>>292
鬼和尚ありがとうであります。

ところで、「見るものは、見られるものである」(A)と言う表現を、あちこちで目にするのでありますが、
その意味は、
人が認識している世界は、その人の記憶と照合した上でとらえられた観念であり、世界そのものではなく、むしろ、認識しているその人そのものであると言うような理解で良いのでありましょうか?

くまは、>>289に書いたように、「見るものは見られるものではない」(B)、と考えていたのでありますが、これは間違いでありましょうか?

例えば、身体や心を観察対象として、厭離すると言うことは、自分だと思っていたものは、自分ではなく、自分などどこにもいないと言うことに気付こうとすることだと思うのでありますが、

その際、見るもの(=主体)、見られるもの(=客体)ではないと考えた方がイメージしやすいきがするのであります。

(A)と(B)は反対のことを言ってるようでありますが、(A)は全ては観念に過ぎないこと、実在するもなど何もないと説くときに使われ、(B)は無我を説くときに使われると言うような理解でも良いのでありましょうか?、
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