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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ
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0216鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/14(木) 21:59:19.64ID:bkt2o+wU
>>212 そうじゃ、人を悟りに導く法こそ真理と呼べるものなのじゃ。
 そうでなければ人が真理として記憶し、伝えていく必要も無いものじゃ。
 四諦を実践していくことが真理を守り伝えていくことなのじゃ。
0217名無しを整える。2017/12/15(金) 18:37:12.70ID:HNwpGIcc
>>216
鬼和尚こんばんは。
ふむふむ。
ぜぇ〜ったいに、守り伝えて行かなくてはならぬでありましょう!
(´・(ェ)・`)つ
0218名無しを整える。2017/12/15(金) 18:40:22.71ID:HNwpGIcc
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、13、並ぶ応答─長篇

895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、──かれらはすべて他人からの非難を招く。また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。

896 (たとえ称賛を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることができない。
論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、とわたしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。

897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴くのであろうか?

898 戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、誓戒を受けている。
「われわれはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、<真理に達した者>と称する人々は、流転する迷いの生存に誘きこまれる。

899 もしもかれが戒律や誓戒を破ったならば、かれは(戒律や誓戒の)つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。
たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。

900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なき(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄であると」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。──安らぎを固執することもなく。

901 あるいは、ぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

902 ねがい求める者は欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も存しない者、──かれは何を怖れよう、何を欲しよう。

903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか? ──かれはすべて自分らこそ真理に達した者である称しているのであるが。

904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異った執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真実である」と説く。

(´・(ェ)・`)つ
0219名無しを整える。2017/12/15(金) 18:51:48.44ID:HNwpGIcc
>>218
○毎田周一先生訳
895.
「めいめいの物の見方で
『ここにこそ真理がある』といって争う人は
誰もみなひとからの非難を免れないにしても
又一方賞讃をもかちとるではありませんか」

「大集積経」の内容は、「小集積経」と同じように、神々の大集会において、「自分の見解にしがみついてる者達は、非難だけを受けるのか、それとも賞讃をも受けるのか」という疑問を持った神々がいた。
ブッダはその疑問に答えるために、これも同様に化仏(化身)によって自分に質問させ、それに答えたのがこの経。
自分の見解に基づいて、「これのみが真理だ」と主張する者達は、すべて他人から非難されるのが常でありますが、一部の人達からは称賛される。」というもの。
そのような人々は、自己主張する人と立場が同じで、利害が一致する。

○毎田周一先生訳
896.
「しかしそれではどうしても はっきり結末がつかないではないか
いい争うことには例外なく その非難と賞讃という二つの結果がつきまとうからだと 私はいうのである
このことをよく考えてあなた方は
いい争うことのなくなった処にだけある静けさを求めて 人と決して論争などすべきではない

自己の見解に基づいて論争すれば、多くの人々から非難されるが、ほんの一部の自分の仲間達からは称賛されるかもしれない。しかし、その称賛も非難されたことによる心の動揺や苛立ちを抑えられるものではない。
もし心の平安や寂静を求めるのならば、論争をしないこと。

○毎田周一先生訳
897.
賢い人は 世間の普通の考え方などを
自分の中へとり入れようとは思っていない
見たり聞いたりすることに盲従せず 執著を離れている人が
一体何にとりつこうとして世間に出かけてゆくだろうか

論争しない人について述べている。論争しない賢い人々は、世俗的な常識的な考え方を学ぼうとしない。世間の人々の論争には興味がない。だから、論争に近づこうとは思っていない。

○毎田周一先生訳
898.
戒律を最高のものと考えている人は
それを堅く守りながら 自分を抑制するところに 唯一つ清らかさがあるといっている
そして『これで身を修めれば 必ず清らかになる』と
生きるという(ことを肯定する一面的な)立場に捉われているとも知らず それが正しいのだと思っている

自説を固執する人達のなかには、戒律を最高だと考える人達がいる。戒律は仏教の修行法を戒・定・慧と分けったときの一つ。だから戒律を守ることは仏教徒にとって大切なこと。
しかし、一部だけを取り上げて、それを強調し、それ執着することは、他説に執着することと同様に、誤った行為。
戒律を怠けによって破ることと、正しい智慧によって戒律を捨てることとは異なる。
実際には智慧のない凡夫にとっては、そのことを正しく理解はできず、論争の対象になってしまう。智慧がなければ、教条主義的、原理主義的な理解と戒律を捨てる考え方が対立するから。

(´・(ェ)・`)つ
0220名無しを整える。2017/12/15(金) 19:19:59.73ID:HNwpGIcc
>>218
○毎田周一先生訳
899.
彼はもし戒律を破ったりすれば 罪のある行いをしたといってふるえおののき
再び戒律の生活へ帰って清らかになろうと躍起になる
あたかも隊商から離れたものが隊商の処へ
家を離れて生活するものが 家へ帰りたがるように――

戒律を破ったら恐れおののいて、戒律を守ろうとすることは悪いことではない。むしろ褒められるべきこと。仏教では慚愧(ざんき)は重要な徳目。
慚(ざん)は悪い行いをすることを恥じる心で、愧(き)は悪い行いすることを怖れる心で、この二つの心によって、戒律が守られ、道徳が実践される。
しかし、今回の偈では戒律を破ることにおそれおののくことに、批判的は表現がされている。それは何故か? 
戒律は何のためにあるのか? 戒律は人々の自由を拘束するためにあるのではない。人々が不幸にならないためにある。慈悲を実践するためにある。
例えば五戒の一つ一つの項目を守ることは慈悲の実践。これらを守らないことは慈悲を実践しないこと。五戒を守らなければ、罪になり、人間関係が悪くなる。
それは不幸になること。だから戒律を守ることは、不幸ならないことであり、慈悲を実践すること。
戒律を守るということは戒律の条項を守ることではなく、慈悲を実践すること。戒律を守ろうとする人の気持ちの中に、だだ戒律の条項を守ればよいと思っていると、戒律の精神を忘れてしまう恐れがある。
仏教の初期には戒律はなかった。いろいろな出家者や仏教徒の中には慈悲の心のない人、少ない人がいた。そのために慈悲を教える方便としてブッダは戒律を制定した。戒律は守ればよいというものではない。慈悲の精神を実践すること。

○毎田周一先生訳
900.
戒律を立派に守ろうなどと 一切考えず
罪があろうとなかろうと そのどちらの行ないも共に捨てて
『清らかである 清らかでない』などと願い求めることなく
靜けさということにさえ捉われず 自由に生きてゆくべきである

戒律を守ることに執着することを否定して、戒律を守ることを超越して、戒律に対する無執着の態度を強調している。
もちろんこれは、戒律を犯してよいというものではない。戒律を超越して、慈悲の心から戒律を犯すことが出来ない。
考え方の範囲を広げるとは、戒律に対する態度と同様に、罪に対しても、罪を犯さないように精進するというレベルではなく、罪があるかないかを超越して、罪の犯せない、罪を超越した境地を目指している。罪があるかないかに執着していない。
更に、清浄であるか不浄であるかを超越して、清浄に関しても無執着。もちろん清浄であるべきではある。「清浄であるべきだ」ということは清浄にこだわっていることであり、本当の清浄から離れている。
最終的には、寂静に関しても、寂静にこだわることなく、完全な無執着の態度、自由に生きることが推奨されている。この時の自由は、エゴの自由(わがまま)ではなく、エゴから離れた自由。

○毎田周一先生訳
901.
見るも厭わしい苦行の中へ身を投じたり
或はまた見解や学問や思想の上に腰をおろしたりして
声高に清らかさをほめたたえるものは
あれこれの生き方を願って 生きることを(一面的に肯定する立場から)離れていない

戒律で清浄になると考えている人々について、そうではないと898、899、900で述べられたが、901は、苦行で清浄になる、或は見解、学問、思想などで清浄になると主張している人々を批判。
既に、見解、学問、思想などで清浄にならないということは「小集積経」でも述べられていた。
ここでは、新たに苦行で清浄になろうとしていることに批判している。また、それらのもので清浄になろうとしている、その執着する心が清浄から離れた事柄なのだと述べている。
(´・(ェ)・`)つ
0221名無しを整える。2017/12/15(金) 19:25:38.96ID:HNwpGIcc
>>218
○毎田周一先生訳
902.
熱望し 希求するものには
その計らいゆえに おののきがある
この世で 死も生もないもの――
彼は何におののき 何をもとめよう

この偈は、900及び901を別の側面から述べたもの。すなわち、苦行や見解、学問、思想なので清らかさや寂静を求めようとする人々は、それらを得ようとする欲望のために、心が汚れ、得られないかもしれないという不安や恐れが生じる。
しかし、そのようなことを熱望しない者、希求しない者には何も怖れることがないと述べている。また、そのような者は何を怖れ、何を求めるのかと反語の形で述べられている。
三行目の「この世で死も生もないもの(この世において死も生も存しない者)」は、清らかさや寂静を熱望したり、希求しない者を意味している。この世において死も生も存しない者とは解脱した覚者。輪廻を乗り越え輪廻しない人。
解脱してない者の死には再生(生)がある。解脱した者には再生(生)ないから死はない。すなわち死も生もない者とは輪廻をしない人、解脱した人を言う。また、解脱した覚者は既に清らかさや寂静を得ているので、清らかさや寂静を希求しない。

(´・(ェ)・`)つ
0222名無しを整える。2017/12/15(金) 19:26:09.80ID:HNwpGIcc
>>218
○毎田周一先生訳
903.
「ある人のこれこそ『最高だ』とする教えを
反対するものが『つまらない』といい
こうしてみなで自分こそ正しいというのであれば
一体これらの中で どれが真理を説いているのでしょうか

902でこの経の前半部分が終わり。そのため、902はまとめの偈。
前半が終わり、質問者は改めてブッダに問う。その内容は「小集積経」の879の「一体これらのうちでどの説が真理なのでしょうか?」と同様のもの。重要な問なので繰り返されている。

○毎田周一先生訳
904.
自分の教えは完全であるといい
外の教えは反対につまならぬといって
このように自分に執著していい争い
それぞれにありきたりの俗説を真理としています」

903と同じような内容を肯定文で書かれている。904は誰の言葉かが問題になる。
毎田先生は903、904は質問者の言葉としているが、正田先生は903は質問者として、904は世尊の言葉としている。中村先生はどうか。903は質問者としているが、904偈はどちらの言葉かはっきりしない。
904が質問者の偈としても、世尊の偈にしても、経全体に与える影響はあまり変わらない。

(´・(ェ)・`)つ
0223鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/15(金) 22:16:08.25ID:cMEHlfLR
>>217 そうじゃ、そのためには精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。
0224名無しを整える。2017/12/16(土) 08:28:37.73ID:yH9gTDHX
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、13、並ぶ応答─長篇

905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。

906 かれらは自分の道を称賛するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。

907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。

908 「われは知る。われは見る。これはそのとうりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。
たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。

909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認めるであろう。見たい人は、多かれ少かれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。
真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。

910 (「われは知る」「われは見る」ということに)執著して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。
自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。

911 バラモンは正しく知って、妄想分別におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗のたてる諸々の見解を知って、心にとどめない。──他の人々はそれに執著しているのだが。──

912 聖者はこの世で諸々の束縛を捨て去って、論争が起こったときにも、党派にくみすることがない。かれは不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。──他の人々はそれに執著しているのだが。──

913 過去の汚れを捨てて、新しい汚れをつくることなく、欲におもむかず、執著して論ずることもない。賢者は諸々の偏見を離脱して、世の中に汚されることなく。自分を責めることもない。

914 見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して敵対することがない。かれは負担をはなれて解放されている。かれははからいをなすことなく、快楽に耽ることなく、求めることもない。

(´・(ェ)・`)つ
0225名無しを整える。2017/12/16(土) 09:17:58.90ID:yH9gTDHX
>>224
○毎田周一先生訳
905.
「もしもひとに詰まらぬといわれただけで もう劣ったものになるのであれば
どこにも優れた教えなど一つもないことになる
何故ならそれぞれの人は 自分のものはしっかり○まえて論じながら
外の教えは詰まらぬと 互いにいい合っているからである

今回と同じ趣旨の偈は、小集積経の880、881、更に890でも述べられた。

○毎田周一先生訳
906.
彼等は自分のゆきついた境地に感激しながら
自分の信奉する教えを無上のものとしている
そこで一切の教えはみな真実だということになる
何故ならそれらの教えは それを信奉する人達にとってはそれぞれ清らかなものだからである

今回の偈は前回905の逆の場合。すなわち905は「他人から非難されれば下劣になるならば一切の教えは優れたものでない。」ということ。906は「自分の教えを尊重すれば清浄になるならば一切の教えは清浄になる。」ということ。
教えの正しさは他人の評価や自分はその教えを尊重するか(信じるか)どうかで決まるものではないということ。このような当たり前のことが自分の信じる教えに関しては解らなくなる。

○毎田周一先生訳
907.
自在の人には 他に導かれるということがなく
彼は色々の教えを考察しても それにとりつきはしない
そのようにしてかれは人といい争う余地がない
何故なら彼は他の教えを これは特に優れたものだといって とり上げたりしないからである

毎田先生が「自在の人」と訳されたパーリ語はバラモン。それを中村先生及び正田先生は、階級としてのバラモンでなく、本来のバラモンという意味で「真のバラモン」(真の婆羅門)と訳されている。ここではこのバラモンは釈尊と考えてもよい。
釈尊は他の教えに導かれることがないと述べられている。ブッダになる前の釈尊はシッダルタと呼ばれていたが、彼は当時のインドで最高の指導者だと言われていたアーラーラ・カーラーマ仙やウッダカ・ラーマプッタ仙等に指導を受けた。
しかし、それらの教えに満足することなく、最も優れた教えだと見なすこともなかった。更に探究を続け、真理を発見した。真理は論争を超越しているから、論争を超越したブッダになられた。

(´・(ェ)・`)つ
0226名無しを整える。2017/12/16(土) 09:26:38.59ID:yH9gTDHX
>>224
○毎田周一先生訳
908.
『私は知る 私は見る これが本当である』
というような考え方で ある人はそこに清らかさがあると信じているが
もし何かを見たとしても それがその人自身にとって一体何になるだろう
彼等は本来居るべき処をゆき過ぎて 即ち他のものによって 清らかさをいっているのに過ぎない

今回の偈は話しの流れが少し変わる。「私は知る。私は見る。これが本当である。」と言う考え方で清浄になることができると理解している人について批判している。
何故この考え方で清浄になれないのか?「私は知る。私は見る。」とは、私には知らないことがあるから、清浄でないのだという考え方。だから、知らないことを知って、知らないことを調べて、自分を清浄にしようとする考え方。
世界には無限に知らない対象がある。無限の対象に対して、有限の時間しか持たない人間が調べ尽くすことはできない。そうすると人間は清浄になれないということになる。
そもそも清浄になるものは「私は知る」の私。この私を探究せずに、私の外の対象に対して、知らないから知ろうとして調べても、探究の対象を間違えているから、私は清浄になれない。そのことがこの偈の三行目と四行目で述べられている。

○毎田周一先生訳
909.
見る人は名と形を見るのであるが
それを見るときには 一応それをそれとして知るであろう
そして見ようと思うならどんなことでも それらをそれとして見るがよいだろう
しかし聡明な人は それらを見ることによって清らかになるなどとはいわない

今回の偈を注釈書にそって理解すると、この偈は昨日の偈を受けて、その捕捉的説明になり、明日の偈に予備的説明になっている。つまり、昨日の偈と明日の偈をつなぐものになっている。
しかし、それと全然違った解釈も可能。と言うのはパーリ語の原文の三行目のKmaを、注釈書にそって訳すと「欲するままに」となるが、
Kmaを「欲望」という意味で、三行目を訳すと、「欲望を多く或は少なく見よ。」となる。
注釈書にそって訳すと「欲するままに多く或は少なく見よ。」。この違いは「見よ」の対象が欲望かそうではないのかという違い。今回はこの考えは保留して、注釈書にそって解釈する。
908で、「私は知る。私は見る。」ことで清浄にならないことが述べられたが、「私は知る。私は見る」ことで清浄になると信じている人は、見る。
この見る人は、正田先生の説明にあるように、「名前と形態(名色:現象世界)を〔常住〕見る」。ここで現象世界を常住と見るということは、注釈書の解釈。
現象世界を無常と見ないで、常住と見ると捕捉しなくても、「私は知る。私は見る」ことで、清浄ならないことは908で説明した。
見ることで清浄になると信じている人は、そのようにするのだから、自分の好きなように見ればよいだろうという解釈になる。しかし、注釈書によれは、聡明な人は常住と見ることで清浄になるとは考えていないのだと説いている。
910への予備的説明という意味は、910は自分の見解に固執している人は、自分の見解を容易に変えられないと述べているから。
(´・(ェ)・`)つ
0227名無しを整える。2017/12/16(土) 09:31:02.75ID:yH9gTDHX
>>224
○毎田周一先生訳
910.
自分の立場を離れないで論ずる人は
自分考え出したその考えを 立派なものと思っているので その人に本当のことを悟らせるのは難しい
自分のとりついている処にだけ清らかさがあるというように
清らかさを論ずる人は そこにだけ本当のことがあると見ているからである

自分の考え方に固執している人は真理を知ることが難しいということ。
自分の考え方に固執している人は、自分で考えことを非常に大切に思って、尊重している。だから、自分が間違っているとも思わないだろうし、たとえ間違っていてもそれを彼は変えることが出来ない。
自分の考え方を自分自身のように考えている。自分自身を否定できないので、自分の考え方も否定できない。そもそも彼は自分の考え方が間違っているとは思えない。
自分の考え方に固執することについて、中村先生の訳では、(「われは知る」「われは見る」ということに)執著して論ずる人としている。
自分の考え方を、前からの偈のつながりの中で解釈されている。もちろん、それでもよいのだが、もう少し広く考えて、自分の考え方とすると、この偈はいろいろな場合に適応できる。

○毎田周一先生訳
911.
真に自在の域に達した人を その人はこういう人だと誰もいうことは出来ない
彼は自分の考え方などに捉われず 知識をもって廻りもしない
一般世俗のものの抱く意見もよく承知しているが
ひとはそれにとりついていても 彼はそんなものに目もくれない

自分の主義主張にこだわっている人々についてのまとめとして、
先ずそのような人はバラモン。しかし、このバラモンは身分としてのバラモンではなく、真のバラモン。
真のバラモンは、中村先生訳でその特徴を示すと、@正しく知る。A妄想分別におもむかない。B見解に流されない。C知識になずまない。D凡俗のたてる諸々の見解を知って心にとどめない人。
毎田先生訳では、@Aはこういう人だと誰もいうことができない。B自分の考え方に捉われない。C知識をもって廻りもしない。D一般世俗のものの抱く意見もよく承知しているが、そんなものに目もくれない
正田先生訳では、@〔正しく〕究明している。A〔時間の〕妄想(時間の型枠・分別妄想・輪廻的あり方)に近づきません(輪廻しない・妄想しない)。
B見解に走り行く者ではない。C知恵の眷属(知識に結縛された者)でもありません。D凡俗なる諸々の主義を知って、〔それらを〕放捨します
真のバラモンはこのような特徴があるということ。

(´・(ェ)・`)つ
0228名無しを整える。2017/12/16(土) 09:32:32.53ID:yH9gTDHX
>>224
○毎田周一先生訳
912.
静かな人は この世の中で色々のつながりに縛られることなく
人がいい争っても そのどちらへつくということもない
彼は不安にとりつかれた人々の間にありながら しかも安らかに 喜びも悲しみも届かぬ処にいて
人々が捉われるどんなことでも その一つすらとり上げようとはしない

自分の主義主張に固執しない人を聖者と表現されている。毎田先生はそのような人を「静かな人」と訳される。
中村先生の訳で今回示された聖者の特徴。@この世の諸々の束縛を捨て去る。A論争が起こっても、党派にくみすることがない。B不安な人々のうちにあっても、安らけく、泰然としている。C執することがない。

毎田先生訳では、@この世の中で色々のつながりに縛られることがない。A人がいい争っても、そのどちらへつくことがない。
B不安にとりつかれた人々の間にありながら、しかも安らかに、喜びも悲しみも届かぬ処にいる。C人々が捉われるどんなことでも、その一つすらとり上げようとはしない
正田先生訳では、@〔この〕世において、諸々の拘束を捨てる。A諸々の論争が生じたとして、〔特定の〕党派に走り行く者ではありません。
B寂静ならざる者たちのなかにいながら寂静で、〔諸々の主義や主張を〕放捨する者です。C〔特定の見解に〕執持する者ではありません。
@は、世間では義理人情と言ったり、絆と言って大切にしているが、聖者はそれにも価値をおいていない。

○毎田周一先生訳
913.
過去の煩いを捨てて新たにそれを作り出さず
欲望をかきたてず しつこく論ずることもなく
聡明な人は 色々の物の見方に捉われず
そして世間からは汚されず われとわが身を責めることもない

主義主張に固執しない人は「聡明な人」、「賢者」、「〔真の〕慧者」と表現されている。それらの人々には次のような特徴がある。

中村先生訳では、@過去の汚れを捨てる。A新しい汚れを作らない。B欲におもむかない。C執著して論じない。D諸々の偏見を離脱する。E世の中に汚されることがない。F自分を責めることがない。
毎田先生訳では、@過去の煩いを捨てる。A新たに煩いを作らない。B欲望をかきたてない。Cしつこく論ずることがない。D色々な物の見方に捉われない。E世間から汚されない。Fわれとわが身を責めることもない。
正田先生訳では、@諸々の過去の煩悩を捨棄する。A諸々の新しい〔煩悩〕を作らない。B欲〔の思い〕に至らない。C、〔特定の見解に〕固着しない。
D諸々の悪しき見解から解脱している。E世において、〔何ものにも〕汚されない。F自己を難じることがない。
キーワードは「汚れ=煩い=煩悩」です。過去の汚れは捨てて、新しい汚れは作らない、そして世間の人々からも汚されないということが大切。
Fの自己を責めるとは、後悔することで、過去という妄想に捉われた煩悩す。自分を責めてはいけない。
(´・(ェ)・`)つ
0229名無しを整える。2017/12/16(土) 09:33:10.82ID:yH9gTDHX
>>224
○毎田周一先生訳
914.
静かな人は この世のどんなことでも
自分の見解や学問や思想を拠り所として それを見ない
彼の肩の荷はすっかりおろされて 自由に解放されている
そして時に流されることなく 快楽に耽らず 何も願い求めるものがない

