捨てた人、
──かれは真に<目ざめた人>(ブッダ)と呼ばれるにふさわしい人でありますが、わたくしはかれに近侍しました。

1134 たとえば鳥が疎な林を捨てて果実豊かな林に住みつくように、そのようにわたくしもまた見ることの少い人々を捨てて、白鳥のように大海に到達しました。

1135 かつてゴータマ(ブッダ)の教えよりも以前に昔の人々が『以前にはこうだった』『未来にはこうなるであろう』といってわたくしに説き明かしたことは、すべて伝え聞きにすぎません。それはすべて思索の紛糺を増すのみ。

1136 かれは独り煩悩の暗黒を払って坐し、高貴で、光明を放っています。ゴータマは智慧ゆたかな人です。ゴータマは叡智ゆたかな人です。

1137 即時に効果の見られる、時を要しない法、すなわち煩悩なき<妄執の消滅>、をわたくしに説示しました。かれに比すべき人はどこにも存在しません。」

1138 (バーヴァリがいった)、「ピンギヤよ。そなたはね智慧ゆたかなゴータマ、叡智ゆたかなかのゴータマのもとから、瞬時でも離れて住むことができるのか?

1139 かれはまのあたり即時に実現され、時を要しない法、すなわち煩悩なき<妄執の消滅>、をそなたに説示した。かれに比すべき人はどこにも存在しない。」

1140 (ピンギヤがいった)、「バラモンさま。わたくしは、智慧ゆたかなゴータマ、叡智ゆたかなかのゴータマのもとから、瞬時でも離れて住むことができません。
(´・(ェ)・`)つ
0035名無しを整える。2018/01/07(日) 15:08:36.44ID:fn0tE7QK
>>34
1131
ピンギヤ学生が、彼の師匠のバーヴァリ・バラモンのもとに帰り、師匠の質問を交えて、ブッダの説法を報告とする。
120歳のピンギヤさんがブッダのもとにたどり着いたと同様に、師匠のもとに帰って行った困難を思わずに、この偈を読むことはできない。

注釈書の解説によると、「世尊が『彼岸に到る道』の説法をすると、一万六千人の結髪者たちが阿羅漢の境地を得て、残りの一億四千万を数える神々や人間達に法の領解があった」と記されているから、
そのような噂は既にバーヴァリ・バラモンのもとに届いていたのではないかと思われる。
ピンギヤさんは師匠との約束を守り、師匠のもとに帰り、報告を始める。「<彼岸に至る道>をわたくしは読誦しましょう。」と述べ、「無垢で叡智ゆたかな人(ブッダ)は、みずから観じたとおりに説かれました。」と報告する。
ここでピンギヤさんは「そのようなブッダが偽りを言うはずがありません。」と述べると、バーヴァリ・バラモは、その話を聞きたいという想いがさらに募った。

1132
垢と迷いを捨て去って、高慢と隠し立てとを捨てている方。
垢とは、心の汚れで煩悩を意味している。迷いは、mohaの訳で暗愚、愚鈍、愚痴などの意味を含んでいる。
「高慢」と「隠し立て」を捨てていることに注目している。「高慢」とはmnaの訳だが、一般的には慢と訳され、阿羅漢になるまで残っている根強い煩悩の一つ。
「隠し立て」はmakkhaの訳だが、恩義を踏みにじる、他人の善を無視するという意味。他人を正しく評価するということになる。

1133
「バラモンよ」はピンギヤさんの師匠であるバーヴァリ・バラモンを指す。
「暗黒を払う人」。暗黒とは無明、無知を意味する。闇の中で明かりをともし、周りがすべて見える状態になった人。
「目覚めた人」。真実を自覚している人。私達は起きている状態の時は目覚めていないとは思ってはいないが、目覚めた人から見れば、夢を見ている状態。夢の中でライオンに遭遇していても、眼が醒めればライオンはいないようなもの。
凡夫の見ている世界は夢のようなもの。
「あまねく見る人」。凡夫は、いつも自分の周りの一部分しか見ていない。ブッダはすべてを見ている。
「世間の究極に達した人」。世間解とも言われるが、世間のすべてに通じるようになると世間を超えたことが解るようになる。
例えば、無限というものは理解できないものだが、有限の世界を完全に理解すると、無限が分かるというようなもの。
「一切の迷いの生存を超えた人」。迷いの生存とは、天界、人間、修羅、餓鬼、畜生、地獄の輪廻の世界での生存を言う。それを超えた人とは解脱した人。
「汚れのない人」。煩悩のない人。
「一切の苦しみを捨てた人」。一切の苦しみは無明、渇愛から生まれますから、無明、渇愛をなくした人。
「真に<目ざめた人>(ブッダ)と呼ばれるにふさわしい人=真理を呼び名とする方」。真実の人と呼ばれるのにふさわしいという人。
そのような人の側に近づき、説法を聞き、その教えを実践したのですとその感動を師匠に伝えた。
(´・(ェ)・`)つ
0036名無しを整える。2018/01/07(日) 15:24:11.69ID:fn0tE7QK
>>34
1134
ピンギヤさんは、鳥は餌になる木の実や果物がない森から離れて、食べ物になる果実の豊富な森に住むように、
修行者である自分は智慧ない人々から離れて、白鳥のように、大海原のような智慧のあるブッダのもとに到着しましたと述べた。

