>>316
1061
ドータカ学生の問いは疑問文の形で述べられていないから、不明確だが、
「あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ=涅槃)を学びましょう。」と述べているから、自分の安らぎ(自分の涅槃)について教えて下さいと言うことだと思われる。
「自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」という文章に関して、中村先生の「ブッダのことば」(岩波文庫)の注に次のように書いてある。
「この文章をみるかぎり、安らぎを実現するために学ぶことがニルヴァーナであり、ニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あることにほかならない。
ブッダゴーサの注によると、「貪欲などをなくすために(ニルヴァーナのために)戒などを実践するのだと言い、ニルヴァーナを目的とみなし、戒などの実践を手段と見なしている。後代の教義はみなこういう見解をとっている。
しかしこういう見解によるならば、人間はいつになっても、戒律の完全な実践は不可能であるから、ニルヴァーナはついに実践されないであろう。
この詩の原文によって見るかぎり、学び実践することが、ニルヴァーナであると漠然と考えていたのである、と解することができよう。」
中村先生の注のように、すなわち「ドータカ学生がニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あること」と考えていたのならば、この後のブッダの偈(言葉)で修正されることになると思われる。
もちろん、ドータカ学生はそれを期待していたのだと思われる。

1062
この偈の「自己の安らぎを学べ。」についても、「ブッダのことば」(岩波文庫)の注に、中村先生は次のように書いてある。「ここでも『自己の安らぎ(ニルヴァーナ)を学ぶ』というのは、よく気をつけて、熱心であることにほかならない。」と。
今回の偈はブッダの言葉だから、この偈の解釈が中村先生の注の通りであれば、それはブッダの教えということになる。
しかし、ブッダは自己の安らぎ(ニルヴァーナ)について、理法を述べてはいないから、「『自己の安らぎ(ニルヴァーナ)を学ぶ』というのは、よく気をつけて、熱心であることにほかならない。」ということで完結させてはいけないように思われる。
これから理法を述べるから、よく気をつけて、熱心に聞いて、学べと述べているとうに思われる。

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ドータカ学生の言葉。この偈の趣旨は二つあり、一つは、彼はブッダが無所有の境地にあることを認め、それ故に「私はブッダを礼拝します」ということである。
当時のバラモン達にとっては「無所有の境地」は最高の境地であり、バラモン達が目指す境地であると考えていた。第五章の976で、16人の学生達の師匠であるバーヴァリ・バラモンも「無所有の境地を得ようと願って」と書かれていた。
もう一つは、「わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」ということ。ではこの諸々の疑惑とは何か? 無所有の境地で振舞われるブッダにお願いしていることだから、無所有の境地とは何であるか? 
どうすればその境地に至れるか? また私もその境地に至れるか?等の疑惑だと思われる。また無所有の境地と自分の安らぎ(涅槃)との関係についてドーカタ学生はどのように考えていたのか等これから明らかになる。

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