聖者の特徴、聖者の生き方が示されている。
中村先生訳。@見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、一切の事物に対して敵対することがない。A負担をはなれている。B解放されている。Cはからいをなすことがない。D快楽に耽ることない。E求めることもない。
毎田先生訳では、@この世のどんなことでも、自分の見解や学問や思想を拠り所として、それを見ない。A肩の荷はすっかりおろされている。B自由に解放されている。C時に流されることない。D快楽に耽らない。E何も願い求めるものがない。
正田先生訳では、@見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、一切の諸法(事象)にたいし、敵対という有り方を離れている。A〔生の〕重荷を降ろした者である。B牟尼であり、解脱者である。
C〔時間の〕妄想ある者ではない。D〔作為の〕止息ある者ではない。E〔未来の〕切望ある者ではない。
@については、中村先生訳、正田先生訳が分かりやすい。何事にも敵対しない。受容するということ。
Aは毎田先生訳の「肩の荷はすっかりおろされている。」。実際はだれでもこの状態なのだと思うが、多くの人々は自分の想い(妄想)によって重い(想い)荷物をしょっている。
Dについては、毎田先生と中村先生は、「快楽に耽ることない。」と訳されたが、正田先生は「〔作為の〕止息ある者ではない。」とされている。
注釈書には「止息なく」とは、善良な凡夫・有学の人たちのように止息をそなえた者ではない。」となっている。すなわち、止める者ではないとなっている。
しかし、原文では行頭に否定語があるから、止める者ではなくないとなり、止める者であると取れる。そうするとここは、止める者は、止めない者とも取れる。
私は止める者と取りたいが、対象が明記されていないので、今のところこれ以上は分からない。

(´・(ェ)・`)つ
0230鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/16(土) 22:55:46.95ID:fYzNOG/E
なにやら混乱しているようじゃ。
正しく観察する事で清浄になるという主旨なのじゃ。
0231名無しを整える。2017/12/17(日) 06:58:07.05ID:V7OELWma
>>230
鬼和尚おはようございます。
905〜910で、世間で行われている、清浄になれない方法について語られ、911〜914で、妄想分別せず、見解、知識に基づかない、ありのままの観察(>914自分の見解や学問や思想を拠り所として それを見ない) が説かれてるのでありますね。(´・(ェ)・`)つ
0232名無しを整える。2017/12/17(日) 07:06:53.53ID:V7OELWma
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、14、迅 速

915 [問うていわく──]「・・・・修行者はどのように観じて、世の中のものを執することなく、安らいに入るのですか?」

916 師(ブッダ)は答えた、「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。

917 内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。

918 これ(慢心)によって『自分は勝れている』と思ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか思ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想せずにおれ。

919 修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内面的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。

920 海洋の奥深いところでは波が起こらないで、静止しているように、静止して不動であれ。修行者は何ものについても欲念をもり上げてはならない。」

(´・(ェ)・`)つ
0233名無しを整える。2017/12/17(日) 07:17:08.26ID:V7OELWma
>>232
○毎田周一先生訳
915.
「私は『太陽の親族』であられる偉大な聖者に
独立への道と 静けさの境地とをお尋ねします
修行者は どのように物を見れば
世間に少しも捉われず 情欲を離れることが出来るでしょうか」

「迅速経」も、ブッダが神々の大集会において、「阿羅漢になるための修行は何であろうか?」という心が現れた神々のために、ブッダが自分の化仏(化身)を作って、自分に質問させて、それにブッダが答えるという形でできた経だと言われている。
出家修行者の修行法と生活法が説かれている。禁止項目がほとんどだが、その内容は具体的で、小集積経や大集積経よりも分かりやすい。
「太陽の親族=太陽の裔=太陽の眷属」とはゴータマ・ブッダを意味している。ゴータマ・ブッダの出身の釈迦族は太陽の末裔と言われてるため、このように呼ばれることがある。
「太陽の眷属」はスッタニパータ54及び540参考。

○毎田周一先生訳
916.
「『自分を聖者のように』考える一切の妄想の
と世尊はいわれる
その根本を断ち切って
内にあるどんな情欲をも取除こうと
いつもはっきりと目醒めて学んでゆくがよい

ブッダはいくつかの項目について説法するとき、一番大切な項目から説かれると言われている。
三人の先生方の訳の仕方が細かい点で異なるので、パーリ語原文にそった訳に従って説明。
一行目は「妄想(捏造)と呼ばれるものの根本を(すべて破壊すれがよい。)」。これが根本で、一番大切なところ。
このことは874で「何故ならば、思いによって、ありとあらゆる妄想(捏造)が起こるからである。」と述べられたことが思い出される。
二行目は「智慧によって、『私がいる』という思いをすべ破壊するがよい。」だが、妄想(捏造)の最大のものが「私がいる」という思い。私がいるという思いから、あらゆる悩み苦しみが生まれる。
毎田先生は、「『自分を聖者のように』考える一切の妄想」とし、
中村先生は「「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>」とし、
正田先生は「「虚構の名称(世界認識の道具として虚構された概念)の根元を、『〔わたしは〕存在する』という〔我執の〕一切を、明慧によって」としている。
一番大きな違いはパーリ語の「Mant」をどのように訳すかが大きな違い。毎田先生は「聖者」と訳した。だから「自分を聖者のように考える一切の妄想」となる。
中村先生は「考える」と訳した。そのため、「私は考えて、(私は)ある」となる。
この点について、御自身の訳書「ブッダのことば」の注で「われ思う。故に、われ有り」というデカルトの言葉を引用して、「文句が似ているとしても、近代西洋と仏教とのあいだには、確然たる相違があった。
近代西洋におけるその表現は、自我の確立をめざす第一歩であった。しかし、古代のインド仏教では、分裂・対立した自我は、むしろ制し、滅ぼされるべきものであった。」と書かれている。
正田先生は「明慧によって」とされている。
後半の二行も大切。
毎田先生訳、「内にあるどんな情欲をも取除こうと、いつもはっきりと目醒めて学んでゆくがよい」
中村先生訳、「内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。」
正田先生訳、「それらが何であれ、内に、諸々の渇愛〔の思い〕があるなら、それらを取り除くために、常に気づきある者として、〔怠ることなく〕学ぶように。」
三人の先生方の訳は基本的に同じ。唯、パーリ語のtahの訳が、「情欲」と「妄執」と「渇愛」が違う。
また妄想(捏造)で悩み苦しみが生まれると書いたが、それは妄想(捏造)によって「情欲」=「妄執」=「渇愛」が生まれ、増加するから。妄想(捏造)の根本を断ち切ることは本当に大切なこと。
(´・(ェ)・`)つ
0234名無しを整える。2017/12/17(日) 07:41:36.33ID:V7OELWma
>>232
○毎田周一先生訳
917.
内界のことや外界のことについての
如何なる道理も それを知っているのはよいが
しかしそれを過信してはならない
何故ならそれが苦痛を鎮めるなどと目醒めた人はいわないからである

内界と外界或は内的と外的とは何を指しているのか?この二つで「如何なることも」ということだから、「すべて」を意味している。
ブッダは「すべて」という経で、「すべてとは、眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法である。」と述べておられる。
すなわち内界とは眼耳鼻舌身意であり、外界とは色声香味触法。これがすべて。この偈の一行目、二行目では、すべてを知り尽くせと述べている。
このすべてを知り尽くすことによって、真理の三相と言われる無常、苦、無我を知ることが出来る。しかし、三行目では、それによって慢心してはいけないと述べられている。それは覚った人が説く涅槃の境地ではないからである。

○毎田周一先生訳
918.
それによって 自分を勝れているとも
劣っているとも また等しいとも 思わぬがよい
そして色々なことを人から問われても
自分をひとかどの者と思って相手に対せぬがよい

一行目の「それによって」は、前回の「すべてを知り尽くすこと」において、相手より勝れていると思ったり、同等と思たり、より劣っていると思うことをしてはならないと述べられている。
仏教では一般に、自分を他人と比較する心の働きを「慢」と言う。そしてその種類を三種類に分類している。
@増上慢:自分が他人より上だと考える。
A同等慢:自分が他人と同等だと考える。
B卑下慢:自分が他人より劣っていると考える。
この心の働きは根強いものがあり、阿羅漢になるまではなくならないと考えられている。
預流果になれば有身見がなくなる筈なのに、何故阿羅漢になるまでなくならのかという疑問に対する解答としては、有身見とは「私がいる」という見解がなくなることで、「私という」感覚は阿羅漢になるまでなくならないということである。(??)
三行目の訳について、毎田先生と中村先生の訳は同じだが、正田先生の訳とパーリ語原文の訳は異なる。
その理由は訳する底本の原文が異なるため。ブログのパーリ語Phuhoは「触れたる」、これは正田先生と同じで、毎田先生と中村先生の底本のパーリ語がPuho「問われたる」となっているため。
四行目は、慢によって自分についていろいろ妄想し、舞い上がったり、落ち込んだりするなと言うこと。
毎田先生の訳は、916で「自分を聖者のように」と訳されていた、ここでは「自分をひとかどの者と思って相手に対せぬがよい」ということになっている。
(´・(ェ)・`)つ
0235名無しを整える。2017/12/17(日) 07:42:04.37ID:V7OELWma
>>232

○毎田周一先生訳
919.
修行者は 心の内が静かであればよい
外の世界に平和を求めてはならない
心の内の静けさを保つものには――
掴んでいるものがない どうして捨てねばならぬものがあろうか

自分を他人と比べて、勝っているとか、劣っているとか妄想すると、心は静かにならない。他人比べることを止め、これが欲しい、あれが欲しいという思いを止めると、心は静かになる。自分の心を静かに、穏やかにすれば平安になる。
自分の心が、不満や怒りで揺れ動いているのは、他人のせいではない。同じような条件のなかでも、静かに落ち着いている人もいる。心が穏やかでないのは人のせいではない。自分自身の問題なのだとしっかりと自覚すべし。
三行目と四行目の訳において、毎田先生と中村先生の訳はほぼ同じだが、正田先生の訳は少し異なる。これはattとnirattの意味が二通りあるから。
Attは@得られたる、A自己の
Nirattは@捨てられたる、A自己ならざるものの
どちらも考えられるが、@の方が分かりやすい。
@の訳を採用した毎田先生は次のようになっている。
「心の内の静けさを保つものには――
掴んでいるものがない どうして捨てねばならぬものがあろうか」
「掴んでいるものがない」とは執着しているものがないということ。執着するものがなければ捨てるべきものはない。何をもっていても構わない。悩み苦しみの原因にはならないから。

○毎田周一先生訳
920.
海の内には
波が起こらず そこが不動であるように――
修行者は情欲を離れ 外から動かされることなく
どこにいても思い上がらぬようにするがよい」

「心の内の静けさ」を「海の内側の静けさ」で喩えている。海の表面は風などの影響で波立っていて静かではないが、海の底は外部の影響を受けずに、不動で静か。心も欲情を離れ、外部からの影響で動かされることがなければ、不動で静かになる。
(´・(ェ)・`)つ
0236鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/17(日) 22:39:11.23ID:5vJFM46Y
>>231 そうじゃ、自らの見解にも囚われてはいかんというのじゃ。
 なにものにも囚われずに進むがよいのじゃ。
 
0238名無しを整える。2017/12/18(月) 19:29:33.64ID:pbsNnzN1
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、14、迅 速

921[質問者はいわく]、「眼を開いた人は、みずから体験したことがら、危難の克服、を説いてくださいました。ねがわくは正しい道を説いてください。戒律規定や、精神安定の法をも説いてください。」

922 [師いわく]、「眼で見ることを貪ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。味に耽溺してはならない。世間における何ものをも、わかものであるとみなして固執してはならない。

923 苦痛を感じるときがあっても、修行者は決して悲嘆してはならない。生存を貪り求めてはならない。恐ろしいものに出会っても、慄(フル)えてはならない。

924 食物や飲料や堅い食べものや衣服を得ても、貯蔵してはならない。またそれらがえられないからとて心配してはならない。

925 こころを安定させよう。うろついてはならないるあとで後悔するようなことをやめよ。怠けてはならなぬ。そうして修行者は閑静な座所・臥所に住むべきである。

926 多く眠ってはならぬ。熱心に努め、目ざめているべきである。ものぐさと偽りと談笑と遊戯と婬欲の交わりと装飾とを捨てよ。

927 わが徒は、アタルヴァーダの呪法と夢占いと相の占いとを行ってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行ったりしてはならない。
(´・(ェ)・`)つ
0239名無しを整える。2017/12/18(月) 19:33:13.46ID:pbsNnzN1
>>238
○毎田周一先生訳
921.
「明らかな眼を以てあなたが自ら証しせられた煩いを除く法を
いまお聞きしました。
尊き方よ 更に正しい行いについてお示し下さい
人の必ずせねばならぬことと 深く思わねばならぬこととはなんでしょうか」

前半は第一の質問の解答へのお礼の言葉。後半では、修行実践の道(方法)と戒律条項、心の統一についての質問。

○毎田周一先生訳
922.
「目に見えるものを貪り求めず
つまらぬざれ言に耳を貸さず
美味なものを無闇に欲しがらず
世間の何事も愛好せぬがよい

具体的で分かりやすいが、実践することは難しいす。なぜならば、基本的に私達は楽しみたいと思っているから。物を見て楽しみたい。音を聞いて楽しみたい。食べて楽しみたいと思っている。
だから、「眼で見ることを貪ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。味に耽溺してはならない。」と言われてもなかなか出来ない。ではどうするのか?
 眼で見ることを貪ることによって、どのような苦しみを生み出しているのか調べること。
四行目、「世間の何事も愛好せぬがよい」=「世間における何ものをも、わがものであるとみなして固執してはならない。」=「世において、何であれ、わがものと〔錯視〕しないように。」
とは、楽しみたいという思いを打ち消すための言葉。世間の何事も楽しめるというよりは、それらに耽溺すれば苦を生み出すことを知らなければならない。それが分かれば、ブッダの今回の言葉を実践できるようになる。

○毎田周一先生訳
923.
刺すような苦痛に会っても
修行者は決して泣き悲しまず
どうしても生きたいなど命を貪らず
恐ろしいものに出会っても震えぬがよい

一行目の直訳は、「触れて感じた時に」だが、二行目は「修行者は決して悲嘆してはならない」だから、苦しくなるものに触れた時のようである。だから、正田先生は病気や飢えを補って訳されている。
そこで、何故このような苦痛に会った時も、修行者は嘆き悲しんではいけないのか?
苦痛に対して嘆かないことは、完全な感官の防護。感覚に対する刺激から心が汚れないように守るため。
凡夫であるならばこのような苦痛に対して嘆くことは普通のことだが、修行者たるものは、心を守ることは重要な修行だから、たとえ大きな苦痛であっても耐え忍ぶべき。
三行目、「どうしても生きたいなど命を貪らず」=「生存を貪り求めてはならない」=「〔迷いの〕生存を渇望しないように」について説明。
大きな苦痛に対して嘆き悲しむのは、生命の危機を感じるから。
生命の危機に対しても動じない修行者は、痛い時は痛いが、嘆き悲しむことがない。何故ならば彼にとっては自分の生命より大切なものがあるから。それは真理の探究。彼は真理の探究にとって嘆くことが相応しくないのであれば嘆かない。
三行目「恐ろしいものに出会っても震えぬがよい」も、恐ろしいものに出会って震えるのは命が惜しいから。」
真理のためならば、命も惜しくない修行者は、恐ろしいものに出会っても震えないす。」彼には「悪事を働くこと」以外に恐ろしいものはない。
(´・(ェ)・`)つ
0240名無しを整える。2017/12/18(月) 19:39:42.82ID:pbsNnzN1
>>238
○毎田周一先生訳
924.
食べものや飲みものや
保存の出来る食物や衣服を受けても
それを貯えるようなことはせず
又それが手に入らなくてもくよくよせぬがよい

922の四行目で「世間における何ものをも、わがものであるとみなして固執してはならない。」と述べられてた。
貯蔵するということは、それに対して「わがもの」という思いがある。
「わがもの」という思いは「私がある」という思いにつながる。このような発想は、無我を体得しようという修行に逆行する。だから「貯蔵してはならない。」
924の四行目、「またそれらがえられないからとて心配してはならない。」
出家して修行することは、他の人々に与えられたもので命をつなぐ覚悟を決めている筈だから、何日か食べ物を得られないことがあっても心配するべきではない。
また、仏教には「業」という考え方がある。業によって寿命が決まっている。その寿命を全うする糧は得られるということも決まっている。だからじたばたしなくともよい。
食べ物があっても死ぬ時は死に、寿命があれば必ず、そのために必要な食べ物は与えられる。仏教を信じ、業を信じているものは食べ物が得られなくとも心配してはならない。

○毎田周一先生訳
925.
修行者はどこ迄も深くものを考えて さまよい歩かず
悔いることを止め 時を無駄に過ごさず
騒音を離れたところに
坐る場所 臥せる場所を求めて そこに住むがよい

始めの言葉Jhyを、毎田先生は「修行者はどこ迄も深くものを考えて」、中村先生は「こころを安定させよう」、そして正田先生は「瞑想者は」と訳しました。どの訳も可能。ここでは中村先生の訳を中心にして、解説。
@こころを安定させよう。
これは瞑想すること。毎田先生は、瞑想することを「どこまでも深く考えていること」と考えている。
Aうろついてはならない。
パーリ語を分析して意味をとると、正田先生の捕捉的訳にあるように、「欲望の対象を求めて歩き回ること」。
Bあとで後悔するようなことをやめよ。
この訳からは、悪行為をしないことという意味にもとれるが、パーリ語の意味は「後悔することを止めるように」。
後悔はなぜいけないか? 後悔している時は気づきを怠っている。時間を無駄に使っている。また心が落ち込み、暗くなるから。さらに、後悔すると、二重に悪行為をすることになる。
すなわち、悪行為したという悪行為と、そのために、後悔するという悪行為を重ねるということ。
C怠けてはならぬ。
これは単に、仕事や勉強を怠けるなという意味ではなく、正田先生の訳のように「〔常に気づきを〕怠らないように」ということ。
仏教用語としては不放逸という言葉を使う。この言葉を毎田先生は「時を無駄に過ごさず」としている。気づきを怠らないということは、今の瞬間に気づいていることで、今を生きているという意味。
Dそうして修行者は閑静な座所・臥所に住むべきである。
修行者はあくまでも、心の静けさを求めて修行すべきだが、環境も大切で、静かな場所の方が修行は実践しやすい。
(´・(ェ)・`)つ
0241名無しを整える。2017/12/18(月) 19:42:08.32ID:pbsNnzN1
>>238
○毎田周一先生訳
926.
眠りを貪ることなく
注意深く 生々と働き
不精と 偽善と 冗談と 娯楽と
性の関係と 上辺を飾ることとを止めるがよい

@多く眠ってはならぬ。
眠っている間は心を育てるということは出来ない。だから修行は眠りを貪ってはならない。
多く食べると多くの睡眠を必要とする。食物の消化・吸収・排泄のために多くのエネルギーが必要だから。修行のために必要な食物だけを取るようにすると、睡眠時間が少なくて済む。
A熱心に努め、目ざめているべきである。
気づきを絶やさない(不放逸)ために、目ざめている必要がある。そのために、熱心にということが必要。大念処経やその他の経典にも「熱心に、正知をそなえ、念をそなえ」と三セットで繰り返し述べられている。
B不精=ものぐさ=倦怠を止めるがよい。
不精、ものぐさはやるべきことをやらないこと。倦怠はいやになって止めること。
これで修行が完成するはずはない。この反対のことで修行が完成する。やるべきことはやる。嫌になっても完成するまでは止めない。これで修行が完成する。
C偽善=偽り=幻想を止めるがよい。
この三つを並べると意味が分かりにくいが、妄想を止めて、真実を見て、真実のある真心のある行ないをすること。
D冗談=談笑=笑喜を止めるがよい。
E娯楽=遊戯=遊興を止めるがよい。
DEは一緒に考えてもよいでしょう。今私達は苦の世界で生きていることが事実。そのことから眼を背けて、談笑し、面白可笑しく、遊びほけてよいのか。この苦しみにみちた輪廻を無限に繰り返すことになる。
ダンマパダ146「何の笑いがあろうか。何の喜びがあろうか。
世間は燃えているのに
汝らは暗黒におおわれている。
どうして燈明を求めないのか?」(中村先生訳)
F性の関係=淫欲のまじわり=淫欲を止めるがよい。
性の関係には二つの側面がある。一つは種の保存。もう一つは快楽の追及。淫欲を止めるがよいというと子孫が絶えてしまうと言いう人がいるが、この項は修行者に対して述べられてもので、一般の人々に述べているのではない。
快楽の追及に関しては、修行者にとっては楽の中で苦を見出すことが重要な課題。楽に惑わされて輪廻を繰り返しているわだから。
G上辺を飾ること=装飾=〔身を〕飾り立てることを止めるがよい。
上辺を飾ること、おしゃれをすること、化粧をすること等は、何故行うのか? 
修行者のなすべきことは心を清らかにすること、心を育てること。上辺を気にすることは見当違いの行ない。時間の無駄。ありもしない自分を飾って、しかも上辺を飾って何の意味があるか。