1135
ヘーマカ学生の偈1084 参照。
伝聞では、確かな確証はない。事実に基づかない思考は砂上の楼閣。迷いの世界からは抜け出ることはない。事実はどうか明確にして、真理を追究することが大切。

1136
彼岸(涅槃)への道は、独りで歩むもの。
暗黒を払うとは、無明を破ること。無明はすべての煩悩の元にあるものであり、すべての煩悩の親玉。無明が破れれば、すべての煩悩はなくなる。すべての煩悩がなくなれば、解脱。もう輪廻を繰り返すことはない。
解脱した人は光輝く人であり、光の担い手。その意味は他の人の道しるべになるということ。ゴータマ・ブッタはまさにそのような方。
「智慧ゆたかな人」と「叡智ゆたかな人」の違いはよく分からないが、ゴータマ・ブッダの智慧が世間の知恵以上の世間の智慧を超えた出世間の知恵の持主であることを称賛しているのだと思われる。

1137
世尊の説かれた法と特徴は、「法の六徳」として仏教徒に常に唱えられる言葉があるが、この偈では、そのままの言葉、或は異なる言葉で述べられている。sandihikaは「即時に効果の見られる。」そしてaklikaは「時を要しない。」
さらに、Tahakkhayaは「渇愛の滅尽」が、これは涅槃に導く教えということ。
また、antikaは「無災の、安全な、息災の」である教えという意味。このような教えを説く方は、他にはいないとピンギヤは最高の称賛をブッダに対して述べた。

1138、1139
ピンギヤさんの師匠であるバーヴァリ・バラモンは、ピンギヤさんに問いかける。「ピンギヤよ。そなたは、智慧ゆたかなゴータマ、叡智ゆたかなかのゴータマのもとから、瞬時でも離れて住むことができるのか?」と

1139は、1137とme(わたくしに)がte(そなたに)に入れ替わった以外はすべて同じ言葉。バーヴァリ・バラモンもピンギヤさんと同じ評価をゴータマ・ブッダに対して行った。

(´・(ェ)・`)つ
1140解説は次回。
0037名無しを整える。2018/01/07(日) 18:41:23.11ID:fn0tE7QK
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1)「潜在意識、マーフィーの法則」(くまのへっぽこ脱出大作戦)
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3) 「信心銘 」>>389
http://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1491878919/389
4)「真理のことば(ダンマパダ)」>>562
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5)ブッダのことば(スッタニパータ)>>782
http://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1491878919/782
スッタニパータ、533番〜1072番
http://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1509160394/1

(´・(ェ)・`)つ
0038鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/01/07(日) 22:35:36.97ID:Bk2BEwNd
>>33 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。
0039名無しを整える。2018/01/08(月) 08:38:54.42ID:aioyVsIE
ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、18、一六学生の質問の結語

1140 (ピンギヤがいった)、「バラモンさま。わたくしは、智慧ゆたかなゴータマ、叡智ゆたかなかのゴータマのもとから、瞬時でも離れて住むことができません。

1141 まのあたり即時に実現される、時を要しない法、すなわち煩悩なき<妄執の消滅>、をわたくしに説示されました。かれに比すべき人はどこにも存在しません。

1142 バラモンさま。 わたくしは怠ることなく、昼夜に、心の眼を以てかれを見ています。かれを礼拝しながら夜を過ごしています。ですから、わたくしはかれから離れて住んでいるのではないと思います。

1143 信仰と、喜びと、意と、念いとが、わたくしを、ゴータマの教えから離れさせません。どちらの方角でも、智慧豊かな方のおもむかれる方角に、わたくしは傾くのです。