○毎田周一先生訳
927.
妖術と 夢占いと 人相を見ることと
それから又星占いなどをせず
鳥や獣の声を占ったり 子を授かる法や
医術を施すことをすき好んでせぬがよい

占いは昔から、現在も人気のあるもの。占いが人気があるのは、人間は無知のために、すべての事柄に対して不安で、一時的でも安心できる拠り所が欲しいから。
しかし、ではなぜブッダは弟子達に占いを禁じたのか?その基本は、自ら真理を発見するため。迷信、根拠のない事柄を盲信するという態度では真理を発見できないから。
占いを信じるようでは、真理探究の修行を正しく進められないから。
後半では、懐妊術(子を授かる法)や治療についても弟子達に禁じている。これはなぜか? 子を授かる法や治療は信者さんに喜ばれることではあるが、それは仏弟子の行うべき仕事ではない。
それらの分野は肉体に関する事柄でそれらの専門家に任せること。仏弟子は自分自身の心の清浄と成長を中心に取り組み、信者さんの心の成長や安穏のために働くべきだから。
(´・(ェ)・`)つ
0242鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/18(月) 22:55:22.39ID:CwzU6xyF
それらを職業にしてはいかんのじゃ。
乞食によって身を養うので有るからのう。
修業のためにマントラを唱えたりするのはよいのじゃ。
0243名無しを整える。2017/12/19(火) 18:34:51.46ID:xcRwi0AL
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、14、迅 速

928 修行者は、非難されても、くよくよしてはならない。称讃されても、高ぶってはならない。貪欲と慳みと怒りと悪口を除き去れ。

929 修行者は、売買に従事してはならない。決して誹謗をしてはならない。また村の人々と親しく交わってはならない。利益を求めて人々に話しかけてはならない。

930 また修行者は高慢であってはならない。また(自分の利益を得るために)遠廻しに策したことばを語ってはならない。傲慢であってはならない。不和をもたらす言葉を語ってはならない。

931 虚言をなすことなかれ、知りながら詐りをしないようにせよ。また生活に関しても、知識に関しても、戒律や道徳に関しても、自分が他人よりもすぐれていると思ってはならない。

932 諸々の出家修行者やいろいろ言い立てる世俗人に辱しめられ、その(不快な)ことばを多く聞いても、あらあらしいことばを以て答えてはならない。立派な人々は敵対的な返答をしないからである。

933 修行者はこの道理を知って、よく弁えて、つねに気をつけて学べ。諸々の煩悩の消滅した状態が「安らぎ」であると知って、ゴータマ(ブッタ)の教えにおいて怠ってはならない。

934 かれは、みずから勝ち、他にうち勝たれることがない。他人から伝え聞いたのではなくて、みずから証する理法を見た。それ故に、かの師(ブッタ)の教えに従って、怠ることなく、つねに礼拝して、従い学べ。」

──このように師(ブッダ) はいわれた。

(´・(ェ)・`)つ
0244名無しを整える。2017/12/19(火) 18:41:06.02ID:xcRwi0AL
>>243
○毎田周一先生訳
928.
修行者は非難されても悩まず
ほめられても思い上がらず
利己心と一緒に 貪りと
怒りと陰口をきくこととを払いさるがよい

一行目。平安の境地を求める者は他人の非難に動揺してはいけない。他人の非難はある意味、他人の自由。他人の非難に動揺しているものは心の平安は得られない。
ダンマパダ227「アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、今に始まることでもない。
沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。
世に非難されない者はいない。」(中村先生訳)
二行目。人々はほめられると嬉しくなって、舞い上がるものだが、それ自体が心の落ち着き、平安でない。これでは平安の境地に至ることはできない。
舞い上がる人は何に舞い上がるのか。良い事を行ったり、良い事を言ったりしたとしても、それはあなたのみの手柄か。多くの場合、多くの人の支えによってなし得たこと。

○毎田周一先生訳
929.
修行者は売買には従わず
決して人を罵らず
又村里にいても不機嫌な様子をせず
(それかといって)利益を得ようとして人と余計なはなしをせぬがよい

修行者とは、比丘あるいは乞食修行を意味している。彼等は生きる糧を稼ぐ仕事を止めて、ただ真理を求める修行だけに専心し、生きる糧は乞食に頼ることを決意した人々。だから、売買などの商いに従事してはいけない。
二行目。修行者は、真理を求めることに専念するとはどのようなことか? 人格を完成する、無量心「慈悲喜捨」の心を完成し、即ち真のやさしさを知り、それを実践できるようになること。
それならば、他人を罵る、誹謗する、批判するということがあってよいか。それはすべて真のやさしさに反する行為。すべきでないことは明らか。
三行目、毎田先生は「不機嫌な様子をせず」、中村先生と正田先生は「親しく交わってはならない=〔在家者たちと〕交際しないように」と訳されている。
パーリ語辞書に両方の意味が掲載されているからこの違いがある。どちらにしても、修行に差しさわりのある人間関係を持ってはいけないということ。
四行目は、利益を求めて話をすることは、欲に基づく行為。無意識にもそのような行為をしないように注意すべき。
(´・(ェ)・`)つ
0245名無しを整える。2017/12/19(火) 18:45:49.19ID:xcRwi0AL
>>243
○毎田周一先生訳
930.
修行者は傲慢な態度をとらず
又腹に一物あるようないい方をせず
押しの強さを身につけることなく
人と争うようないい方でものをいわぬがよい

一行目「傲慢=高慢=自慢する者」これらは、明らかに自分を他人と比較して自分を勝れていると思っていること。
二行目は、「腹に一物あるようないい方=(自分の利益を得るために)遠廻しに策したことば=食を得るためのほのめかしの言葉」いじましい、せこい、修行者でなくても人間として情けない。
三行目は、傲慢さを身につけるなということ。何かを学んでも、そのために自分は偉くなったと思うなということ。何か新しいこと学んだら、自分は偉くなったと思うのではなく、自分はこのようなことも知らなかったのだと謙虚さを学ぶべき。
四行目、真理は論争や争いを超越している。真理を探究する修行者ならば、論争や争いの種はまかない。そのようなことにならないようにくれぐれも注意すべき。

○毎田周一先生訳
931.
嘘をつかぬようにし
狡猾なことをしないように気をつけ
また生活についても叡智についても
徳行についても 他人を軽蔑せぬがよい

「嘘をつかぬように」は五戒の一つ。正しく生きようと思う者は必ず守るべき徳目。なぜ嘘をついてはいけないのか。慈悲の心に反する行為だから。
二行目は「狡猾なことをしないように気をつけ」は930「腹に一物あるようないい方をせず」に似ている。ブッダはいろいろな言い回しで、よく分かるように説かれている。
三行目、四行目も930「傲慢な態度を取らず」ということでもあり、「人と争うようないい方でものをいわぬがよい」ということでもあります。慢心を戒めている。
(´・(ェ)・`)つ
0246名無しを整える。2017/12/19(火) 18:54:00.56ID:xcRwi0AL
>>243
○毎田周一先生訳
932.
いらいらさせられるような多くの言葉を
外の修行者や 色々と悪口をいう俗人から聞いても
荒々しい言葉で答えぬがよい
何故なら静かな人は仕返しなどしないからである

ダンマパダ5及び133、134を参考。

○毎田周一先生訳
933.
修行者は以上のことをよく理解して
微妙なことによく気付き いつも目醒めて学びながら
一切の煩いのなくなる処に 『静けさ』のあることを知り
目醒めた人の教えを聞いて 時を空しく過ごさぬがよい

迅速経のまとめ。「以上のこと」とは、921の質問に答えられたブッダの十一の偈の内容。
これらの道理を実践する中で、「一切の煩いのなくなる処に 『静けさ』のあることを知り=諸々の煩悩の消滅した状態が「安らぎ」であると知って=寂滅〔の境処〕(涅槃)を、『〔真の〕寂静である』と知って」、
「時を空しく過ごさぬがよい」と述べられている。
ブッダは道理を実践することで、真理を体得すべきであると述べておられる。

○毎田周一先生訳
934.
その人は自らに打克って 他に打克たれることなく
人から聞いてではなく自ら証しして真理を見た人である
だからこそこの尊き師の教えをあがめ 怠ることなく
それに従って学んでゆくがよい

迅速経を述べたブッダはどのよう方なのか?またこの経に述べられた真理はどのようなものなのか?そしてその真理をどのように学ぶべきかここで述べられる。
自分自身に打ち勝つということは、自分の煩悩を克服したということ。
また、ブッダが覚った真理は、人から聞いたり、教えられたものでなく、自分自身で体得した真理であるということ。
そのようなブッダの教えだからこそ、ブッダを尊敬し、不放逸、常に気づきを怠ることがないようにいるべきと説かれた。
この経のパーリ語の題名はTuvaakasutta。このTuvaakaの意味は「迅速な」「急ぐ」などの意味があるので、「迅速経」と呼ばれている。
この経の偈の中にTuvaakaという言葉はない。そのために、Tuvaakaを人名と考える説もあるが、その確定的な証拠がないので、注釈書の注では、「どうしてこの題名を冠するのか明らかでない。」と述べられている。
しかし、この経の編集者の意図を考えてみる。
この経の要所に不放逸ということが述べられている。925、933、及び934に不放逸という言葉がある。
不放逸は通常、念、気づきを怠らないことと訳されるが、毎田先生は不放逸を「時を無駄に過ごさず」と訳された。まさに、不放逸とは時間を無駄にしないこと。
ブッダの最後の言葉は「すべての現象は消えていくものです。不放逸で励みなさい。」だった。このように修行者が不放逸であるべきなのは、すべての現象が迅速に消え去るから。
不放逸であるべき前提は、すべての現象が迅速に消えるところにある。そのような訳でこの経は「迅速経」と命名されたのではないか。

(´・(ェ)・`)つ
0247鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/19(火) 22:36:48.99ID:C74aUflQ
自分で観察して厭離が起こるのじゃ。
学んだだけでは起こらないのじゃ。
そうであるから真理を見るというのじゃ。
0248名無しを整える。2017/12/20(水) 18:28:39.03ID:Vcxelp3N
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、15、武器を執ること

935 殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。わたくしがぞっとしてそれを厭い離れたその衝撃を宣べよう。

936 水の少ないところにいる魚のように、人々が慄えているのを見て、また人々が相互に抗争しているのを見て、わたくしに恐怖が起った。

937 世界はどこでも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している。わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった。

938 (生きとし生けるものは)終極においては違逆に会うのを見て、わたくしは不快になった。またわたくしはその(生けるものどもの)心の中に見がたき煩悩の矢が潜んでいるのを見た。

939 この(煩悩の)矢に貫かれた者は、あらゆる方角をかけめぐる。この矢を抜いたならば、(あちこちを)駆けめぐることもなく、沈むこともない。

(´・(ェ)・`)つ
0249名無しを整える。2017/12/20(水) 18:45:28.58ID:Vcxelp3N
>>248
○毎田周一先生訳
935.
「争う人々を見るがよい 
杖をとりあげるから 恐怖が生じたのである――
私は世間の悲惨を見て 強く心を動かされたが 
そのとき感じたままを これから話してみよう

この経の由来は、サーキャ族(釈迦族)とコーリヤ族の間に水争いが起こった時、世尊はその争いを止めようとして、両軍の中に立ってこの経を説いたと言われている。
またこの経名は、この偈の最初の言葉 Attadaから来ている。この語はAttaとdaからできているが、Attaには、「取る(執る)」という意味と「自己の」という意味がある。
daは、「杖、棒(武器、暴力)」。毎田先生と中村先生の訳は「杖をとりあげる=武器を執って」としているが、正田先生は「自己の棒(暴力)」と訳している。
そのため、厳密には題名の訳は二通りになるが、ここでは中村先生の訳を取った。
この偈のポイントは二つ。第一は、恐怖は武器を執るから生じるということ。逆ではない。恐怖があるから武器を執るのではないのだとブッダは説かれている。
そこまで詳しく丁寧に心の機微を観察する必要がある。恐怖は人間の根本な感情の一つ。これに対する理解により人間の理解が出来る。
第二は、ブッダが「私は世間の悲惨を見て、強く心を動かされたが、そのとき感じたままを、これから話してみよう。」と述べられた意図を知る必要がある。
「世間の悲惨」とは「苦」の実状。四聖諦の第一の苦諦を理解するためには、世間の悲惨を観察しなければならない。
またブッダは「そのとき感じたままを、これから話してみよう。」と仰られているので、それに学んで、観察すること。苦の観察の見事な見本が示されることになる。

○毎田周一先生訳
936.
水の少ない処で
はねかえっている魚のような人を見
また互いに反目している人達を見て 
私は恐ろしくなった

反目している人々の姿を、水の少ない処にいる魚に例えている。魚は水が少なくて苦しくて、のたうち回っている。
反目している人々は、恐怖におびえ、苦しんでいる。では何がたりなくて苦しんでいるのか。それは愛情。反目している人々の心には怒りで、愛情がなくなって苦しんでいる。人間には、魚に水が必要なように、愛情が必要。

○毎田周一先生訳
937.
この世のどこを見ても 確かなことがなく
どの方向もみな揺れ動いていた
私は自分の住み処(か)を求めていたが 
すでに何かが住み込んでいない処を見なかった

936も今937も、ブッダがお悟りになる前の菩薩であったとき、世間の人々のあり様を語られている。
936の偈で水の少ない水の中で苦しんでいる魚のように怖れ苦しんで人々に対して戦りつが起こったので、菩薩はそこから眼を転じて、あまねく世間を見渡した。
しかし、世間には何一つ確実なものがなく、やはり恐れや苦しみのために揺れ動いていた。
菩薩はそれでも何とか自分の安らげる場所を探し求めた。しかし、そのような場所はなく、何処も、生老病死などの苦しみが住み着いていた。

○毎田周一先生訳
938.
そこには必ず行き詰まりがあり 
人がそれにぶつかってどうにもならぬのを見て 
私は不愉快になった。
そうして一見して解らない矢が 
彼等の心中に刺さっているのを見た

菩薩は、水の少ない処で苦しむ魚のように、怖れ苦しむ人々を見て、どこかに安らぎのある住処を求めました。しかし、そのような場所はどこにもなかった。人々は仲良く生活しているように見えても、最後には、互いに敵対し、反目し合うようになる。
それを見て、菩薩は不快になったが、その原因を探究した。彼等の心に矢というべきものがあった。これを修行者は自分で観察して自分で発見すべきもの。無智、無明の凡夫には発見し難いもの。この矢とは無智、無明。

○毎田周一先生訳
939.
この矢の刺さった者は 
あらゆる方向に駆け回るのであるが
その矢を抜いてさえしまえば 
駆け廻ったり はては身動きならぬことにならなくてもよいのである
矢に射られたものは、痛いのだから、あちらこちら走り回る。この矢を引き抜きさえすれば、しばらくすれば痛みもおさまり、走り廻ったり、痛みのためにうずくまらなくともよくなる。
しかし、実際は988に述べられていたように、凡夫には矢は見難いので、矢に射られていることも分からずに、怖れ、苦しみ、走り廻っている。だから、まず、苦しみの原因を見極めること。そうすれば苦しみの原因である矢を取り除くことが出来る。
(´・(ェ)・`)つ
0250鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/20(水) 21:45:22.37ID:Sxpa2Ly9
杖をとりあげるから恐れがおこるとはどう考えてもおかしいじゃろう。
それでは武器があれば恐れはない事になるからのう。
武器を推奨したりはしないのじゃ。
0251名無しを整える。2017/12/20(水) 22:53:52.93ID:Vcxelp3N
>>250
鬼和尚、こんばんは。
たしかに、毎田先生の「とりあげる」を解説のように、中村先生の訳と同じように解することは、日本語としてちょぴっと不自然であると思うであります。
(´・(ェ)・`)つ
0252名無しを整える。2017/12/21(木) 19:14:15.49ID:ygvalig9
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、15、武器を執ること

940 そこで次に実践のしかたが順次に述べられる。──世間における諸々の束縛の絆にほだされてはならない。諸々の欲望を究めつくして、自己の安らぎを学べ。

941 聖者は誠実であれ。傲慢でなく、詐りなく、悪口を言わず、怒ることなく、邪まな貪りと慳みとを超えよ。

942 安らぎを心がける人は、眠りとものぐさとふさぎこむ心とにうち勝て。怠惰を宿らせてはならぬ。高慢な態度をとるな。

943 虚言をつくように誘き込まれるな。美しいすがたに愛著を起すな。また慢心を知りつくしてなくすようにせよ。粗暴になることなく、ふるまえ。

944 古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑されてはならない。滅びゆくものを悲しんではならない。牽引する者(妄執)にとらわれてはならない。

(´・(ェ)・`)つ
0253名無しを整える。2017/12/21(木) 19:24:32.36ID:ygvalig9
>>252
○毎田周一先生訳
940.
世間では色々の学術を習うのであるが
そんなものによって
世間へあれこれと縛りつけられるのではなく
そもそも欲望というものが何であるかをよく知って
自分というものがすっかりなくなることをこそ学ぶがよい

毎田先生は、sikkhaを学術と訳している。世間の学術によって拘束されるべきでない。それよりは、欲望の本質を究めよと述べている。また「自己の寂滅」の意味を「自分というものがすっかりなくなること」として、それを学ぶべきだとしている。
これが心に刺さった矢を抜くことと解釈している。
中村先生と正田先生は、sikkhaを「実践のしかた=諸々の学び〔のあり方〕」と取られ、941からの偈で続いて述べられる具体的な項目を指している。
これらの具体的な項目の実践は「矢を抜くこと」なのだとしている。ただ、「世間における諸々の束縛の絆にほだされてはならない。」の意味は「実践のしかた」が形骸化されるといけないという意味。
例えば、戒律の心を重んじないで、形だけ戒律を守ればよいとするようなこと。
四行目については、「諸々の欲望を究めつくして」が心に刺さった矢を抜くことになるということ。そして、それが自己の涅槃を学ぶことだとしている。「自己の涅槃」を学ぶとは、毎田先生は、「自分というものがすっかりなくなること」としてる。

○毎田周一先生訳
941.
静かな人は おだやかに 誠を尽くし 
心豊かに ひとを謗らぬ人であり
怒りを離れ 貪りの禍いと
利己心とをこえた人でなければならない

心に刺さった矢を引き抜くために、諸々の欲望を究めつくして、自己の安らぎ(涅槃)を学ぶこととは、具体的には941で述べられたこと。

@誠実であれ、A傲慢でなく、Bいつわりなく、C悪口を言わず、D怒ることなく、E邪まな貪りを超える、Fもの惜しみを超える、以上中村先生訳。
これらは慈悲の心がある人ならば、すべて簡単に実践できること。しかし、私達の心に欲望があるならば、簡単ではない。欲の心が邪魔をする。
欲の心は利己心。毎田先生は「物惜しみ」を利己心と訳された。利己心は慈悲の心を邪魔する。
利己心がある時、誠実にはなれない。傲慢になる。ある時は悪口を言い、怒る。自分に都合が悪いから怒る。また利己心故に貪り、物惜しみになる。慈悲と欲望は対立するものだと理解する必要がある。

○毎田周一先生訳
942.
一切の煩いを除こうと思うなら 
眠りと不精と 迂闊(うかつ)に時を過ごすこととに
うちかってふしだらな様子と
思い上がった態度とを捨てるがよい

心に刺さった矢を引きぬために実践すべき項目が述べられている。しかし、その内容は単に矢による苦しみを取り除くという意味でばかりでなく、それは涅槃を目指す人に薦められる事柄でもある。
@眠りに打ち勝つ。
「迅速経」の926。参考
A倦怠、ものぐさに打ち勝つ。
926やるべきことをやらないこと。倦怠はいやになって止めること。
B落ち込み、ふさぎ込む心に打ち勝つ。
落ち込み、ふさぎ込みは心のエネルギー不足。エネルギーの不足した心は成長しない。これに打ち勝たなければならない。どうしたら心のエネルギーを供給できるか?
心のエネルギーは愛情(慈悲)。心のエネルギーは放出すると、供給される。だから先ず放出する。つまりあなたが誰かに愛情を与える。やさしくすること。そうするとあなたに心のエネルギーが入ってくる。実践すればすぐに分かる。
C放逸、怠惰を心に宿らせない。
気づきを絶やさないこと。
D高慢な態度を取らない。
高慢とは自分と他人を比較して、自分が勝っていると思うことだが、これこそ無智の現れ。高慢な人と同じ無智なレベルで考えても、世界は広く多くの人々がいる。高慢な人以上に勝っている人は、世界にいくらでもいると思わなければいけない。
高慢な人はそのような一人でもいれば、苦しむことになる。
仏教では無我を教えている。本来、他人と比較する自分がないことを知らなければならない。そして、何よりも重大な問題は高慢な人は他人から素直に学べないから、成長出来ない。
(´・(ェ)・`)つ
0254名無しを整える。2017/12/21(木) 19:26:33.23ID:ygvalig9
>>252
○毎田周一先生訳
943.
嘘をつかず 
形あるものに執著せず
思い上がる心を隅々まで究めて 
決して暴力を用いぬようにするがよい

@嘘をつかないこと
妄語に導かれないようにと表現されており、嘘をつかなければならない状況ならないように注意されている。これは言葉に関する戒め。
A形あるものに執着しないこと。
形あるものとは、物質的なもの、肉体などを意味する。物を欲しがったり、自分の肉体、健康や美容などに執着しないこと。これは心に関する戒め。
B慢心を究め尽くすこと。
自分と他人と比較するという心の作用。これはなかなか取り除くことの出来ない、心の癖のようなものだから、究め尽くせと述べられている。これも心に関する戒め。
C暴力を振るわないこと。
原文の四行目のshasaは、「性急、暴力、粗暴、暴悪」などの意味があるから、四行の意味は「粗暴になることなく」「無理強いすることから離れた者となり」などの意味であると理解できる。これは身体に関する戒め。

○毎田周一先生訳
944.
古いものを楽しむことなく 
新しいことを受け入れることなく
滅びゆくものを悲しむことなく 
光あるものに愛著すべきでもない

「牽引するもの=惹き付けるもの」とは、渇愛、妄執を意味している。
毎田先生は「光あるもの」と訳された。五感で快を感じるものに引きつけられないようにということ。五感の奴隷にならないようにということ。
これらのことで、心に刺さった矢を引き抜くことができ、涅槃に達することが出来ると教えている。
(´・(ェ)・`)つ
0255鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/21(木) 21:37:20.85ID:ady9V75C
>>251 そうじゃ、恐れから武器をとったというのが正しいのじゃろう。
 他人を攻撃するのは恐れが有るからなのじゃ。
 恐れから武器を取り上げて攻撃するのじゃ。
0256名無しを整える。2017/12/21(木) 23:00:04.98ID:ygvalig9
>>255
鬼和尚、こんばんは。
て、ことは、どの訳も間違えでありますか?
たしかに、恐怖から武器をとるの方が自然で、
武器をとるから恐怖が生じるは、考えすぎのような気もするではありますが、
>恐怖は武器を執るから生じるということ。逆ではない。恐怖があるから武器を執るのではないのだとブッダは説かれている。
そこまで詳しく丁寧に心の機微を観察する必要がある

という解説にも一理あるような気がするのでありますが、いかがでありましょう。
(´・(ェ)・`)つ
0257名無しを整える。2017/12/22(金) 19:22:52.79ID:Ngt62Umq
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、15、武器を執ること

945 わたくしは、(牽引する者のことを)貪欲、ものすごい激流と呼び、吸い込む欲求と呼び、はからい、捕捉と呼びね超えがたい欲望の汚泥であるともいう。

946 バラモンである聖者は、真実から離れることなく、陸地(安らぎ)に立っている。かれは一切を捨て去って、「安らぎになった人」と呼ばれる。

947 かれは智者であり、ヴェーダの達人である。かれは理法を知りおわって、依りかかることがない。かれは世間において正しくふるまい、世の中で何びとをも羨むことがない。

948 世間における諸々の欲望を超え、また克服しがたい執著を超えた人は、流されず、束縛さけず、悲しむことなく、思いこがれることもない。

949 過去にあったもの(煩悩)を涸渇せしめよ。未来には汝に何ものも有らぬようにせよ。中間においても汝が何ものをも執しないならば、汝は「安らかな人」としてふるまうことであろう。

(´・(ェ)・`)つ
0258名無しを整える。2017/12/22(金) 19:36:38.90ID:Ngt62Umq
>>257
○毎田周一先生訳
945.
私は欲望のことを『大きな流れ』といい 
吸い込むものとも 
飢餓ともいいまた土台とも はからいとも
越え難い煩いの泥濘(ぬかるみ)ともいう

945は、944の四行目、「牽引する者(妄執)にとらわれてはならぬ」(中村先生訳)に対して、「何故とらわれてはならぬか?」と問われた場合の解答に相当するもの。それは欲望というものがどのようなものか説くことになる。
欲望とは大きな激流、洪水なようなものである。奔流とも表現されている。これは急流、速く流れるもの(根元的な欲望、本能的欲望)を意味している。
また熱望とも説かれた。捕えるもの=捕捉とは、それに捉えられると逃げられないもの。
「はからい」とは、欲望は妄想であるということです。そして最後に欲望は「越え難い泥沼」のようなものだと述べられている。
欲望というものは根元的な欲望、本能的欲望であるならば、個人的な心の作用というばかりではなく、人間及び生き物全体にあるもの。だから、個人的に簡単に越えられるものではなさそう。
しかし、欲望は「はからい」=妄想であるならば、欲望を乗り越えることが出来るかもしれない。また、「越えられない泥沼」ではなく、「越え難い泥沼」だから、超えることはできる。
実際に不可能と思えるこのことをブッダはやり遂げた。その時、ブッダは人間及び生き物を超えた存在になった。

○毎田周一先生訳
946.
静かな人は真実を一歩も離れず 
道に達した人はじめじめしない高い処に立っている
彼等はこの世の一切を抛(なげう)っているが 
こういう人を平安な人というのである

「真実から離れることなく」とは、法から離れることなくということ。具体的には944に述べられた心でいること。
すなわち、古いものを喜ぶことなく、新しいものに魅惑されることなく、滅びゆくものに対して悲しまない。また欲望の奴隷にならないということ。
「陸地(安らぎ)に立っている」とは、945で述べられた「越え難い欲望の汚泥(=泥沼)」ではなく、そこから離れて「陸地」にいるということ。
そして彼は一切を捨て去っている。そのような人を、ブッダは「平安な人」=「安らかになった人」=「寂静者」と呼ぶ。

○毎田周一先生訳
947.
こういう人が悟った人であり 最高の智慧に到った人である 
彼は物事の道理を知って捉われず
世間にあっては正しい道をゆき 
そしてこの世の誰をも羨まない

一行目は、「かれは智者であり、ヴェーダの達人である。」(中村先生訳)の「智者」とは、自己以外の学問などを学んで智者になったのではない。彼は自分自身の内面を学んで成った。毎田先生はそのような人を「悟った人」と表現している。
また「ヴェーダの達人」とはヴェーダ聖典を学びつくした人という意味ではなく、自分自身を学んで「最高の智慧に到った人」という意味。
二行目「かれは理法を知りおわって、依りかかることがない。」(中村先生訳)とは、彼はそのようにして、理法=物事の道理=法(真理)を知り終わったが、それに依存しない、捉われない。
三行目、物事の道理を知る人は、失敗することがなく、正しく振舞える。だから、覚るべきだと言える。
四行目、最高の智慧に達した人は羨むということがない。これは、自分が最高の境地にいるから、羨むべき対象がいないので、羨まないということではない。羨むという心の作用がない。
(´・(ェ)・`)つ
0259名無しを整える。2017/12/22(金) 19:46:26.82ID:Ngt62Umq
>>257
○毎田周一先生訳
948.
この世の色々の欲望と 
渡るに難い執著とをこえた人は
流れを絶ち切って 何も束縛されず 
悲しみも 心配もない

「欲望を乗り越える」或は「執著を乗り越える」と心解脱或は慧解脱が起きる。このことについてスッタニパータ第3大きな章 12、「二つの観察経」に述べられている。
心の解脱(心解脱)と智慧の解脱(慧解脱)。貪欲を完全に克服することが心の解脱。無明を完全に克服することが智慧の解脱。
ブッダは覚りを四段階に分けて説かれている。預流果、一来果、不還果、阿羅漢果。預流果の覚りに至ってもまだ貪欲は残る。一来果になるとそれがかなり薄まるが、まだ残っている。不還果に至って初めてすべての貪欲が克服される。
そのため輪廻を止めることになる。しかし、まだ慢、掉挙(じょうこ)、無明等の煩悩が残っている。これらすべての煩悩を克服した方が阿羅漢。阿羅漢には智慧の解脱によって成る。

○毎田周一先生訳
949.
あなたが若し過去のことは涸らし尽くし 
未来にはあなたにとって何もないようにし
そして現在のことを掴まないなら 
あなたは静かな生活をすることになるだろう

一行目「過去にあったもの(煩悩)を涸渇せしめよ。」(中村先生訳)、この訳では「過去にあったもの」を「煩悩」としているが、
これは正確に言うと過去にあったものを縁にして起こる現在の煩悩。過去の煩悩はどうでもよい。現在の煩悩が問題になるから。

人間は過去のこと、過去の記憶を後悔や悲しみの材料とするばかりでなく、過去の業績を誇りにしたり、過去の想い出を楽しみにして親しい人々と語り合ったりしている。それを生きがいだとまで思っている。
だから、それを「涸渇せしめよ」ということは、一般人の常識に反する言葉であり、多くの人々は受け入れない、出来ないことなのだと理解した上で読んだ方がよい。
「涸渇せしめよ」の実際の行為は、「過去にあったもの」に価値を置かないということ。過去の事柄で感情を揺り動かされないということ。
二行目「未来には汝に何ものも有らぬようにせよ。」これは未来の事柄に対して、夢や希望を持ったり、或は不安や怖れや心配などをしないようにということ。
未来の事柄について、生まれた者は必ず死ぬという以外に、何一つとして確定していることはない。死は決まっていることだから、不安や恐れを持つ必要ない。
これに関しては現在悪行為をしなければよい。それ以外はできない。心配することは悪行為になる。
その他の事柄は起きるかどうか分からないこと。(予想できることは無限にあるから、ほとんど起きない事柄。)それに対して心配することは無意味、エネルギーの無駄。
三行目、四行目「中間においても汝が何ものをも執しないならば、汝は『安らかな人』としてふるまうことであろう。」の「中間」とは言うまでもなく「現在」を意味している。
過去・未来は観念の世界であり、現在のみが実在である、一番大切。すべての生命は現在のみに生きているから。執着しないことも、現在すべきこと。
過去、未来、現在において、何も執着しない人の心は動揺しない。心が動揺しなければ静か。そしてそのような人は「安らかな人」、解脱した人。
過去・現在・未来については、ダンマパダ348、421参照。
(´・(ェ)・`)つ
0260鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/22(金) 23:39:22.64ID:YM5vonPr
>>256 武器を持つと大抵むしろ使ってみたくなるものじゃ。
 よい刀を手に入れた武士が辻斬りをしたくなるとかのう。
 闘争心が沸くのが普通なのじゃ。
 
0261名無しを整える。2017/12/23(土) 06:27:32.36ID:MkdD6fzw
>>260
たしかに、本身を持つと気分が高揚したりするのが普通でありますね。
翻訳の間違いと言うよりも、ブッタの話を聞いた人の考えすぎによる誤解かも知れぬでありますね。
(´・(ェ)・`)つ
0262名無しを整える。2017/12/23(土) 06:34:04.96ID:MkdD6fzw
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、15、武器を執ること

950 名称と形態について、<わがものという思い>の全く存在しない人、また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、──かれは実に世の中にあっても老いることがない。

951 「これはわがものである」また「これは他人のものである」というような思いが何も存在しない人、──かれは(このような)<わがものという観念>が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。

952 苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩まされることなく、万物に対して平等である。──動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう。

953 動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。かれはあくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。

954 聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは安らいに帰し、取ることもなく、捨てることもない。

 ──と師は説かれた。

(´・(ェ)・`)つ
0263名無しを整える。2017/12/23(土) 06:43:28.65ID:MkdD6fzw
>>262
○毎田周一先生訳
950.
名と形あるものを 
すべてわがものとするのを止め
何かがないといって 悲しむことのない人
――こういう人は世にあって 老いることなき人である

「名称と形態」とは何を意味しているのか?
名称はパーリ語ナーマの訳で精神的なもの、人間においては心を意味する。また形態はパーリ語ルーパの訳で物質的なもの、人間においては肉体を意味する。ナーマ・ルーパと合わせて個人の意味で使われる。
或は正田先生の訳にあるように、名前と形態を現象世界と理解される場合がある。
「名称と形態」を個人と取るか、現象世界と取るかでニュアンスが少し変わりる。個人と取れば、五蘊(色受想行識)のすべてに<わがものという思い>がないということになりり、無我が意識される。
一方、現象世界と取れば、自分の外に<わがものという思い>がないということになり、無所有が意識されます。

無我であれば、自分というものがないのだから、自分の物がないのは当たり前。それ故に悲しむことはない。

○毎田周一先生訳
951.
『これはわがものである』とか
『これはひとのもの』とかいうことなくなった人には
わがものという考えが少しもないので 
『私にはない』といって悲しむことがない

950と同様のテーマ。「自分のもの」とか「他人のもの」とかという意識がないということ。そのような人は自分の物がないことに悲しまないという結論になる。
「自分のもの」とか「他人のもの」とかという意識がないということは自分と他人という区別意識がないということ。
これは仏教の平等観と言えるもの。人間を表層で観察すれば自分と他人の区別はある。しかし、同じ生命だと見る人にとっては自分とか他人とかという区別意識はない。
区別意識は自我が作りだすもの。自我のなくなった人は、自分と他人という区別がなく、その意識から「自分のもの」とか「他人のもの」とかという意識もなくなる。
世の中にあるものは必要な人のものということになる。そこには自己中心的な欲望はない。
自分より必要な人がいれば、いわゆる「自分のもの」であっても、喜んで、自分より必要な人に分け与えるということになる。「自分のもの」というこだわりは一切ない。もちろん、「自分のもの」がないことに悲しむことはない。

(´・(ェ)・`)つ
0264名無しを整える。2017/12/23(土) 06:54:22.03ID:MkdD6fzw
>>262
○毎田周一先生訳
952.
その人は思い上りも貪りも持たず 
情欲を離れ 万物に対して平等である――
とこのように 不動の人のことを 
私はほめたたえていうのである

ブッダが「動じない人」はどのような人ですかと尋ねられたら、以下の四つを美点として褒め称えるというもの。
@‘Anihur :思い上りがない=苛酷なることなく=嫉視(しっし:憎しみの目でみること)なく
Aananugiddho:貪りを持たず=貪欲なることなく=貪求なく
Banejo:情欲を離れ=動揺して煩悩に悩まされることなく=動揺なく
Csabbadh samo:万物に対して平等である=万物に対して平等である=〔一切にたいし〕一切所に等しくあります
「不動の人=動じない人=〔心が〕動かない者」とは解脱した阿羅漢だが、以上の四つの徳を備えている。特に、「C万物に対して平等である」については、真理を体得した方には、自然の結果。

○毎田周一先生訳
953.
情欲を離れ 智慧の目の開けたひとには 
何かをしようとすることが全くない
彼は何かを得ようとつとめたりなどせず 
到る処に平安を見出している

始めの言葉Anejassaは、952anejoの変化形。意味は同じだから、三人の先生の訳はそこから始まる。「情欲を離れ=動揺して煩悩に悩まされることなく=〔心に〕動揺なく」。そのような人は世の中をありのままに認知している。
そうすると世界は何一つ問題ない。法に従って、法のままにある。何一つ心配したり、怖れたり、期待することもない。そうであるならば、そのように世界を見る人は、何かしようとすることがない。また特別努力しようとすることがない。
しかし、世界は問題だらけであり、何一つまともなものがなく、心配ばかりだと多くの人々は思っている。それは彼等の自我がそのように見ている。
すべで終わってしまった過去について、繰り返し悩み、後悔し、まだ起きてない未来について心配し、はかない希望を持つので問題だらけになる。
そして、重要な今の事柄をまともに見てないから、失敗ばかりしていると思っている。そこには上手く行かなかった経験があるだけ。そこから学べばよい。自我を克服している人にとっては、すべて法の通りであり、何処も平安である。

○毎田周一先生訳
954.
静かな人は 自分を等しいものの仲間であるとも 劣ったもの 
あるいは勝れたものの仲間であるともいわない
そうして安らかに 利己心を離れて 
取ることもなければ また捨てることもない

「武器を執ること経」全体のまとめ、結論の偈。
ブッダは、聖者は人間の中で、同じ人々だとも、劣った人々だとも、勝れた人々だとも比べられないと述べている。つまり聖者は人間を超えた存在だと述べておられる。
同じ、劣った、勝れている等と比較できるのは同じ種類の間でできること。そのことを、このように表現している。聖者は人間でないということを言いたいのである。普通の人間が持っている本能を持っていないから、人間でない。

人間は安らかでないし、利己心を離れていない。しかし、聖者は安らかであり、利己心を離れている。そして、自分のものにしようとすることはない。また、自分のものと言う意識がないから、捨てるということもない。

(´・(ェ)・`)つ
0265鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/23(土) 21:06:49.13ID:oF88ldR8
名称と形態でよいのじゃ。
全ての観念はそれに縁ってできているのじゃ。
それがなければ観念も無いのじゃ。
0266名無しを整える。2017/12/24(日) 09:13:09.96ID:nD+a8qVm
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、15、武器を執ること

950 名称と形態について、<わがものという思い>の全く存在しない人、また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、──かれは実に世の中にあっても老いることがない。

951 「これはわがものである」また「これは他人のものである」というような思いが何も存在しない人、──かれは(このような)<わがものという観念>が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。

952 苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩まされることなく、万物に対して平等である。──動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう。

953 動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。かれはあくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。

954 聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは安らいに帰し、取ることもなく、捨てることもない。

 ──と師は説かれた。

|\
∴∴∴
(´・(ェ)・`)つ
0267名無しを整える。2017/12/24(日) 09:21:48.38ID:nD+a8qVm
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、16、サーリプッタ

955 サーリプッタさんが言った、
──「わたくしは未だ見たこともなく、また誰からも聞いたこともない。──このようにことば美わしき師(ブッダ)、衆の主がトゥシタ天から来りたもうたことを。

956 眼ある人(ブッダ)は、神々及び世人が見るように、一切の暗黒を除去して、独りで(法)楽をうけられた。

957 こだわりなく、偽りなく、このような範たる人として来りたもうた師・目ざめた人(ブッダ)であるあなたのもとに、これらの束縛ある多くの者どものために問おうとして、ここに参りました。

958 修行者は世を厭うて、人のいない座所や樹下や墓地を愛し、山間の洞窟の中におり、

959 または種々の座所のうちにいるのであるが、そこにはどんなに恐ろしいことがあるのだろう。──修行者は音のしないところに坐臥していても、それらを恐れて震えてはならないのだが。

(´・(ェ)・`)つ
0268名無しを整える。2017/12/24(日) 09:37:22.82ID:nD+a8qVm
>>267
○毎田周一先生訳
955.
「私の今までに 見たことも
と尊者サーリプッタはいった
また誰からも聞いたこともないことであります――
かくも美しい言葉で話される師が遂に 
トゥシタ天からこの地上へ多くのものに教えようとしておいでになりました

この経はスッタニパータの第4章の最後、16番目の経。21偈から構成されている。始めの8偈はサーリプッタ尊者のブッダに対する讃辞と質問。その後の13偈はブッダの解答。
サーリプッタ尊者とは、仏弟子中智慧第一と言われる方で、モッガラーナー尊者と並んでブッダが最も信頼されていた弟子の一人。
この955で一番重要なところは、「私の今までに、見たことも、また誰から聞いたこともないことであります。」という言葉。この意味することは、ブッダが話される言葉は真理の言葉(智慧の言葉)であるということ。
真理を体得したブッダののみが語る言葉だから、ブッダの現れる以前には見たことも、聞いたこともない言葉なのである。それをまた美しい言葉とも表現している。
四行目「衆の主がトゥシタ天から来りたもうたことを。」の意味は、中村元先生の訳書「ブッダの言葉」に次のように注釈してある。「トゥシタ天――Tusita. 兜率天、都史多天などと表記する。天上にあるすばらしい楽しいところ。
後代の仏教宇宙論によると、欲界のうちにあるが、ヤーマ天(夜摩天)と楽変化天との中間にあるとされた。
ここでは、ブッダはこの世に生まれる前にトゥシタ天に住し、そこから没して、カピラ城の近くのルンビニー園で生まれたという伝説をいう。」(以上引用)。尚、「衆の主」とはブッダのこと。

○毎田周一先生訳
956.
神々と世の人々とが
じっと見ているその前で 『眼ある方』は
一切の暗黒を除き去り 
ただ一人深い喜びを享受せられました

「神々を含む世界(人々)に見えるように」とは、「神々を含む世界に見えるように、人間達にも見えるように」という意味と、「ありのままに、誤りなく見えるように」という意味があると注釈書には書いてある。
「眼ある方=眼ある人」とはブッダのこと。
「一切の暗黒=一切の闇」とは、一切の無明、一切の煩悩のこと。
前人未踏の境地(涅槃)をブッダが初めて体得したので、「ただ一人¬=独りで=まさしく、一人」と表現されている。
「深い喜びを享受せられました=(法)楽をうけられた=〔真の〕喜びに到達しました」とは、ブッダは解脱して、涅槃の境地に達したことを示している。

(´・(ェ)・`)つ
0269名無しを整える。2017/12/24(日) 09:39:36.19ID:nD+a8qVm
>>267
○毎田周一先生訳
957.
自由な明るいお心のそのままに 
多くのものに教えようとしてお出で下さった
『目覚めた方』のもとへ私がまいりましたのは
ここにいる多くの未だ束縛を離れ切れないでいるもののために
お尋ねしようと思ってであります。

一行目「依存なき方に、如なる方に、虚言なき方に」(正田先生訳)を、毎田先生は意訳して「自由な明るいお心のそのままに」と訳されている。
二行目「〔兜率天から〕やってきた〔世の〕衆師たる方に」(正田先生訳)は、毎田先生は「多くのものに教えようとしてお出で下さった」と訳されている。「お出で下さった」とは、正田先生の説明にあるように「兜率天から」お出で下さった。
三行目、「これらの束縛ある多くの者どものために」(中村先生訳)の「束縛ある者」とは、弟子は師のもとで生き方が束縛されているから、弟子を意味している。
また、「多くの者ども」とは王族を意味していると注釈書に書かれている。これらの人々はサーリプッタ尊者の弟子達を意味している。このように理解しても良いが、まだ覚ってない弟子達と理解してもよい。毎田先生の訳はそのように取っている。
四行目「問おうとして、ここに参りました。」(中村先生訳)の解釈は注釈書に三通りに書いてある。
「質問をしたくて私はやってきたのです。」或は「質問をしたい人が来ました。」もう一つは「質問を求める者が来たのです。」と。始めの訳でよい。

○毎田周一先生訳
958.
世を厭うて修行する者が 
人里離れた坐る場所や
木の根もとや墓場や 
山々の洞窟や

959.
高いまたは低い臥せる場所に 親しみ住んでいる時 
そこにはどんなに多くの怖ろしいことがあるでしょう
しかし修行する者は その物音のしない処に坐り又臥しながら 
それに怖れおののいていてはならぬと思います

958と959は一つながりの偈。
サーリプッタ尊者は、多くの弟子を連れて、目覚めた方ブッタのもとに訪れた。その理由はまだ覚ってない弟子達のために、質問するためだった。
その質問の始めるにあたり、サーリプッタ尊者は弟子達の決意をこの偈で述べた。
弟子達は、世俗の生活を厭って、即ち嫌って、修行を行う。何故ならば、世俗の生活が苦しみの原因だと考えたから。
そのため、彼らは、村里から離れた寂しい場所、森の中の人のいない場所、木の下や墓地、山奥の洞窟の中などの瞑想などの修行をする。
しかし、そのような場所にはいろいろな危険な生き物がいる。修行者の中にはそれらに対して恐れを抱くものいる。しかし、サーリプッタ尊者は、ブッダの教えを乞う者はそれらに対して怖れてはならぬと表明した。

(´・(ェ)・`)つ
>>266は重複してしまったであります。
0270鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/24(日) 22:53:07.69ID:qe+ARNNv
何度もよむとよいのじゃ。
それも修業になるのじゃ。
0271名無しを整える。2017/12/25(月) 19:14:30.32ID:DQSkBJuv
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、16、サーリプッタ

960 未到の地におもむく人にとっては、この世にどれだけの危難があることだろう。──修行者は辺鄙なところに坐臥していても、それらの危難にうち克たなければならないのだが。

961 熱心につとめる修行者には、いかなることばを発すべきか? ここでかれのふるまう範囲はいかにあるべきか? かれのまもる戒律や誓いはどのようなものなのですか?