1144 わたくしは、もう老いて、気力も衰えました。ですから、わが身はかしこにおもむくことはできません。しかし想いを馳せて常におもむくのです。バラモンさま。わたくしの心は、かれと結びついているのです。

1145 わたくしは汚泥の中に臥してもがきながら、洲から洲へと漂いました。そうしてついに、激流を乗り超えた、汚れのない<完全にさとった人>(正覚者)にお会いしたのです。」

1146 (師ブッダが現れていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」

1147 (ピンギヤはいった)、「わたくしは聖者のことばを聞いて、ますます心が澄む(=信ずる)ようになりました。さとった人は、煩悩の覆いを開き、心の荒みなく、明察のあられる方です。

1148 神々に関してもよく熟知して、あれこれ一切のことがらを知っておられます。師は、疑いをいだきまた言を立てる人々の質問を解決されます。

1149 どこにも譬うべきものなく、奪い去られず、動揺することのない境地に、わたくしは確かにおもむくことでしょう。このことについて、わたくしには疑惑がありません。わたくしの心がこのように確信して了解していることを、お認めください。」

<彼岸に至る道>の章おわる

八回にわたって誦える分量ある聖典のスッタニパータ終る。
【おわり】
0040名無しを整える。2018/01/08(月) 08:51:17.80ID:aioyVsIE
1140、1141
ピンギヤさんはゴータマ・ブッダから遠くに離れた所に住んでいたのに、その答えの言葉は「バラモンさま。わたくしは、智慧ゆたかなゴータマ、叡智ゆたかなかのゴータマのもとから、瞬時でも離れて住むことができません。」であった。

1142
ピンギヤさんは、「昼夜に怠ることなく心の目で彼(ブッダ)を見ています。」という。更に「かれを礼拝しながら夜を過ごしています。ですから、わたくしはかれから離れて住んでいるのではないと思います。」と述べた。
実際の距離の問題ではない。心が離れているかどうかという問題。
ダンマパダ296参照。

1143
「信仰と、喜びと、意(こころ)と念(おも)い」でゴータマ・ブッダを見ている。
信仰とは、仏教では信仰と言った場合、それは決して盲信ではない。理解に基づく確信。
ピンギヤさんは、智慧ゆたかな、叡智ゆたかなブッダの説法を聞いて揺るがない確信を得た。だから彼はブッダを信仰によって見て、ま近くに住んでいるのである。
また、彼はブッダの説法を聞いて感動した。その時の喜びは消えることはない。彼はブッダを喜びによって見て、ま近に住んでいるのである。
更に、彼はブッダの説法を聞いて、意(こころ)が変わった。ピンギヤさんの心はブッダの心と一つになった。だから、彼はブッダから離れて住んではいない。
念(sati)は、気づきという意味もあるが、記憶という意味もある。
ここでも、もちろん気づき、よく気をつけていると理解しても良いが、ブッダとの出会いの記憶とその一部始終によってピンギヤさんはブッダを見て、ブッダと共に住んでいるのだとも考えられる。
このように、ピンギヤさんは信仰と、喜びと、意と、念いによってブッダを見て、共に住んでいた。

1144
120歳のピンギヤさんの心情がその通りに表現されている。「わたくしの心は、かれ(ブッダ)と結びついているのです。」と断言されている。

1145
「汚泥の中=汚泥」は、この世の中を意味している。実は多くの人々はこの世の中を汚泥とは思っていない。この世の中に期待して、楽しみを見つけ、楽しく生きたいと思っている。
ブッダは生きることは苦しみであると教えているが、人々はそれを理解しない。しかし、ピンギヤさんはこの世の中で生きることの真実を理解し、世を厭う気持ちを「わたくしは汚泥の中に臥してもがきながら」と表現した。
「洲から洲へ」の「洲」とは教師を意味している。ピンギヤさんはある教師から、また他の教師に教えを求めて漂ったと述べている。
そして、最後に「激流を乗り超えた、汚れのない<完全にさとった人>(正覚者)=激流を超えた、煩悩なき正覚者(ブッダ)」に会うことが出来たのだと、ブッダを称賛し、感動し、その喜びを述べた。