962 心を安定させ気を落ち着けている賢者は、どのような学脩を身に受けて、自分の汚れを吹き去るのですか? ──譬えば鍛冶工が銀の垢を吹き去るように。」

963 師(ブッダ)は答えた、
「サーリプッタよ。世を厭い、人なき所に坐臥し、さとりを欲する人が楽しむ境地および法にしたがって実践する次第を、わたくしの知り究めたところによって、そなたに説き示そう。

964 しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は、五種の恐怖におじけてはならない。すなわち襲いかかる虻と蚊と爬虫類と四足獣と人間(盗賊など)に触れることである。

(´・(ェ)・`)つ
0272名無しを整える。2017/12/25(月) 19:22:07.36ID:DQSkBJuv
>>271
1○毎田周一先生訳
960.
不死の世界へゆこうとするものにとって 
この世にどれ程の危難があるでしょうか
修行者は 人里離れたところに坐り又臥しながら 
それに打克たねばならぬでありますが

サーリプッタ尊者の最初の質問は、一行目、二行目。「不死の世界へゆこうとするものにとって 
この世にどれ程の危難があるでしょうか」(毎田先生訳)。ここで「不死の世界」と訳されているところは、中村先生は「未到の地」、正田先生は「〔いまだ〕赴かざる方角(涅槃)」と訳された。正田先生がカッコの中で説明されたように「涅槃」。
しかし、涅槃という言葉は知られているが、その内容は理解できない。そのため、不死の世界とか、未到の地とか、いまだ赴かざる方角と訳される。さらにそこに向う道程には予想が出来ない。
そのため、「涅槃に向おうとする修行者にとって、どのような危険と困難がありますか」と涅槃に到達されたブッダに質問された。
三行目、四行目では、サーリプッタ尊者は、そのような危難は乗り越えなければならないものと覚悟をしていると述べた。

○毎田周一先生訳
961.
もののいい方はどのように心すべきでありましょうか 
又ここでどれ丈のことをなすべきでありましょうか
固い決心をしている修行者の守らねばならぬことは 
どいうことでしょうか

サーリプッタ尊者の次の質問は、涅槃に向うことを決意した修行者の行動について。
人間の行動は身口意に分類できる。身とは身体による行動。口とは言葉による行動。意とは心による行動。
すべての行動は始めに心による行動があり、それに続いて言葉或は身体の行動が始まる。だから、心の行動、すなわち心の動きに注意することが一番大切。
しかし、心の行動、心の動きには姿形がないから、また心の動きスピードが速いため、気づくことが難しい。
そこで、自分の行為を律しようとする修行者は、まず言葉の行為あるいは身体に行為に注意を向けて、行動を制する。
それから心の動きに気づけるようになる。心の動きを制御するためには、戒めや誓願が必要。
そのため、この偈では修行者の言葉について、次に身体の行為のあり方について、そして心を制御するために必要な戒や誓いについて質問している。

○毎田周一先生訳
962.
心を集中して目覚めている賢い人は 
どいう智慧を体得して
あたかも鍛冶屋が銀の垢を吹き去るように
自分の汚れを除くのでありましょうか」
(○正田大観先生訳969.(962)
彼は、どのような学びを受持して、
〔心が〕専一なる者となり、賢明なる者となり、気づきある者となり、
鍛冶屋が銀の〔垢を取り除く〕ように、
自己の垢を取り払うのですか」〔と〕。(8))

今回はサーリプッタ尊者が弟子のために尋ねた最後の質問。仏教徒の最終目標である解脱を達成して涅槃に到るにはどのようにすれば良いかという問い。
原文の直訳に近い正田先生の訳に沿って説明。「彼は」とは修行者。「どんな学びを受持して」とは、どんな修行をしてということ。
「専一な者」とは、心を集中して、心を安定させた者。すなわち禅定のある者。「賢明な者」とは智慧のある者。「気づきある者」は、自分の身口意に気づいている者。
これらの三つの資質を持つ者が、自分の垢、即ち煩悩を取り除くことが出来ると述べていることになる。そして、すべて汚れ、煩悩を取り除けば解脱するということになる。
毎田先生は、「どんな智慧を体得して、自分の汚れを除くのでありましょうか」の訳から、これらの三つの資質をまとめて、どのような智慧を体得することが必要かということになる。

(´・(ェ)・`)つ
0273名無しを整える。2017/12/25(月) 19:24:33.11ID:DQSkBJuv
>>271
○毎田周一先生訳
963.
「世を厭いて 人里離れた坐る場所や臥せる場所にいて 最高の智慧を求めるものが
サーリプッタよ と世尊は言われた
どのようなことを楽しみ
また 如何に真理のままに生活してゆくかを
私の知り得たままに あなたに話してあげよう

ブッダはその解答を、次のような者に説くことを語る。
@世を厭う者=〔世俗の生活を〕忌避している者
A人のいない坐臥所に親しむ者=人里離れた坐る場所や臥せる場所にいる者=〔無用となり〕遠ざけられた坐所と臥所に慣れ親しんでいる者
B最高の智慧を求める者=さとりを欲する人=正覚を欲する者
次に何を説くかを語る。
@どのようなことを楽しみ=さとりを欲する人が楽しむ境地=平穏〔の境地〕
A如何に真理のままに生活してゆくか=法にしたがって実践する次第=(正田先生訳ではこの項は、どのように説くかの項に入れてある。)
更に、ブッダはどのように説くか語る。
「私の知り得たままに あなたに話してあげよう。」=「わたくしの知り究めたところによって、そなたに説き示そう。」=「法(真理)のままなるとおりに、それを、あなたに言示しましょう
――〔わたしが〕覚知している、そのとおりに。」

○毎田周一先生訳
964.
いつも目醒めて 心をひきしめている修行者は
五つの恐れを しかも恐れてはならない――
即ち 虻(あぶ) 蚊と 爬虫類と
人間への接触と 四足獣とである

修行者は五つの恐怖を恐れてならないというもの。五つの恐怖とは、@虻アブとA蚊(蚋ブヨとも訳されている。)とB爬虫類(蛇など)とC人間との接触とD四足獣です。

「C人間との接触」の人間は盗賊などを指していると思われるが、修行者は盗賊でなくてもすべての人間との接触を恐れてはならない。一切の生命に慈悲の心を育てようとする修行者はどんな人間も恐れてはならない。
(´・(ェ)・`)つ
0274鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/25(月) 21:32:19.17ID:BDp2L8Fz
インドは熱帯であるから虫や爬虫類も多かったのじゃ。
それらをも恐れず修業すべきなのじゃ。
0275名無しを整える。2017/12/25(月) 22:02:21.08ID:DQSkBJuv
>>274
なかなかの苦行のように思えるであります。
(´・(ェ)・`)つ
0276名無しを整える。2017/12/26(火) 18:41:31.13ID:jHrloFhd
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、16、サーリプッタ

964 しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は、五種の恐怖におじけてはならない。すなわち襲いかかる虻と蚊と爬虫類と四足獣と人間(盗賊など)に触れることである。

965 異った他の教えを奉ずる輩を恐れてはならない。──たといかれらが多くの恐ろしい危害を加えるのを見ても。──また善を追求して、他の諸々の危難にうち勝て。

966 病いにかかり、餓えに襲われても、また寒冷や酷暑をも耐え忍ぶべきである。かの<家なま人>は、たといそれらに襲われることがいろいろ多くても、勇気をたもって、堅固に努力をなすべきである。

967 盗みを行なってはならぬ。虚言を語ってはならぬ。弱いものでも強いものでも(あらゆる生きものに)慈しみを以て接せよ。心の乱れを感ずるときには、「悪魔の仲間」であると思って、これを除き去れ。

968 怒りと高慢とに支配されるな。それらの根を掘りつくしておれ。また快いものも不快なものも、両者にしっかりと、うち克つべきである。

969 智慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それらの危難にうち勝て。奥まった土地に伏す不快に堪えよ。次の四つの憂うべきことに堪えよ。

(´・(ェ)・`)つ
0277名無しを整える。2017/12/26(火) 18:44:57.92ID:jHrloFhd
>>276
○毎田周一先生訳
965.
異教を奉ずるものも恐れてはならぬ
たとえ彼等に幾多の恐るべきもののあるのを見ても――
そして又善いことを求めて止まぬものは
その他の危難にも打克ってゆかねばならない

964で虻と蚊と蛇と人間との接触と猛獣の五つの恐怖を恐れてはいけないと説かれた。怖れるということは、それらを嫌うということで、それらに悪意をもつこと。
そもそも善を求め、心の汚れを除こうとする修行者の心に悪意があってよいのか。悪意は取り除かなければならない。すべての生命に慈しみの心を持たなければいけない。
965では、五つの恐怖の外にも、異教徒に対しても恐れてはならないと説かれている。
ブッダの時代のインドでも新興の仏教に対して、多くの異教徒から迫害や嫌がらせもあった。その後も、イスラム教による仏教寺院と経典の焼き討ちや仏教徒の迫害などがあった。現代でも異教徒のそのような行為は続いている。
しかし、それらを恐れてならない。そればかりではなく、慈しみの心で接することを考えなければならない。
この偈では、更にその他の諸々の危難を征服するようにと説かれている。

○毎田周一先生訳
966.
病気に罹(かか)り飢えに襲(おそ)われても
又寒さやひどい暑さにあっても それを堪え忍ばねばならない
――ことに家を離れて修行するものにそういうことが多いのではあるが
自らを励まし 勇気をもって しっかりと自分の道を行かなければならない

965の四行目に「その他の危難にも打克ってゆかねばならない」と説かれていた。その他の危難とは、具体的には今回に述べられている「病気と飢えと寒さと暑さ」。
病気になると、身体の何処かが痛くなる、或は苦しくなる、身体の自由が効かなくなる、またそれらのことから、死ぬのではないかという恐怖が現れる。
そのため、身体の支配者であるべき心は身体の奴隷になり、いつも身体の心配をして、考えることは病気のことばかりで、自分にとって一番大切なことは、病気が治ることになる。
善を求め、心の汚れを取ることがおろそかになってしまう。その意味で修行者にとって病気は大きな危難。
「飢えは最大の病である。」(ダンマパダ203)と言われるから、病気が修行者の大きな危難であれば、「飢え」は修行を妨げる最大の危難。
飢えた人には、修行などはどうでもよいものになってしまう。瞑想していても食べ物に関する妄想が頭に去来する。しかし、固い決心をした修行者はこれらを克服する。
病気や飢えの危難がなければ、寒さと暑さは修行者にとって大きな危難になる。
ブッダの活動されていたインド東北部の乾季は非常に寒く、夏の暑さは非常に厳しいもの。現代の日本の状態からは考えられないもの。だから、寒さ暑さというものも大きな危難。
しかし、怠け者の修行者にとっては、寒さ暑さは怠けの言い訳になるから、寒さ暑さも危難と言えるのです。修行中、寒い暑いという心が現れたら、心に怠けが現れたと注意しなければならないということ。
修行に集中していれば、寒さ暑さはあまり気にならないもの。修行者は怠け心に負けてはならない。
(´・(ェ)・`)つ
0278名無しを整える。2017/12/26(火) 18:46:20.68ID:jHrloFhd
>>276
○毎田周一先生訳
967.
盗むことなく 嘘をつかず
弱いものにも強いものにも ひとしく慈愛を持って接するがよい
心の乱れに気付いたら
『暗黒の部分』が働くのだと それを取払うがよい

966で「寒さ暑さを耐え忍ぶべきだ」と述べたが、苦行を強いるものではない。仏教は苦行を奨励しない。なるべく、寒くもなく暑くもない処で修行できればそれが望ましい。しかし、少しの寒さや少しの暑さで弱音を吐くなと言うこと。
961でサーリプッタ尊者はブッダに以下のように質問しました。
熱心につとめる修行者には、
いかなることばを発すべきか? 
ここでかれのふるまう範囲はいかにあるべきか? 
かれのまもる戒律や誓いはどのようなものなのですか?(中村先生訳)
この質問に対するブッダの解答が967。
1.「いかなることばを発すべきか?」に対して、「虚言を語ってはならぬ。」
これは「偽りを語らない」ということ。
2.「ここでかれのふるまう範囲はいかにあるべきか?」に対しては、「盗みを行なってはならぬ。」及び「弱いものでも強いものでも(あらゆる生きものに)慈しみを以て接せよ。」
前者は「与えられていないものを取らない」ということであり、後者は「生き物を殺さない」ということ。
3.「かれのまもる戒律や誓いはどのようなものなのですか?」に対して「心の乱れを感ずるときには、「悪魔の仲間」であると思って、これを除き去れ。」である。
これは「淫らな行為をしないこと。」及び「放逸の原因となり人を酔わせる酒・麻薬類を使用しない」ということ。
このように考察すると今回の偈は五戒の初期的な表現であると見ることが出来る。

○毎田周一先生訳
968.
怒りと思い上りとの力に屈せず
それらの根を掘りつくして 立たねばならない
そして又好き嫌いをいうことを
すっきりとあなたは克服せねばならぬ

煩悩は三つに分類できる。欲と怒りと愚かさ。最終的にはこの三つをなくすことが目標。
このうち欲は、なくすべきものですが、自分にとって必要なものと思っているから、なくそうという思いがなかなか現れない。
愚かさは欲よりも自分では気づけない。愚かさが現れている時は本当に愚かで、気づくということからかけ離れているからである。
この三つの中では怒りは、気づきやすいもの。しかも、怒りがある時は気分が悪い。本人も怒りたくないと思っている筈。
そこで968では怒り、特に激しい怒り、憤激をとりあげている。
憤激は非常に危険。憤激の結果に現れることは、すべて周りの人々も自分自身も不幸にしてしまう。あとで必ず、憤激さえしなければよかったということになる。
憤激というのは、高慢、過度な慢心から現れることが多い。謙虚な人はあまり怒ることはない。特に憤激などはしない。思い上り、高慢の態度を改めることにより、怒りを少なくすることが出来る。
そして、怒りと高慢の根を掘り尽くして、怒りと高慢を根絶するように説かれている。
968の後半は、好き嫌いをなくすように説かれている。ここでは怒りと関連して考えてみる。
怒りはとくに嫌いなものに対して現れる。好き嫌いの感情が少ない人は怒りはあまり現れない。怒りをなくすためには好き嫌いをなくすことも重要。好き嫌いをなくすことは欲の感情を少なくすることにもなる。
好き嫌いの感情は妄想が作り出すものなので、妄想をなくせば、好き嫌いの感情が少なくなる。この逆も言えることで、好き嫌いの感情を少なくすれば、妄想を少なくすることにもなる。

○毎田周一先生訳
969.
智慧を尊び 善行を楽しみ
以上に述べた危難に打克ち
人里離れた臥せる場所の不快に堪えて
次にいう四つの悲しみをこえねばならない

二行目の「以上述べた危難」とは、964の「虻、蚊、蛇、猛獣、人間」、965の「異教徒」、966の「病気、飢え、寒さ、暑さ」など。これらの堪え忍べと説かれていた。
しかし、968の一行目、二行目の「智慧を尊び 善行を楽しみ、以上に述べた危難に打克ち」とは、ただ堪え忍び、危難に打克てということではなく、智慧を発揮して、それを智慧を実践することで、危難に打克てと説かれている。
覚悟の決まった修行者は危難の時、智慧が現れる。そのことを特にここで述べられている。
(´・(ェ)・`)つ
0279鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/26(火) 22:27:03.71ID:D6E7KmPn
>>275 そのようじゃ。
 オショーもたくさんの蚊には困っていたのじゃ。
 今安楽に修業できるものは幸運なのじゃ。
0280名無しを整える。2017/12/27(水) 18:21:30.01ID:8VkZXmQ0
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、16、サーリプッタ

970 すなわち『わたしは何を食べようか』『わたしはどこで食べようか』『(昨夜は)わたしは眠りづらかった』『今夜はわたしはどこで寝ようか』──家を捨て道を学ぶ人は、これら(四つの)憂いに導く思慮を抑制せよ。

971 適当な時に食物と衣服とを得て、ここで(少量に)満足するために、(衣食の)量を知れ。かれは衣食に関して恣ままならず、慎しんで村を歩み、罵られてもあらあらしいことばを発してはならない。

972 眼を下に向けて、うろつき廻ることなく、瞑想に専念して、大いにめざめておれ。心を平静にして、精神の安定をたもち、思いわずらいと欲のねがいと悔恨とを断ち切れ。

973 他人からことばで警告されたときには、心を落ちつけて感謝せよ。ともに修行する人々に対する荒んだ心を断て。善いことばを発せよ。その時にふさわしくないことばを発してはならない。人々をそしることを思ってはならぬ。

974 またさらに、世間には五つの塵垢がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触れられるものに対する貪欲を抑制せよ。

(´・(ェ)・`)つ
0281名無しを整える。2017/12/27(水) 18:35:12.97ID:8VkZXmQ0
>>280
1○毎田周一先生訳
970.
「私は何を食べようか」「私はどこでたべようか」
「私は昨夜よく眠れなかった」「私は今日どこで寝ようか」という――
この四つの悲しみをさそい出す考えを
家を捨てて道を修める人は払い去らねばならぬ

何と具体的なのか? 仏教の修行はすべて具体的なもの。真のやさしさも具体的なもの。慈しみは具体的な言葉や行動で表現されるもの。これらの言葉にブッダの慈しみが感じられる。
「家を捨てて道を修める人」は、嘆き悲しみ(悩み)なるような思い・考えを止めるように説かれた。
いろいろ考えるから悩みになる。大丈夫だと思っていれば、悩みはない。大丈夫だと思えないと言うかもしれない。いろいろ考えることは無数にできるが、実際に起こることはそのうちの一つか、それ以外の事柄。
だから心配することは起らないと考えてよい。考えるだけむだ。

万が一不幸なことが起きても、だからどうなのか、起きたことは起きたこと。不幸とも言えないのである。その出来事に対応すればよい。困難があれば、智慧を発揮するチャンス。だから大丈夫なのだ。

○毎田周一先生訳
971.
ほどよい時に食物と衣服とを得られたら
それに充分に満足し その量に足ることを知って
それに向かう心を引締め 慎み深く村を行き
辱められても荒々しく言葉を返してはならない

比丘は托鉢によって、生活の糧を得る。それを乞食(こつじき)と言う。労働はしない。労働とは生活の糧は得るために、体力を使って働くことだが、比丘はそれをしない。
何故ならばそれは世間の生き方だから。比丘は世間の生き方から離れるために、労働をしないで乞食をする。
乞食では、適宜必要な時に、必要は量の食べ物を得たらそれで満足をしなければいけない。必要な量とは、空腹の苦しみをなくし、満腹の苦しみにならない量。比丘はその量を知って、求め過ぎてはいけない。
乞食(こつじき)は「こじき」とも読む。「こじき」は世間では普通尊敬される行為ではない。それは働かないで生活の糧を得る方法だから。それを世間では怠け者と見なすから。
「こつじき」と「こじき」は外からみれば同じように見える。そのため、世間の人々から、侮辱的な言葉を投げかけられる時もある。しかし、比丘はそれに対して粗暴な言葉を返してはならない。
何故なら比丘は覚悟して、世間から離れる生き方をしているのだから。
比丘が世間から離れた生き方をするのは、世間の生き方は欲に基づく生き方だから。
欲から離れた生き方は解脱するため。解脱は一切の苦しみから離れた平安な涅槃に到るため。

○毎田周一先生訳
972.
眼を下にじっと向けて うろうろと歩き廻らず
深い思いの中にあって 何事にもよく気付き
心の靜けさを保って 喜びも悲しみも届かぬ処へゆきつかねばならない
そして疑いの起る余地をなくして 後悔の念をたちきらねばならない