(´・(ェ)・`)つ
0041名無しを整える。2018/01/08(月) 12:14:02.36ID:aioyVsIE
>>39
1146
ブッダがピンギヤさんと彼の師匠であるバーヴァリ・バラモンの前に現れ、この偈を唱えた。
この偈に述べられた人名について説明する。
「尊者ヴァッカリは王舎城の陶工の家に住し、病苦に悩んでいた。
時に彼の願いによって世尊は彼を見舞い、『法(真理)を見る者は私を見る。私を見る者は法を見る。』といい、色受想行識の無常・苦なることを教える。
その後、彼を見舞った比丘たちに向って、「世尊に礼拝し、色受想行識の無常・苦なること、それに対して自ら欲なく執着のないことを疑わない」ということを、世尊への伝言として述べてから、刀を取って自殺したという。」
(南伝十四、188〜195頁。或は、春秋社の原始仏典U相応部第三巻217〜227頁)
バドラーヴダについて。バーヴァリ・バラモンの弟子の一人で、十二番目の質問者。彼の信については何も述べられていない。
アーラヴィ・ゴータマについては、ここ以外には何も分からないと注釈書に述べられている。
この偈の訳で問題になる所がある。muttasaddho及びpamucassu saddhaの訳である。中村先生はそれぞれ、「信仰を捨て去った」「信仰を捨て去れ」と訳されている。
正田先生はそれぞれ「解き放たれた信ある者」「信を解き放ちなさい(信仰を依存の対象にしてはならない)」と訳されている。
ところが、注釈書では、「信を寄せていた」「信を寄せよ」と訳されている。また、宮坂宥勝訳「ブッダの教え」(法蔵館)では「信仰を起こした」「信仰を起こすがよい」となっている。
表面的に読めば、中村訳と注釈書及び宮坂訳では反対の意味になる。正田訳は直訳で、その中間と見て良い。中村先生は、いわゆる信仰の問題点を強調する意味で「信仰を捨て去れ」と訳された。
しかし、伝統的な注釈書では、信仰はブッダもその重要性をたびたび強調されておるので、「信仰を捨て去れ」とは訳すわけには行かなかったのだと思われる。

1147
聖者の言葉とは何か? これは当然、1146偈のブッダの言葉。そうすると1146で問題にした「muttasaddho」及び「pamucassu saddha」を言っているのだと思われる。
仏教における「saddh」の意味は、盲信でなく、理解に基づく確信であると説明されるが、更に本質的には、他者(神など)を信じるということではなく、自分自身を信じることである思われる。
では自分自身の何を信じることかと言えば、覚悟或は決意である。更に具体的には自分が解脱することを信じること。自分が解脱することを信じることがない者は解脱しない。
宝経の7番目の偈(スッタニパータの228)には「堅く決意し、ゴータマ(仏陀)の教えに基づきよく励み」、このように実践した人が阿羅漢になったと述べられている。
覚悟や決意の重要性が述べられている。これが仏教における「信」である。
ブッダはこのことを、「解き放たれた信ある者」「信を解き放ちなさい」(正田訳:直訳)と述べたので、ピンギヤさんはますます浄信するようになり、このような表現をするブッダを
「明察のあられる方=即応即答〔の知慧〕ある方=弁才ある方」であると述べたのであろう。

(´・(ェ)・`)つ
0042名無しを整える。2018/01/08(月) 12:24:23.61ID:aioyVsIE
>>39
1148
Adhideveは中村先生は「神々に関して」と解されているが、注釈書では「神を超えたもの」の意であるとしてある。いずれにせよ、一行目、二行目の意味は神を超えたものや、その他あれこれ一切のものを師(ブッダ)は熟知していますという意味。
三行目と四行目は、注釈書には「疑問があっても(ないと)公言する人たちの質問を、(大)師は終わらせるのです。」と記されている。
少しややっこしく書いてあるが、ブッダは人々のどんな質問も最終的な結論を出すことができるということだと思われる。

1149
スッタニパータの最後の偈にふさわしく、仏教の信について述べられている。「どこにも譬うべきものなく、奪い去られず、動揺することのない境地」とは涅槃の境地だが、ピンギヤさんはこの境地に到ることを確信した。
そして、彼は「このことについて、わたくしには疑惑がありません。」と明言した。これこそが仏教の信である。


ブッダのことば(スッタニパータ)
おわり
(´・(ェ)・`)つ
0043名無しを整える。2018/01/08(月) 21:15:01.08ID:aioyVsIE
明日からは、『I AM THAT 私は在る』ゼミを始めるであります。
(´・(ェ)・`)つ
0044鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/01/08(月) 22:17:57.05ID:lCo2+ONx
善いことじゃ。
どんどんやるとよいのじゃ。
0045名無しを整える。2018/01/08(月) 23:29:43.07ID:aioyVsIE
>>44
鬼和尚、こんばんは。
「私は在る」ゼミは、DAT落ちしないように、1年くらいかけてゆっくり進めるであります。
終わったらもう一度、スッタニパータを、できたら、鬼和尚に解説をお願いして、ゆっくり読んでみたいであります。
(´・(ェ)・`)つ
0046名無しを整える。2018/01/09(火) 18:26:49.28ID:b3nlktBh
『I AM THAT 私は在る』
【 1「私は在る」という感覚】