「眼を下に向けて」は、生物を傷つけないように下を向いて歩くという解釈もあるが、この偈の全体の流れからは、自分の内面に意識を向けるということだと思われる。
「うろうろと歩き廻る」は何かを求めて探し求めるというイメージ。ここでは「うろうろと歩き廻らず」だから、探し回らない。求めるものがない。欲がない。満足しているということになる。
「瞑想(禅定)に専念して」は、注釈書によると、「未だ生じてない禅定を生じさせ、また既に生じた禅定に習熟すること」となっている。
禅定のレベルは、八正道の正定で、ブッダは第四禅定までを定義しておられる。ブッダは第四禅定までを推薦していると考えられる。
三行目「平静をもって自己を統一し」(パーリ語原文からの訳)とは、第四禅定を体験して、自己を統一すること。
第四禅定とは、五禅支という禅定の時の五つの心の要素(尋、伺、喜、楽、一境性)のうちの、尋、伺、喜、楽がなく、一境性(集中力)と捨(平静で平等な心)のみがある禅定を言う。
そして、四行目「思いわずらいと欲のねがいと悔恨とを断ち切れ。」と結んである。深い禅定状態にある心には、「思いわずらいと欲のねがいと悔恨」はない。「思いわずらいと欲のねがいと悔恨」があると禅定には入れない。
(´・(ェ)・`)つ
0282名無しを整える。2017/12/27(水) 18:40:38.52ID:8VkZXmQ0
>>280
○毎田周一先生訳
973
人から非難されたら その言葉を深く考えて(よくこそいってくれたと)喜びを感ぜねばならぬ
共に道に勤(いそ)しむ者に対しては 心を明るく開いて接し
その時にふさわしいよい言葉を用い
無駄話に過ぎないことは思うことすらないようにするがよい

972は瞑想修行について説かれたものだが、973は日常生活における修行について説かれたもの。
一行目「人から非難されたら その言葉を深く考えて(よくこそいってくれたと)喜びを感ぜねばならぬ」(毎田先生訳)。これはなかなか出来ないこと。
他人から非難されれば、それを受け入れて、反省するのではなく、非難に反発する心が現れる場合が多いが、自分の欠点を指摘してくれる宝のような言葉と受け入れられるならば、自分の欠点を自覚でき、それを自分を修正できる。
だから非難する人に対しては、自分の先生のように思い、感謝すべき。
ダンマパダ76参照。
二行目。「ともに修行する人々に対する荒んだ心を断て。善いことばを発せよ」(中村先生訳)。「ともに修行する人々」とは修行仲間。
これを少し広く解釈して、日常生活で関わりのある人々と理解。
それらの人々の中には、自分の苦手な人、嫌いな人もいる。それらの人々は自分を非難しなくとも、側にいるだけで嫌。彼等も自分の先生。彼等は自分の側にいるだけで、先生になってくれるので有り難い存在。
私が嫌っているのは彼等の自我だし、嫌っている私は私の自我。自我と自我の対立。妄想のかたまりである自我の対立に惑わされてはいけないということも分かってくる。
そして、何とか頑張って、「善いことばを発す」努力を続ければ、少しずつ心が変わってくる。彼等も私に優しい言葉をかけてくる。このようにして、自分の心が変わるのが分かる。

○毎田周一先生訳
974.
又更に世の中には五つの汚れがある
深くものを考える人は それを除くことを学べねばならない――
即ち形と声とそして又味と
香りと触れることとであって それらのものに向う貪りを捨てねばならない

ブッダはサーリプッタ尊者の質問に答えて、初めに「五つの恐れがあって、それらに恐れてはならぬ。」と答えられた。それらは虻と蚊と蛇と人間との接触と猛獣でした。その他、異教徒や病気や飢えの危難についても説かれた。
そして、今回は、「又更に世の中には五つの汚れがある」と述べられる。それらは、形と声と香り味と触れること。形とは眼の対象。声とは耳の対象。香りとは鼻の対象。味とは舌の対象。触れることとは身体(皮膚)の対象。
何故これらが汚れなのか?ここで汚れとは心の汚れを意味しているが、心の汚れは欲と怒りと愚かさ(無智)。
形が眼に作用すると、心は「快」か「不快」か「快でも不快でもない」のいずれかを感じる。快を感じる時はその快を失いたくない、もっと欲しいという欲が現れる。
不快を感じる時はその感覚を嫌がる怒りの感情が現れる。
また快でも不快でもない時は無関心の状態になり、愚かさ(無智)という汚れの状態になる。
という訳で、形は心の汚れになる。同様に声、香り、味、触れることは心の汚れになる。心の汚れに執着すること貪欲と言う。貪欲は打ち負かさなければならない。
(´・(ェ)・`)つ
0283鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/27(水) 21:48:44.42ID:TG5jQM7S
それが制感の行なのじゃ。
五つの感覚を制して無我に入るのじゃ。
0284名無しを整える。2017/12/27(水) 22:19:30.88ID:8VkZXmQ0
>>283
鬼和尚、こんばんは。
>974 よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。
とは、五感から、執着に連結しないようにしろということでありましょうが、これは、ありのままの観察だけでは達せられることでは無さそうであります。
又、
>貪欲を抑制せよ。
とも言ってますので、
感覚を抑制する、我慢するといった訓練になるのでありましょうかね?
(´・(ェ)・`)つ
0285名無しを整える。2017/12/28(木) 08:16:46.53ID:EgOJJkC/
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、16、サーリプッタ

975 修行僧は、よく気をつけて、心もすっかり解脱して、これらのものに対する欲望を抑制せよ。かれは適当な時に理法を正しく考察し、心を統一して、暗黒を滅ぼせ。」
 ──と師(ブッダ)はいわれた。

<八つの詩句の章>第四おわる

まとめの句
 欲望と、洞窟と、悪意と清浄と、最上と、老いと、メッテイヤとバスーラと、マーガンディヤと、死ぬよりも前にと、争闘と、二つの<並ぶ応答>と、迅速と、武器を執ることと、サーリプッタの質問とで、十六になる。
 これらの経はすべて<八つの詩句の章>である。

○毎田周一先生訳
975.
思いも深く よく心の自由を得た修行者は
これらの五つのものに対する強い欲求を離れ
時を外さず 物事を正しく考え抜き
心を集中して暗黒を払い去ってゆくに違いない
  ――と世尊は言われた――

毎田先生訳「これらの五つのもの」とは、974で述べられた「五つの汚れ」のこと。
すなわち、形と声と香りと味と触れること。これらのものが貪瞋痴を作り出すから、これらに対する欲求から離れる。解脱して、これらの欲求から離れると書いてあるが、これらの欲求から離れると解脱する。同一の事柄。
またこのことは、諸々の煩悩から離れることだから、覚ることでもある。この偈に書かれている暗黒とは無明のこと。無明を破ることは覚ること。無明を破るためには、無明を破る智慧が必要。
四行目「心を集中して暗黒を払い去ってゆくに違いない=心を統一して、暗黒を滅ぼせ=〔心が〕専一と成った者、〔世の〕闇を打破するでしょう」は、心は禅定に入り、そして智慧が現る
智慧が現れないと、禅定に入れないということでもある。(ダンマパダ282、372参照)そして無明が破れるの。修行の完成。修行の完成を持って、「サーリプッタ経」が終わり、そして「第4 八つの詩句の章」も終わる。

(´・(ェ)・`)つ
止観の止による禅定ということは、抑制や我慢とはやっぱり違うのでありましょうか?
0286名無しを整える。2017/12/28(木) 18:48:25.71ID:EgOJJkC/
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、1、 序

976 明呪(ヴェーダ)に通じた一バラモン(バーヴァリ)は、無所有の境地を得ようと願って、コーサラ族の美しい都から、南国へとやってきた。

977 かれはアッサカとアラカと(両国の)中間の地域を流れるゴーダーヴァリー河の岸辺に住んでいた、──落穂を拾い木の実を食って。

978 その河岸の近くに一つの豊かな村があった。そこから得た収益によってかれは大きな祭りを催した。

979 かれは、大きな祭りをなし終って、自分の庵にもどった。かれがもどってきたときに、他の一人のバラモンがやってきた。

980 足を傷め、のどが渇き、歯がよごれ、頭は塵をあびて、かれは、(庵室の中の)かれ(バーヴァリ)に近づいて、五百金を乞うた。 
(´・(ェ)・`)つ
0287名無しを整える。2017/12/28(木) 19:04:30.03ID:EgOJJkC/
>>286
第5 彼岸に到る道の章 第1経 序偈 1.

976
スッタニパータの最後の「第5 彼岸に到る道の章」が始まる。ヴェーダ聖典の奥義に精通したバラモンの師バーヴァリが16人の彼の高弟を連れてブッダの所に訪れた。
この偈のバラモンがバーヴァリ師。
無所有の境地は所有物や生活資材から離れることと言われている。

977
この偈の「彼」とは、バラモンのバーヴァリ師。彼はヴェーダに通暁していた達人で、コーサラ国の輔相(国師、司祭)であとたが、高齢になったため、それを辞退して、出家して、無所有の境地を目指していた。
コーサラ王からは手厚い保護を受けていた。しかし、彼自身は落穂や木の実を生きる糧としていた。
落穂は収穫のあとに落ち散った稲などの穂だから、不要になったものであり、また木の実は樹木にとっては取られることが期待されたものだから、樹木を害するものではない。

978
ゴーダーヴァリー川の近くに大きな村があった。その村で耕作などによって百千金に及ぶ収益が生まれた。
資産家たちはアッサカ国の王の処に行って、「王様、収益を使って下さい。」と申し出た。しかし王は「私はそれを使わない。バラモンの処に持って行きなさい。」と言った。
バラモン(バーヴァリ)は、それを自分で使わないで、布施供養祭を営んだ。このようにして彼は毎年毎年、布施を行っていた。

979
ある他のバラモンがバーヴァリ・バラモンを庵に訪れたことが、「第5 彼岸に到る道の章」が始まる切っ掛けになる出来事。

980
バーヴァリ・バラモンの処にやって来たバラモンは、足を痛め、喉が渇き、歯は汚れ、頭はちりをあびていました。彼は遠くから歩いてやって来たのだろう。
彼は、バーヴァリ・バラモンに近づいて、五百金をくれるように要求した。彼はバーヴァリ・バラモンが王の保護を得て、大きな収入を得て、大きな祭りを営んでいることを聞きつけて、その金の一部を自分にくれるように要求したのだと思われる。
当時のインドでは、今もそうかもしれないが、持たない者が持っている者からもらうということ(インドの常識?)は当然という感覚がある。

(´・(ェ)・`)つ
0288鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/28(木) 21:47:12.11ID:uD2d+cfL
>>284 五感を観察する事でも制することができるのじゃ。
 それらを観察すれば自分の目とか見たこととか、自分が見るという自己同一化がなくなるからのう。
 実践あるのみなのじゃ。

 貪欲は三毒の一つなのじゃ。
 煩悩であり、修業の邪魔になるから滅すべきものなのじゃ。
 それだけを抑制しようとしても難しいじゃろう。
 原因から観察する事でそれもなくなるのじゃ。
0289名無しを整える。2017/12/29(金) 08:09:02.11ID:NclIDNo0
>>288
鬼和尚、おはようございます。
ふむふむ。
我慢とか抑制を持ち込むと、「自分の」感覚を我慢、抑制というように、自我を強化してしまうでありましょうかね。
ここにおいても、あくまでありのままの観察が肝心でありますね。
観察されるものは観察するものではないと言うことが腑に落ちてしまえば、一気に解決なのでありましょうが、なかなか落ちぬくまであります。
(´・(ェ)・`)つ
0290名無しを整える。2017/12/29(金) 17:44:39.05ID:NclIDNo0
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、1、 序

981 バーヴァリはかれを見て、座席を勧め、かれが快適であるかどうか、健康であるかどうか、をたずね、次のことばを述べた。

982 「わたくしがもっていた施物はすべて、わたしが施してしまいました。バラモンよ。どうかおゆるしください。わたくしには五百金がないのです。」

983 「わたくしが乞うているのに、あなたが施してくださらないならば、いまから七日の後に、あなたの頭は七つに裂けてしまえ。」

984 詐りをもうけた(そのバラモン)は、(呪詛の)作法をして、恐ろしいことを告げた。かれのその(呪詛の)ことばを聞いて、バーヴァリは苦しみ悩んだ。

985 それは憂いの矢に中てられて、食物もとらないで、うちしおれた。もはや、心がこのような気持では、心は瞑想を楽しまなかった。

986 バーヴァリが恐れおののき苦しみ悩んでいるのを見て、(庵室を護る)女神は、かれのためを思って、かれのもとに近づいて、次のように語った。

987 「かれは頭のことを知っていません。かれは財を欲しがっている詐欺者なのです。頭のことも、頭の落ちることも、かれは知っていないのです。」

988 「では、貴女は知っておられるのでしょう。お尋ねしますが、頭のことも、頭の落ちることをも、わたくしに話してください。われらは貴女のおことばを聞きたいのです。」

989 「わたしだってそれを知っていませんよ。それについての知識はわたしにはありません。頭のことも、頭の落ちることも、諸々の勝利者(ブッダ) が見そなわしておられます。」

990 「ではこの地上において頭のことと頭の裂け落ちることとを、誰が知っておられるのでですか? 女神さま。どうかわたしに話してください。」

991 「むかしカピラヴァットゥの都から出て行った世界の指導者(ブッダ)がおられまするかれは甘蔗王のの後裔であり、シャカ族の子で、世を照す。

992 バラモンよ。かれは実に目ざめた人(ブッダ)であり、あらゆるものの極致に達し、一切の神通と力とを得、あらゆるものを見通す眼をもっている。あらゆるものの消滅に達し、煩いをなくして解脱しておられます。

993 かの目ざめた人(ブッダ)、尊き師、眼ある人は、世に法を説きたもう。そなたは、かれのもとに赴いて、問いなさい。かれは、それを説明するでしょう。」

994 <目ざめた人>という語を聞いてバーヴァリは歓喜した。かれの憂いは薄らいだ。かれは大いに喜んだ。

995 かのバーヴァリはこころ喜び、歓喜し、感動して、熱心に、かの女神に問うた。
「世間の主は、どの村に、またどの町に、あるいはとせの地方にいらっしゃるのですか?
そこへ行って最上の人である正覚者をわれわれは礼拝しましょう。」

996 勝利者・智慧豊かな人・いとも聡明な人・荷をおろした人・汚れない人・頭のおちることを知っている人・牛王のような人であるかのシャカ族の子(ブッダ)は、コーラサ国の都であるサーヴァッティーにまします。」
(´・(ェ)・`)つ
0291名無しを整える。2017/12/29(金) 17:53:16.95ID:NclIDNo0
>>290

981 982

983 984
注釈書によると「(呪う)用意をしてから」とは、
牛糞・森の花・クサ草などを取って、大急ぎでバーヴァリ・バラモンの庵の戸口に行き、牛糞を地面になすりつけ、花をまき散らし、草を敷き拡げ、左足を長口のある水瓶の水で洗って、七歩ほど行って、自分の足裏をこすって、
このような欺瞞を行って」ということ。
このような何か意味がありそうな欺瞞でバーヴァリ・バラモンを嚇した。バーヴァリさんにとってはとんだ災難だが、このおかげでバーヴァリさんはブッダに会う切掛けになったのだから、よかったのかもしれない。

985 986
バーヴァリさんはヴェーダ聖典に精通したバラモンだったが、それだからこそ自分の知らない呪いの言葉のまやかしに騙されてしまったのかもしれない。呪いの言葉が、矢のように彼の心を打ちぬいて、嘆き悲しむ。
そのため食べ物を食べることもできず、やつれはてる。
それを見かねた、彼の庵を守る女神がバーヴァリさんに近づいて、言葉をかける。

987、988
女神がバーヴァリさんを安心させようとして語った言葉は「かれは頭のことを知っていません。かれは財を欲しがっている詐欺者なのです。頭のことも、頭の落ちることも、かれは知っていないのです。」
(中村先生訳)
バーヴァリさんは、少し安心したかもしれないが、「頭と頭落ち」の意味が分からなければ完全には安心できない。そこで、彼は声をかけてくれた女神にその意味を聞いた。

989 990
女神様も頭や頭落ちについては知らなかった。ただ女神様はそのことについて勝利者が知っていると言った。この場合、勝利者とは一切を知るブッダを意味している。
「頭と頭落ち」とは、ブッダのみが知るもの。そうするとバーヴァリさんでもなくてもその意味を知りたくなる。バーヴァリさんは女神様に、この世界のどこの誰がそれを知っているのか尋ねた。

991 992
女神様は、頭と頭落ちについて知る方を教える。その方は、カピラヴァットという都の出身で、甘蔗王の子孫であり、釈迦族の王子であった。彼は出家して、修行して、悟りを開かれた。
つまり一切の現象に精通し、一切の神通力がり、一切を知る方であり、一切の煩悩を滅尽し、解脱し、一切の依存するものを滅尽した方である。

993 994
中村先生の訳で覚者と正覚者を「目ざめた人」を区別してないが、覚者はBuddhoの訳で一切の法を悟った者という意味で、正覚者はSambuddhoの訳で正しく一切の法を悟った者という意味。
世尊(尊き師)とは、bhagavの訳で六つの福徳をそなえた方という意味。
この六つとは@自在「自分に従わせる徳」、A道・果・涅槃の出世間法、B名声「よい評判」、C吉祥「めでたしるし」、D意欲「思い期待どおりにすべてが成就した徳」、E努力精進と言われている。
さて、バーヴァリさんはヴェーダ聖典に通暁した達人だから、「正覚者」の意味はよく知っていた。彼は「正覚者」という言葉を聞いただけで喜んだ。
「正覚者」は一切知者だから、バーヴァリさんが悩んでいた疑問は、正覚者に聞けば分かるとすぐに理解した。また彼は、正覚者はいつでも現れるものではないと言うことも知っていた。だから、自分は幸運であると思った。

995 996
正覚者がおられることを知ったバーヴァリさんは、大喜びで女神様にその方はどこにおられるか尋ねた。女神様は「コーサラ国の都のサーヴァッティ(舎衛城)におられると答える。
バーヴァリさんの心にその方に対する畏敬の念が現れて、彼はそこに行ってその方に礼拝したくなった。
996では、その正覚者を、勝利者、智慧ゆたか人(多大なる知慧ある方)、いとも聡明な人(優れた広き思慮ある方)、荷を下ろした人(〔人としての〕重荷を離れた方)、汚れのない人(煩悩なき方)、
頭落ちることを知っている人、牛王のような人(人の雄牛たる方)、釈迦族の子と表現している。
(´・(ェ)・`)つ
0292鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/29(金) 19:32:56.47ID:+tUCr3hH
>>289 そうじゃ、あるがままに観るのじゃ。
 そうすれば気づくこともおおくなるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。
0293名無しを整える。2017/12/29(金) 21:04:41.30ID:NclIDNo0
>>292
鬼和尚ありがとうであります。

ところで、「見るものは、見られるものである」(A)と言う表現を、あちこちで目にするのでありますが、
その意味は、
人が認識している世界は、その人の記憶と照合した上でとらえられた観念であり、世界そのものではなく、むしろ、認識しているその人そのものであると言うような理解で良いのでありましょうか?

くまは、>>289に書いたように、「見るものは見られるものではない」(B)、と考えていたのでありますが、これは間違いでありましょうか?

例えば、身体や心を観察対象として、厭離すると言うことは、自分だと思っていたものは、自分ではなく、自分などどこにもいないと言うことに気付こうとすることだと思うのでありますが、

その際、見るもの(=主体)、見られるもの(=客体)ではないと考えた方がイメージしやすいきがするのであります。

(A)と(B)は反対のことを言ってるようでありますが、(A)は全ては観念に過ぎないこと、実在するもなど何もないと説くときに使われ、(B)は無我を説くときに使われると言うような理解でも良いのでありましょうか?、
(´・(ェ)・`)つ
0294名無しを整える。2017/12/30(土) 08:53:25.92ID:uG1AuBfx
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、1、 序

997 そこでかれは(ヴェーダの)神呪に通達した諸々の弟子・バラモンたちに告げていった、
「来たれ、学生どもよ。われは、そなたらに告げよう。わがことばを聞け。

998 世間に出現すること常に稀有であるところの、かの<目ざめた人>(ブッダ)として命名ある方が、いま世の中に現れたもうた。そなたらは急いでサーヴァッティーに赴いて、かの最上の人に見えよ。」

999 「では(師)バラモンよ。かれを見て、どうして<目ざめた人>(ブッダ)であると知り得るのでしょう? われらはどうしたらそれを知り得るか、それを教えてください。われらは知らないのです。」

1000 諸々の神呪(ヴェーダ)の中に、三十二の完全な偉人の相が伝えられ、順次に一つ一つ説明されている。

1001 肢体にこれらの三十二の偉人の相のある人、──かれには二つの前途があるのみ。第三の途はありえない。

1002 もしもかれが、<転輪王>として家にとどまるならば、この大地を征服するであろう。刑罰によらず、武器によらず、法によって統治する。

1003 またもしもかれが家から出て家なきに入れば、蔽いを開いて、無上なる<目ざめた人>(ブッダ)、尊敬さるべき人となる。

1004 (わが)生れと、姓と、身体の特徴と、神呪(習ったヴェーダ)と、また弟子たちと、頭のことと、頭も裂け落ちることとを、ただ心の中で(口に出さずに)かれに問え。

1005 もしもかれが、見るはたらきの障礙のない<目ざめた人>(ブッダ)であるならば、心の中で問われた質問に、ことばを以て返答するであろう。」

1006 バーヴァリのことばを聞いて、弟子である十六人のバラモン──アジタと、ティッサ・メッテイヤと、プンナカと、およびメッタグーと、

1007 ドーカタと、ウパシーヴァと、ナンダと、およびヘーマカと、トーデイヤとカッパとの両人と、賢者ジャトゥカンニンと、

1008 バドラーヴダと、ウダヤと、ポーサーラというバラモンと、聡明なるモーガラーシャと、大仙人ピンギヤと、──

1009 かれらはすべて、それぞれ衆徒を率い、全世界に命名があり、瞑想を行い、瞑想を楽しむ者で、しっかりと落ち着いていて、前世に宿善を植えた人々であった。

1010 髪を結い羚羊皮をまとったかれは、すべてバーヴァリを礼し、またかれに右まわりの礼をして、北方に向って出発した。

(´・(ェ)・`)つ
0295名無しを整える。2017/12/30(土) 09:10:16.39ID:uG1AuBfx
>>294
997 998
バーヴァリさんは、コーサラ国の輔相(国師)の息子として生まれ、三つの大丈夫の相(偉人の相)をそなえ、三ヴェーダの奥義を究め、父の死後は輔相の地位についていたが、三代の王に使えた後、出家した。
彼には16人の年長の奥義をきわめた内弟子がおり、更にそれぞれの内弟子には合計一万六千人の弟子がいた。
バーヴァリさんは、女神様の言葉を聞いて、弟子達を呼び集めた。そして弟子達に「学生どもよ。」と呼びかけるが、
この時の「学生」は、現代語で使われている「がくせい」ではなく、「がくしょう」と読み、今の意味の学生とは違う。研究者や教授という意味に理解した方がよい。なにしろヴェーダの奥義をきわめた達人たちだから。しかし、まだ覚者ではない。
「しかし、今日そのような善い評判の正覚者がこの世に現れたことを聞いた。その方はサーヴァッティーにおられますから、急いでそこに行って、人間として最上の人(両足尊)に会ってくるように。」と弟子達に命じた。
ダンマパダ182参照