 質問者 毎朝、目覚めとともに世界が突然現れるのは、日々体験することです。それはいったいどこからやってくるのでしょうか?
 マハラジ
 何かが現れる前に、それに対する誰かがそこにいなければならない。
 すべての出現と消滅は、何か変わることのない背景に対する変化を前提としている。
 質問者 目覚める前、私は無意識でした。
 マハラジ
 どういう意味だろう?
 忘れてしまったのか、それとも体験しなかったのだろうか?
 たとえ無意識のときでも、あなたは体験しないと言えるだろうか?
 記憶の忘却、それが存在していないことの証明になるだろうか?
 あなたが存在していなかったと、実際の体験として語ることができるだろうか?
 マインドが存在しなかったと言うことさえできない。
 呼びかけられて、あなたは目を覚ましたのではなかったか?
 そして、目覚めて最初に起こった感覚は、「私は在る」(I AM)ではなかっただろうか?
 眠り、または気絶の間にも、意識の種子は存在していたはずだ。
 目覚めの時の体験は、「私は在る―身体―世界」とつながっていく。
 それは連続して起こるように見えるが、実際には、世界の中で身体をもつというひとつの観念として、すべて同時に起こるものだ。
 誰かとして在ることなく、「私は在る」という感覚がありうるだろうか?
 質問者 私はつねに記憶と習慣をもった「誰か」です。それ以外の「私は在る」を私は知りません。
 マハラジ
 何かがあなたを知ることから妨げているのだろうか?
 ほかの人が知っていることを知りたいと思ったとき、あなたはどうするだろう?

(´・(ェ)・`)つ
つづく
0047名無しを整える。2018/01/09(火) 18:46:31.84ID:LOKriScE
マハラジの後期の言語録を読みましたが
「I AM」という認識が根源的な幻想であり
その痕跡が一切無い「THE ABSOLUTE」が私でありあなたである
と繰り返し言ってましたね
0048名無しを整える。2018/01/09(火) 18:48:00.41ID:b3nlktBh
>>46
> 何かが現れる前に、それに対する誰かがそこにいなければならない。
 すべての出現と消滅は、何か変わることのない背景に対する変化を前提としている。
この「誰か」「背景」が意識であり、真我でありましょうか?
で、意識、真我は、特定されるものではなく、全てであるということでありましょうか?
で、それは、思考、感覚、感情など何でも映し出すスクリーンみたいなものと言う理解で良いのでありましょうか?
で、もしそうなら、真我を意識と読み替えても良いのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
0049鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/01/09(火) 21:56:06.27ID:3yM/3APu
それは意識では有るが真我とは言えないのじゃ。
アートマンはそれに至る方法なのじゃ。
心臓に集中することによりアートマンは見出されるのじゃ。
そして無我になり、認識をも滅して全てが意識であると感じるようになるのじゃ。
0050名無しを整える。2018/01/09(火) 23:37:58.11ID:b3nlktBh
>>49
「真我」=「アートマン」は、全ては意識であると言うときの「意識」ではない。

修行の過程で見出だされる、「…でない」によってのみ定義される「アートマン」を介して、その何者でもないアートマン=「無我」に至ると言う理解でよいでありましょうか?
以前もお尋ねしたことでありますが、アートマンとは、「…でない」によってのみ定義されるものでありますから、結局、アートマンはあると言っても、「無我」と言っても同じことであると言う理解でよいのでありますね。
マハラジは、そのことを、無我と言う言葉を使わず、真我と言う言葉で語っているのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ
0051名無しを整える。2018/01/10(水) 00:17:03.76ID:yqRfsOmv
>>47
痕跡が一切無い「THE ABSOLUTE」= 「…でない」によってのみ定義されマン、でありましょうか。
(´・(ェ)・`)つ
マハラジの言葉は、わくわくするであります。
0053名無しを整える。2018/01/10(水) 12:51:47.49ID:4CwEZxpc
>>51
マハラジの言葉は鋭いですね
禅師のような感じを受けます

マハラジは
言葉なしの「I AM」をアートマンや意識
それを超えたものをパラマートマン、パラブラフマン、「THE ABSOLUTE」など
としているようです
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