999 1000
三十二相については、スッタニパータ「第3大きな章 7.セーラ・バラモン経の序」に記載。

1001 1002 1003
バーヴァリ・バラモンの弟子たちへの、三十二相を持つ偉大な人の説明。つまりこの相を持つ人は輪転王になるか、正覚者になるかのどちらかだということ。

1004、1005
三十二相をそなえた正覚者の能力は凄い。人の心の中が分かる。それはいわゆる他神通と言われる神通力。しかし、この能力は「見るはたらきの障礙のない人」にとっては特別な能力という訳でなく、自然な力なのだと思われる。
なぜならば、人間のすべての行動はその人の心の表現なのだから、その人を、ありのままに見れば当然その人の心が分かってくるからである。
また、他人を自分自身であるように感じる能力があるためで、自分のことならばわかる。

1006 1007 1008
16人のバーヴァリさんの高弟の名前が列挙されている。
これらの16人の弟子の一人一人がブッダに質問。その問答がこの章の本文になる。
序偈におけるバーヴァリさんの疑問、頭と頭落ちに関するブッダの解答は仏教の真髄を示す。

1009 1010
十六人の弟子達は、それぞれが多くの弟子を指導しており、全インド中で名前の知られた有名人であった。また彼等は瞑想にも勝れ、禅定を楽しむ者達でもあった。
「前世に宿善を植えた人々」とは、前世で善い行いをし、それが今世でブッダに会い、また質問できるという幸運にめぐり会ったということ。
結髪とは当時のバラモン達の髪方で、修行者は羊の皮の衣を着ていた。
「右まわりの礼」とは、「自分の右肩を相手の方に向けて、相手の人の回りをめぐること。敬礼の一つ。
右回りをすることは、当時バラモンたちのあいだで行われていて、それを仏教が取り入れたことが解る」と中村先生の「ブッダのことば」の注釈に書かれている。

(´・(ェ)・`)つ
0296名無しを整える。2017/12/30(土) 18:35:48.92ID:uG1AuBfx
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、1、 序

1011 ムラカの(首都)パティターナに入り、それから昔の[都]マーヒッサティへ、またウッジェーニーへ、コ゜ーナッダ、ブェーディサへ、ヴァナサというところへ、

1012 またコーサンビーへ、サーケータへ、最高の都サーヴァッティーに行った。(ついで)セータヴィヤへ、カピラヴァットゥへ、タシナーラーの宮殿へ(行った)。

1013 さらに享楽の都市パーヴァーへ、ヴェーサーリーへ、マガダの都(王舎城)へ、またうるわしく楽しい(石の霊地)に達した。

1014 渇した人が冷水を求めるように、また商人が大きな利益を求めるように、暑熱に悩まされている人が木陰を求めるように、かれらは急いで(尊師ブッダのまします)山に登った。

1015 尊き師(ブッダ)はそのとき僧衆に敬われ、獅子が林の中で吼えるように修行僧(比丘)らに法を説いておられた。

1016 光を放ちおわった太陽のような、円満になった十五夜の月のような目ざめた人(ブッダ)をアジタは見たのであった。

1017 そこで(アジタは)師(ブッダ)の肢体に円満な相好のそなわっているのを見て、喜んで、傍らに立ち、こころの中で(ブッダにつぎのように)質問した。──

1018 「(わが師バーヴァリの)生年について語れ。(バーヴァリの)姓と特徴とを語れ。神呪(ヴェーダ)に通達していることを語れ。(師)バラモンは幾人に教えているのか?」

1019 (師はいわれた)、「かれの年齢は百二十歳である。かれの姓はバーヴァリである。かれの肢体には三つの特徴がある。かれは三ヴェーダの奥義に達している。

1020 偉人の特徴と伝説と語彙と儀規とに達し、五百人(の弟子)に教授し、自分の教説の極致に通達している。」

1021 (アジタいわく)、「妄執を断じた最高の人よ。バーヴァリのもつ諸々の特徴の詳細を説いてください。わたくしに疑いを残さないでください。」

1022 [師いわく]、「かれは舌を以てかれの顔を蔽う。かれの両眉の中間に柔い白い毛(百毫) がある。かれの隠所は覆いに隠されている。学生ょ、(かれの三つの特徴を)このように知れ。」

1023 質問者がなにも声を出して聞いたのでないのに(ブッダが)質問に答えたもうたのを聞いて、すべての人は感激し、合掌して、じっと考えた。──

1024 いかなる神が心の中でそれらの質問をしたのだろか? ──神か、梵天か、またはスジャーの夫なる帝釈天か? ──また[尊師は]誰に答えたもうたのだろう?

(´・(ェ)・`)つ
0297名無しを整える。2017/12/30(土) 18:43:07.98ID:uG1AuBfx
>>296
1011
16人の弟子達は、16の都市を巡ってブッダの所に行く。

1012 1013
16という数字はインド文化では満数という意味がある。

1014
ブッダはサーヴァティーにおられると聞いて、そこに向っていたが、ブッダは活動の場所を移動されていた。そこで彼等はブッダの向かわれた場所に移動して行った。
そしてついに、ブッダはパーサーナカ廟(霊地)におられることがわかった。そこは山であった。それで彼等はその山に登った。
その時の彼等に気持ち、真理を求める気持ちを、三つに譬えで表現されている。
先ず、喉の渇いた人が水を飲みたい時の気持ち、商人が利益を求めようとしているときの気持ち、そして、灼熱の太陽の下で少しでも涼しさを求めて日陰を探している時の気持ち。

1015
バーヴァリさんの弟子達が、パーサーナカ廟についた時に、正覚者(ブッダ)は多くの比丘達に敬われて、森の中で吼えるライオンのように、説法をされていた。
「獅子吼とは、獅子のように吼えること声量豊かに語る、雄弁に語ることと思われている向きもあるが違う。雄弁に、大声で、流暢に、また説得力にあふれた話しの仕方ではない。
獅子吼とは、相手が誰であろうとひるむこと無く、正しいことを言う勇気ある姿勢をいう。百獣の王ライオンは勇敢な動物なので、その勇気ある姿勢から『獅子吼』と言っている。

ブッダの説法に関しては、「スッタニパータの第3 大きな章 4.善語経」
450.立派な人々は説いた──
最上の善いことばを語れ。(これが第一である。)
正しい理を語れ、理に反することを語るな。これが第二である。
好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。
真実を語れ。偽りを語るな。これが第四である。
このようにブッダは説法される。これが獅子吼。

1016 1017
彼が正覚者であることを、更に確かめるために、喜びでワクワクして、師匠のバーヴァリさんに教えられて通りに、心の中で声を出さずに問を発した。

1018
アジタさんが心の中でブッダに質問した内容、実はこの質問は師匠のバーヴァリさんに、1004に示されている質問してくれと頼まれた内容。

1004には、生まれ(年齢)と姓と特相と真言(ヴェーダ)と弟子達と頭と頭落ちについて質問してくれと頼まれている。

1019、1020
ブッダは、アジタさんの心の中の問に対して、答えをのべた。

1021、1022
ブッダは、バーヴァリさんの特相について、三つあると答えた。しかし、アジタさんはバーヴァリさんの特相を具体的に知りたいと思った。
そこで、ブッダはバーヴァリさんの舌は大きく、その舌で顔を覆うことができる、また眉の間に白い毛が生えている、さらに陰部は身体の内に隠されていると説明した。
日本語では大舌相(だいぜつそう)、白毫相(びゃくごうそう)、 陰蔵相(おんぞうそう)と言う。

1023 1024
アジタさんの心の中の質問に対して、ブッダが1019、1020、及び1022でお答えになったので、人々に畏敬の念が起こり、合掌して考えた。
如何なる神が心の中で質問したのだろうかと、人々は考えた。この人々はアジタさんを除く、バーヴァリさんの15人の弟子とその弟子達。彼等は神か梵天か帝釈天が質問したのかと考えた。そしてその答えは誰に答えたものか考えた。

(´・(ェ)・`)つ
0298鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/30(土) 21:05:02.80ID:EBAOCSTV
>>293 そうじゃ、見るものという観念は実は見られているから成立しているのじゃ。
 見る主体があるという観念は実は見られたものなのじゃ。
 それに気づけば自我が見られるのじゃ。
 見るものとして主体があるとと思っていたのが実はそうではなかったと気づくのじゃ。
 そのように理解すると善いのじゃ。
0299名無しを整える。2017/12/30(土) 22:16:13.81ID:uG1AuBfx
>>298
鬼和尚こんばんは。

主体と思っていたものが、見られて=客体となって初めて成立する観念であることが見きわめられれば、
>>293の(B)の「見るものは見られるものではない」、と言う正しい結論と矛盾するとはっきり気付けるので、主体の不存在、無我に気付けるという理解で良いのでありましょうか。
(´・(ェ)・`)つ
0300名無しを整える。2017/12/31(日) 09:05:28.68ID:28vahqdW
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、1、 序

1025 (アジタがいった)、「バーヴァリは頭のことについて、また頭の裂け落ちることについて質問しました。先生! それを説明してください。仙人さま! われらの疑惑を除いてください。」

1026 (ゴータマ・ブッタは答えた)、「無明が頭であると知れ。明知が信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落とさせるものである。」

1027 そこで、その学生は大いなる感激をもって狂喜しつつ、羚羊皮(の衣)を(はずして)一方の肩にかけて、(尊師の)両足に跪いて、頭をつけて礼をした。

1028 (アジタがいった)、「わが親愛なる友よ。バーヴァリ・バラモンは、かれの弟子たちとともに、心に歓喜し悦んで、あなたさま(ブッダ)の足下に礼拝します。眼あるかたよ。」

1029 (ゴータマは答えた)、「バーヴァリ・バラモンも、諸々の弟子も、ともに楽しくあれ。
学生よ、そなたもまた楽しくあれ。永く生きよ。

1030 バーヴァリにとっても、そなたにとっても、もしも疑問が起って、心に問おうと欲するならば、何でも質問なさい。」

1031 <目ざめた人>(ブッダ)に許されたので、アジタは合掌して坐して、そこで真理体現者(如来)に第一の質問をした。

ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、2、学生アジタの質問

1032 アジタさんがたずねた、
「世間は何によって覆われているのですか? 世間は何によって輝かないのですか? 世間をけがすものは何ですか? 世間の大きな恐怖は何ですか? それを説いてください。」

1033 師(ブッダ)が答えた、
「アジタよ。世間は無明によって覆われている。世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲が世間の汚れである。苦悩が世間の大きな恐怖である、とわたしは説く。」

1034 「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。その流れをせき止めるものは何ですか? その流れを防ぎ守るものは何ですか? その流れは何によって塞がれるのでしょうか? それを説いてください。」

1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」

1036 アジタさんがいった、「わが友よ。智慧と気をつけることと名称と形態とは、いかなる場合に消滅するのですか? おたずねしますが、このことをわたしに説いてください。」

1037 アジタよ。そなたが質問したことを、わたしはそなたに語ろう。識別作用が止滅することによって、名称と形態とが残りなく滅びた場合に、この名称と形態とが滅びる。」

1038 「この世には真理を究め明らめた人々もあり、学びつつある人もあり、凡夫もおります。おたずねしますが、賢者は、どうかかれらのふるまいを語ってください。わが友よ。」

1039 「修行者は諸々の欲望に耽ってはならない。こころが混濁していてはならない。一切の事物の真相に熟達し、よく気をつけて遍歴せよ。」

(´・(ェ)・`)つ
0301名無しを整える。2017/12/31(日) 10:44:19.42ID:28vahqdW
>>300
1025、1026
アジタ学生は心の中で、バーヴリ・バラモンの一番切実な問である「頭について、頭が裂け落ちることについて」その意味を尋ねた。
ブッダは呪いの言葉であると思われた言葉に対して、その真実の意味は明らかにする。それはすべての生命にとって宝というべき真理であり、仏教の真髄だった。
ブッダは頭とは無明を意味しているのだと述べた。そして頭を裂け落とさせるものとは明知(智慧)であると説かれた。
無明である頭を裂け落とすと明知が現れる。明知が現れた時、修行者はありのままに見ることが出来る。そして解脱する。これこそが解脱のメカニズム。仏教の真髄。

1026では、さらに明知は信と念と定と意欲と精進と結びついていると説かれている。無明を克服するものは明知だが、それは信と念と定と意欲と精進を縁にして生まれる。
信は自分も解脱できるという信念。念は注意深くいること、解脱に関わることを見逃さないこと、自分の心の観察もあるが、人の言葉も注意深く聞くこと。今回の経で言えば、呪いの言葉にも真理を見出そうとすること。
定は心の落ち着きと静けさ。妄想をなくすこと。意欲とは解脱しようとする意欲。そうして精進とは解脱をあきらめないで挑戦すること。すべて解脱に向って進むこと。これらが明知に結びついている。

1027 1028
ブッダに頭と頭落ちについて真実の意味を聞いたアジタさんは、大いなる感激(畏敬の念)を持って、中村先生訳では、「狂喜しつつ」、皮の衣の片方の肩を脱いで、ブッダの足元にひざまずいて、頭をブッダの足につけて最敬礼をした。

1029、1030 1031
ブッダは、アジタさんが自分の言葉を理解したことを知り、バーヴァリ・バラモンとその弟子達すべてを祝福した。
さらに、心に思う疑問があるのならば、何でも尋ねるがよいと、質問することを許可した。

1032
アジタさんはブッダに対して8つの質問をした。
今回は世間に関するもの。ここで世間と訳したパーリ語はloka。lokaには世界とか世間のいう訳語がある。しかし、仏教の関心の中心は生命や人間だから、世界とか世間と言っても、具体的にはその中の生命や人間に焦点を当てて考えた方が理解しやすい。
1.人間は何によって覆われているのか?
2.人間は何によって輝かないのか?
3.人間を汚すものは何か?
4.人間の大きな恐怖は何か?
これらの質問は、アジタ学生の深い自己の洞察から生まれたもの。多くの人間は自分が何かにおおわれていることに気付いていない。皆自己の現状を当たり前であると思っているから、おおわれていることに気付けない。
おおわれているとどうなっているのか?周りを正しく見えてない。雲っているとか、くすんで見えている。アジタさんはそのことに気付いたから、ブッダにそのことを質問した。
自分がおおわれていることに気付いている人には、自分が輝いていないことにも気づく。
さらに輝きについて言えば、自分が汚れているから輝かないことも分かる。
アジタさんは人間の恐怖についても質問した。

1033
世間・人間は何に覆われているのか? ブッダの解答は世間・人間は無明によって覆われているというもの。アジタ学生は自分を覆っているものを感じた時、これは何だと思ったが、わからない。これは無明だと教えられた時、無明の実体が見えて来た。
この章の序偈において、無明が頭であると教えられたアジタ学生にとっては、この解答によって二度真理が明らかにされたということ。
世間・人間は何によって輝かないか? 解答はもの惜しみと怠惰(放逸)。確かに、ケチな人や怠け者は輝いてない。
世間・人間を汚しているものは何か? 欲心(渇愛、欲望)。世間・人間を構成している地、水、火、風を汚しているのはすべて人間の欲望の結果だから、世間(世界)・人間を汚しているのは欲望であると言ってよい。
世間・人間の大きな恐怖は何か? 解答は苦悩(苦しみ)。これは教えられて、よく考えればわかる。私達は苦しみを恐れ、苦しみを避けながら生きている。これは生きることの実態。

(´・(ェ)・`)つ
0302名無しを整える。2017/12/31(日) 10:56:23.10ID:28vahqdW
>>300
1034
中村先生の訳は、「煩悩の流れは」とあるが、パーリ語原文には「煩悩の」はない。そこで正田先生は「諸々の〔欲望の〕流れは」とカッコで〔欲望の〕を入れて訳されている。
流れだけでは、意味がよく分からないので、煩悩あるいは欲望などを補って理解する必要がある。1033で、ブッダの解答の中にあった「無明、貪り、怠惰、欲心など」をアジタ学生は「流れ」と受け止めたのだと思われる。
では「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる」の「あらゆるところ」とは「どこか」についても考えておく。
一応「六処」のすべてところという意味であろう。
詳しく言えば「六内所(眼、耳、鼻、舌、身、意)」と「六外処(色、声、香、味、触、法)」と考えておけばよい。
これらの場所に、煩悩、欲望が流れる。アジタ学生はこれらの流れを「せき止めるものは何ですか?」と質問した。
もう一つ「その流れを防ぎ守るものは何ですか?」という質問をしたように訳されているが、パーリ語からは同一の質問のようにもとれる。
「せき止める」と「防ぎ守る」と異なる動詞で質問したのだと思われる。なぜならば、1035のブッダの解答は一つだから。
もう一つの質問は、「煩悩(欲望)の流れは何によって塞がれるのか?」ということ。この二つの質問の違いは、洪水を土嚢で防ぐか、堤防で防ぐのかの違いではないかと思われる。
実際には堤防も決壊することがあるので、洪水も決壊も起こらない治水対策かもしれない。

1035
煩悩(欲望)の流れをせき止めるもの、煩悩(欲望)の流れを防ぎ守るものが何かがブッダによって説き明かされる。
その解答は、サティ(念)。中村先生訳では「気をつけること」。この言葉は英語では「マインドフルネス」言われ、日本語では「気づき」と訳される場合が多い。
ここではブッダがサティ(念、気づき)の定義を明確にしている。サティ(念)は煩悩(欲望)の流れをせき止め、防ぎまもるもの。だから、単に気づいていることではない。煩悩(欲望)の流れを止めない「気づき」はサティではない。
サティは悪い心が起こらないように注意すること。サティは何でもかんでも気づいていることではない。そうでなければ、サティによって煩悩(欲望)の流れをせき止められない。
次は煩悩(欲望)の流れを塞ぐもの。煩悩(欲望)の流れを根本的に塞ぐ、煩悩(欲望)をなくすこと。煩悩(欲望)がある限りは、常にサティによって、その流れを止めなければならないが、煩悩(欲望)をなくしてしまえば、サティの必要もない。
その時は解脱した時、覚ったとき。
煩悩(欲望)の流れを塞ぐとは、解脱すること、覚ること。そのためには智慧が必要。だから、流れを塞ぐものは何かに対するブッダの解答は智慧。

(´・(ェ)・`)つ
0303名無しを整える。2017/12/31(日) 11:03:31.58ID:28vahqdW
>>300
1036
中村先生の訳は、そのまま読むと、アジタ学生はなせこのような質問をしたのか分からない。なぜならば、智慧と気づきと名称と形態がすべて一緒に消滅するように解される。
特に何故智慧と気づきも消滅することを問う必要があるのかと思う。
(○正田大観先生訳、1036 
かくのごとく、尊者アジタが〔尋ねた〕
「まさしく、しかして、知慧が〔諸々の欲望の流れの統御となり〕、さらには、気づきが〔諸々の欲望の流れの防護となる〕、というのなら、
では、敬愛なる方よ、名前と形態(名色:現象世界)を、
これを、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説いてください。
どこにおいて、この〔名前と形態〕は止滅するのですか」〔と〕。)
その点正田先生の訳であるならば、「智慧と気づき」と「名前と形態」を別のグループとして、消滅(止滅)するものは、「名前と形態」であることが解る。
つまりアジタ学生はブッダに「どこにおいて、この〔名前と形態〕は止滅するのですか」と尋ねたことがわかる。
アジタ学生のこの質問は彼の深い洞察による結果。彼は彼岸(涅槃)に到ることを考えていた。そのため前の質問でブッダに智慧によって解脱することを教えられたので、それは名称と形態の消滅だと理解した。
だから、どこで(いかなる場合に)消滅するか尋ねた。そうでなければ、何故アジタ学生が名称と形態の消滅について尋ねたかわからない。
「名称と形態」について。中村先生訳「ブッダのことば(スッタニパータ)」の注(岩波文庫416ページ)には「名称と形態。この両者が現実の世界においては個人存在を構成している、と考えられていたことが、よく解る。」と書いてある。
それを踏まえて考えると、個人存在と言っても、それは個人の肉体ではなく、この場合問題にしている個人存在は自我意識。自我意識の消滅が解脱。自我意識は非常に根強いものがあり、簡単には消滅しない。
だから簡単には解脱出来ないということがある。この自意識は顕在意識にも潜在意識にも存在している。解脱において消滅されるべき自我意識は顕在意識のみならず、潜在意識における自我意識をも含むの。
名称と形態の消滅という場合の名称と形態の意味は、名称は浅い部分の潜在意識。形態は深い部分の潜在意識。浅いとは観念的な潜在意識であり、深いとは肉体に結びついている潜在意識であると考えられる。
観念的な潜在意識より、肉体に結びついた潜在意識は消滅しにくいから、浅いと深いに区別される。このように考えることは、1037で明らかにされるブッダの解答を深く理解するために必要なこと。

1037
1036のアジタ学生の質問のポイントは「智慧と気をつけることとによって、名称と形態はいかなる場合に消滅するのですか?」ということ。
つまり、智慧と気をつけることによって、名称と形態が消滅するのだが、そのメカニズムはどのようになっているのかを質問している。
その質問に対して、ブッダは「智慧と気をつけることとによって、識別作用が滅止し、名称と形態が残りなく滅びた場合に、解脱が起こるのです。」と答えている。」
「識別作用」について。パーリ語のViaの訳。正田先生は「識知〔作用〕」と訳されており、(識:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)と解説されている。
この解説に基づいて説明すると、識別作用が止滅するということは、自己と他者を識別する作用がなくなるということ。これは自我意識がなくなるということ。これが智慧と気をつけることによって為される。
自我意識は虚妄なのだから、智慧が現れればそのことがありのままに解るということ。顕在意識における自我意識はもちろん、潜在意識における自我意識(名称と形態)が消滅する。
(´・(ェ)・`)つ
0304名無しを整える。2017/12/31(日) 11:07:35.70ID:28vahqdW
>>300
1038
アジタ学生はブッダに解脱の道筋に説いてもらったが、更に具体的にどのようにその道筋を歩むべきかを尋ねた。
バーヴァリ・バラモンの16人の弟子とそれぞれに千人規模の弟子達がいたので、いろいろなレベルの修行者がいたのだと思われる。
そこで、アジタ学生は「真理を究め明らめた人々」と「学びつつある人」そして「凡夫」に分けて、それぞれがどのような行いをすべきか尋ねた。
「真理を究め明らめた人々」はもう学ぶものがないという意味で、無学と呼ぶ。それの人々は阿羅漢を指している。
「学びつつある人々」。学ぶことがあるという意味で有学。それでもこれらの人々は、預流果、一来果、不還果のいずれかの人々を指している。悟っていない修行者は凡夫。

1039
1038で、修行者を無学、有学、凡夫に分けて、「彼らの振る舞い(正しい行為のあり方)を、わたしに説いてください」と頼んだ。
しかし、ブッダは修行者を分けずに、すべて修行者に対する正しい行為のあり方を説かれたように思う。
ブッダの解答は、先ず「諸々の欲望において、その欲望に執着しないように」ということ。
「意に濁りなき者として存するように。」これは心に、わだかまりや、恨みや、敵意などをなくすこと。
これらの思いが心にあると、心はいつも、ざわついていて、落ち着かない。すると、心は汚れ、正しく判断することが出来なくなり、何事も失敗してしまう。だから、心は濁りのない、澄んだ心にすべきなの。
次は「一切の事物の真相に熟達し(一切諸法(現象世界)に巧みな智ある者として)」だが、これはなかなか難しいことだが、これを目指して修行すべきだと理解すればよい。
「よく気をつけて遍歴せよ(〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するように)」だが、これもなかなか難しい。
よく気をつけて(気づきある比丘として)、サティ(念)を絶やさずに、ということだが、これはアジタ学生の始めの質問にたどりつく。
ここでは「遍歴せよ。」となっている。これをどのように受け止めるべきか。各自が解脱に向けて、課題を見つけて、いろいろ挑戦してみよというようなこと。

(´・(ェ)・`)つ
0305名無しを整える。2017/12/31(日) 13:12:35.71ID:28vahqdW
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、3、学生ティッサ・メッテイヤの質問

1040 ティッサ・メッテイヤさんがたずねた、「この世で満足している人は誰ですか? 動揺することがないのは誰ですか? 両極端を知りつくして、よく考えて、(両極端にも)中間にも汚されることがない、聡明な人は誰ですか? 
あなたは誰を<偉大な人>と呼ばれますか? この世で縫う女(妄執)を超えた人は誰ですか?」

1041 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。諸々の欲望に関して清らかな行いをまもり、妄執を離れて、つねに気をつけて、究め明らめて、安らいに帰した修行者、──かれには動揺は存在しない。

1042 かれは両極端を知りつくして、よく考えて、(両極端にも)中間にも汚されない。かれを、わたしは<偉大な人>と呼ぶ。かれはこの世で縫う女(妄執)を超えている。」

ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、4、学生プンナカの質問

1043 プンナカさんがたずねた、
「動揺することなく根本を達観せられたあなたに、おたずねしょうと思って、参りました。仙人や常の人々や王室やバラモンは、何の故にこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのですか?
先生! あなたにおたずねします。それをわたしに説いてください。」

1044 師(ブッタ)は答えた、
「プンナカよ。およそ仙人や常の人々や王族やバラモンがこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのは、われらの現在のこのような生存状態を希望して、老衰にこだわって、犠牲を捧げたのである。」

1045 プンナカさんがいった、
「先生! およそこの世で仙人や常の人々や王族やバラモンが盛んに神々に犠牲を捧げましたが、祭祀の道において怠らなかったかれらは、生と老衰をのり超えたのでしょうか?
 わが親愛なる友よ。あなたにおたずねします。それをわたしに説いてください。」

1046 師は答えた、
「プンナカよ。かれらは希望し、称賛し、熱望して、献供する。利得を得ることに縁って欲望を達成しようと望んでいるのである。供犠に専念している者どもは、この世の生存を貪って止まない。
かれらは生や老衰をのり超えてはいない、とわたしは説く。」

1047 プンナカさんがいった、
「もしも供犠に専念している彼らが祭祀によっても生と老衰とを乗り越えていないのでしたら、わが親愛なる友よ、では神々と人間の世界のうちで生と老衰とを乗り越えた人は誰なのですか?
先生! あなたにお尋ねします。それをわたしに説いてください。」

1048 師は答えた、
「プンナカよ。世の中でかれこれ(の状態)を究め明らめ、世の中で何ものにも動揺することなく、安らぎに帰し、煙なく、苦悩なく、望むことのない人、──かれは生と老衰とを乗り越えた、──と、わたしは説く。」

(´・(ェ)・`)つ
0306名無しを整える。2017/12/31(日) 13:19:48.82ID:28vahqdW
>>305
1040
ティッサ・メッテヤ学生がブッダに質問。
質問文としては次の5つになっている。
1.この世で満足している人は誰か?
2.動揺することがないのは誰か?
3.両極端にも中間にも汚されることがない人は誰か?
4.あなたは誰を<偉大な人>と呼ばれるか?
5.この世で妄執(貪愛)を超えた人は誰か?
この内の3番目の「両極端にも中間にも」は何を意味するか?。
仏教は中道を説いているが、その時は両端とは快楽と苦行。中道の場合は智慧の道(八正道)。
しかしこの偈でいう中間は世間で言う中間で、中道ではない。快楽で汚れるとは快楽に溺れること、苦行に汚れるとは、意味のない苦行に価値をおくこと。中間に汚れるとは、無関心になり怠惰になること。
或は賞賛と非難も両端になる。中間は無視されることになるか。賞賛で汚れるとは喜び、舞い上がって、高慢になること。非難で汚れるとは、怒りで興奮し、相手に攻撃的になるなど。無視で汚れるとは、寂しくなり、悲しくなって落ち込むことなど。
中村先生訳の「縫う女」はパーリ語のsibbiniにそのような意味があるからだが、カッコ内にあるように、妄執(貪愛、愛着)の意味と取ればよい。

1041
ブッダは、ティッサ・メッテヤ学生の初めの質問「この世で満足している人は誰ですか?」には直せず答えず、二番目の「動揺することがないのは誰ですか?」という問いに答えていく。
動揺するとは、心が揺れ動くこと。「諸々の欲望に関して」という時は、食欲と性欲を考えればよい。「清らかな行いをまもり」とは、生きるために必要な食事で済ませ、性欲は個人が生きるためには必要ないから、それを抑えるということ。
そうすると心は、食欲と性欲で動揺することがない。食欲と性欲があればそれらによって動揺する。
欲望をなくすことは困難だが、「アジタ経」の質問で「煩悩(欲望)の流れを止めるものはサティ(念、気づき、気をつけること)であることを学んだ。
だから「常に気づきある者」(正田先生訳)は渇愛を離れることができ、欲望を初期のうちに止めることができる。
更にそのような人は「〔法を〕究めて」、智慧が現れて、解脱し、涅槃に至る。そのような人は動揺することはなく、ブッダが直接は答えなかったが、この世で満足している人である。

1042
この偈の始めの言葉「彼」とは、前偈で述べられた「動揺しない人」を指している。この彼が、ティッサ・メッテヤ学生の三番目の質問「両極端にも中間にも汚されることがない人は誰ですか?」の解答。
すなわち、動揺しない人は両極端にも中間にも汚されない。
そして、四番目の質問「あなたは誰を<偉大な人>と呼ばれますか?」の解答も、彼であり、動揺しない人であり、両極端にも中間にも汚されない人。
更に、五番目の質問「この世で妄執(貪愛)を超えた人は誰ですか?」の解答も彼であり、動揺しない人であり、両極端にも中間にも汚されない人。
ブッダが直接答えなかった第一番目の質問「この世で満足している人は誰ですか?」の解答も彼。つまり解脱して、涅槃に到った彼。

1043
プンナカ学生の質問。
プンナカ学生の始めの言葉は、前回の問答の一つのテーマが「動揺することのない」であったため、ブッダを「動揺することのないあなた」と呼び、さらに「両端を知りつくした方」として、「根本を達観されたあなた(根本を見る方)」としている。
これはプンナカ学生のブッダへの称賛の言葉であり、自分もそのような人間になりたいという思いがあるのだと思われる。
質問は「仙人や常の人々や王室やバラモンは、何の故にこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのですか?」ということ。
この質問の真意は、これらの人々は何を求め、望んでいるのかということ。この思いは現在社会で神や神々を信仰している人々の気持ちと同一のものがあると思われる。

(´・(ェ)・`)つ
0308名無しを整える。2017/12/31(日) 14:24:51.66ID:28vahqdW
>>305
1044
ブッダの解答。王族やバラモン達は、この世の生活にある程度満足していた。だからそのような生活をいつまでも続けたいと思っていた。
だが、老いという問題があった。だんだん身体が弱って、病気にもなる。更にその先に死があるという恐怖を感じていた。
そのために、彼らは神々に、安楽な生活をできるだけ長く続けられるように、また、死後にはよい世界に生まれ変われるように願って犠牲を捧げて、祭祀を営んだ。
しかし、それが本当に意味があるのかどうか、そのことについてもプンナカ学生は尋ねることになる。

1045
この偈は、言葉の繰り返しを除くと、「祭祀の道において怠らなかったかれらは、生と老衰をのり超えたのでしょうか?」「祭祀によって、かれらは生と老衰をのり超えたのでしょうか?」と言う質問だけになる。
(´・(ェ)・`)つ
0309名無しを整える。2017/12/31(日) 14:26:47.43ID:28vahqdW
>>305
1046
プンナカ学生の次の質問「祭祀によって、彼らは生と老衰をのり超えたのでしょうか?」に対するブッダの解答は「彼らは生と老衰を乗り超えていない。」ということ。
その理由は、彼らの祭祀は、利得を得ることによって欲望を達成することを望んでいるから。すなわちこの世の生存を貪っているから。
この理由を納得するためには、「生と老衰を乗り超える」とはどういうことか理解しておかなければならない。
「生と老衰」とは自我が経験するものであり、自我を概念と見る立場では「生と老衰」も概念。そのことに気付いた時、「生と老衰を乗り超えた」という。
この世の生存を貪っている人は「生と老衰」を概念とは思えず、実体のあるものとして生存を貪る。
別の説明としては、「生と老衰」に続いて、病気そして死が続く。そして新たな「生と老衰」がある。これは輪廻を意味している。
「生と老衰を乗り超える」とは輪廻を乗り超えるという意味。欲望を欲求し、生存を貪る人は輪廻を解脱できないから、生と老衰をのり超えられない。

1047
「一体誰が生と老衰を乗り超えたのですか?」というのがプンナカ学生の質問。
生を乗り超えるとは、輪廻において誕生を繰り返さないというよりは、王族やバラモンのような身分として生まれたいという思いを超えるということ。
そのような人々にとって生を乗り超えるとは、身分に価値を置かないということ。これは人間を身分で差別しないこと。
また老衰を乗り超えるとは、老いを惨めだと思わないということ。また若いから幸せであるとか、老人だから不幸だとは思わないこと。これは人間を年齢で差別しないこと。年齢に価値を置かないこと。
このように考えると、犠牲を神々に捧げる王族やバラモン達は生と老衰を超えていない。これらを乗り超えた人は身分によって人間を差別せず、身分に価値を置かない人。
また年齢によって人間を差別せず、年齢に価値を置かない。そのような人は実際にはどのような人なのか?それが今回のプンナカ学生の質問。

1048
プンナカ経の出だしは「動揺することがない」と言う言葉だったが、最後の偈で、「生と老衰を超えた人」を「動揺することがない人」であると説かれる。
そして、動揺のない人は、安らぎに帰した人であり、煙がない人と(身に悪行がない人と言う意味)、苦悩がなく、望むことがない人。すなわちそのような人はすべての煩悩をなくした阿羅漢。
阿羅漢は生存への執着をなくしており、輪廻を繰り返すことはない。
生まれ(身分)や年齢に価値を置くことがないので、それらによって人間の差別することはもちろんない。これらは解脱する前の価値観の消滅すなわち不必要な識別作用の消滅によるもの。
(´・(ェ)・`)つ
0310鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/31(日) 21:34:40.52ID:YX8ao/HG
>>299 そのような理解でよいのじゃ。
 実践によって確めるのじゃ。
 実践有るのみなのじゃ。
0311名無しを整える。2018/01/01(月) 09:16:53.09ID:B7cuMvmh
ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、5、学生メッタグーの質問

1049 メッタグーさんがたずねた、
「先生! あなたにおたずねします。このことをわたしに説いてください。あなたはヴェーダの達人、心を修養された方だとわたくしは考えます。世の中にある種々様々な、これらの苦しみは、そもそもどこから現われ出たのですか。」

1050 師(ブッタ)は答えた、
「メッタグーよ。そなたは、わたしに苦しみの生起するもとを問うた。わたしは知り得たとおりに、それをそなたに説き示そう。世の中にある種々様々な苦しみは、執著を縁として生起する。」

1051 実に知ることなくして執著をつくる人は愚鈍であり、くり返し苦しみに近づく。だから、知ることあり、苦しみの生起のもとを観じた人は、再生の素因(=執著)をつくってはならない。」

1052 「われらがあなたにおたずねしましたことを、あなたはわれらに説き明かしてくださいました。あなたに他のことをおたずねしますが、どうかそれを説いてください。
どのようにしたならば、諸々の賢者は煩悩の激流、生と老衰、憂いと悲しみとを乗り越えるのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説き明かしてください。あなたはこの法則をあるがままに知っておられるからです。」

1053 師が答えた、
「メッタグーよ。伝承によるのではなくて、いま眼のあたり体得されるこの理法を、わたしはそなたに解いて明かすであろう。その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えよ。」

1054 偉大な仙人さま。わたくしはその最上の理法を受けて歓喜します。その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えるでしょう。」

1055 師が答えた、
「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。

1056 このようにして、よく気をつけ、怠ることなく行う修行者は、わかものとみなして固執したものを捨て、生や老衰や憂いや悲しみをも捨てて、この世で智者となって、苦しみを捨てるであろう。」

1057 「偉大な仙人のことばを聞いて、わたくしは喜びます。ゴータマ(ブッダ)さま。煩悩の要素のない境地がよく説き明かされました。たしかに先生は苦しみを捨てられたのです。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるのです。

1058 聖者さま。あなたが懇切に教えみちびかれた人々もまた今や苦しみを捨てるでしょう。
竜よ。では、わたくしは、あなたの近くに来て礼拝しましょう。先生! どうか、わたくしをも懇切に教えみちびいてください。」
(´・(ェ)・`)つ
0312名無しを整える。2018/01/01(月) 09:29:55.81ID:B7cuMvmh
>>311
1049
メッタグー経。
「世の中にはいろいろな苦しみがありますが、その源は何か?」
これは仏教で解決すべき根本的な問い。メッタグー学生はブッダに、正攻法、真正面からの質問をした。
この質問は、正しく洞察されたものだった。世の中にある種々の苦しみは、単純に考えれば、飢えた時の苦しみは、食べ物がないから。また、病気の時の苦しみは病気が原因。人々の考えは苦しみの原因は、人間に対する外部的な種々の要因に及ぶ。
しかし、メッタグー学生は苦について種々の外部定要因ではなく、一つに集約される内部的要因が何かと言う質問をしている。

1050
ブッダは、「世の中にある種々様々な苦しみは、執著を縁として生起する。」(中村先生訳)と端的に答えることが出来た。「執著を縁として」を正田先生は「依り所(依存の対象)という因縁から」と訳されている。
Upadhiは、パーリ語辞書には「存在の拠り所」と書いてある。十二因縁の教えによれば、存在(有)の拠り所は、執著(固執)であるから、執著=存在の拠り所と考えてよい。「執著=存在の拠り所」が苦の源であるとブッダはメッタグー学生に教えた。
この偈で、ブッダが自分の教えについて、「わたしは知り得たとおりに、それをそなたに説き示そう。」と述べたことは重要。
ブッダは、伝承でもなく、人から聞いたことでもなく、憶測でもなく、自分自身が悟って、知ったことを、しかもそれを隠すことなく、ありのままに説くと言明している。

1051
「執著=存在の拠り所」が苦の源である」ことについての説明のつづき。
苦の源を知らない人は、愚かにも執著を繰り返し、そのために繰り返し苦しんでいる。だから、苦しみの源をよく知って、苦しみの生起の元を観察した人は、執著(存在の依り所)を作ってはならないと説かれた。
しかし、多くの人々は苦しみの源を知らない。それ故に苦しみの源(執著)を繰り返している。
もしくは、知っていても、執著を止められずに、苦しみを繰り返すことになっている。この場合も本当には解っていないということかもしれない。
苦しみの源は自分の外にはなく、自分の内にあるから見ることが難しいから。見ることができ、止めることが出来れば、解脱する。

1052
今回は、メッタグー学生の二番目の質問。
「どのようにしたならば、諸々の賢者は煩悩の激流、生と老衰、憂いと悲しみとを乗り越えるのでしょうか?」
一番目の質問は、苦しみの源を問うものだった。その解答は執著(存在の依り所)だった。だから苦を作らないためには、執著(存在の依り所)を作ってはならない。しかし、実際には、人々は執著(存在の依り所)を作ってしまう。
そのために、いろいろな煩悩が現れ、人々は苦しむことになる。また、プンナカ経で問題にした生と老衰等による苦しみも現れる。そしてまたそのために憂いと悲しみが襲ってくる。
この質問は執著を作ってしまった人は、どのようにするかというもの。ブッダは苦しみの根源とそれを乗り超える法則を悟った方だから、この質問にも答えて下さいとメッタグー学生は頼んだ。

1053
ブッダはメッタグー学生の第2の質問に対して、人に聞いたことでなく、今ここで体験されるありのままの法(理法)をありのままに説き明かそうと述べた。そしてその理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り超えなさいという。
メッタグー学生は執著を作って、苦しみ、憂い悲しむことになってしまった人は如何にするかという質問だったが、そのような人でも理法を知って、改めて執著をなくすことが必要。

(´・(ェ)・`)つ
0313名無しを整える。2018/01/01(月) 09:47:51.86ID:B7cuMvmh
>>311
1054
メッタグー学生は二番目の質問に答えられた理法をまだ聞いてない。
しかし、1053でブッダが「伝承よるのではなく、いま眼のあたりに体得された理法を聞いて、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えよ」言われたので、それに応えて、今回の偈を述べた。「偉大な仙人様」はブッダを指している。
「世間の執著を乗り越えるでしょう。」について復習。執著とは存在の拠り所。十二因縁の教えによれば、執著(固執)を縁にして存在(有)が生じる。つまり執著は存在の拠り所。
存在の拠り所は、自分というものをあるかどうかわからないまま、自分が何かわからないまま、つまり無明のまま、自分が有るとして架空の自分を確立すること。
それが存在の拠り所。そして執著の意味は架空の自分を執著によって確立すること。

1055
いよいよ、メッタグー学生の第2の質問にたいするブッダの解答。ブッダはメッタグーに対して、「君が意識するものすべてに対して」と言う。
それを上と下と横と中央に分類した。これら何を意味しているのか。
単に意識する対象を空間的に、上にあるもの、下にあるものというように理解できたが、注釈書には、上は未来の時、下は過去の時、横と中は現在の時と言われていると書かれてる。
しかし、この上、下、横、中は、時間や空間の意味ではなく、価値観(優劣観)の上下と取った方がブッダの真意を理解しやすい。
価値のあるもの(優れているもの)、価値のないもの(劣っているもの)、価値が普通のもの(同等のもの)のように理解する。
このようにメッタグー学生が意識するすべての事柄に関して、先ず、喜びを意識することを取り除くように、ブッダは述べた。
例えば、ダイヤモンドに対してこれは価値のあるものであり、優れた宝石だと喜びの意識を持たない、あればそれを取り除くということ。価値や優劣は架空の自分がつくった観念。

1055
次は、ブッダは偏執(固着)を除き去るように述べた。喜びの意識のあるものには偏執(固着)する意識が現れる。これは執著。
執著はその対象への執著もあるが、気づきにくいことだが、その対象に執著する自分に執著している。そこで架空の自分が確立されていく。偏執(固着)する意識を除き去ると、架空の自分への執著がなくなっていく。
更に、ブッダは識別(識別作用)を除き去るようにと説く。無明を縁として行が生じるが、行は自分と他を区別する作用。この行によって識別作用が生じる。自分と他を識別する作用。架空の自分が識別され、それに対する他が識別される。
だから、識別作用が除き去れば、執著する自分もなくなり、対象(例えばダイヤモンド)への執著も除き去る。
このようにして、執著は存在の拠り所だから、依り所がなくなり、生存状態にとどまることがなくなる。すなわち、輪廻から解脱する。

(´・(ェ)・`)つ
0314名無しを整える。2018/01/01(月) 09:54:32.30ID:B7cuMvmh
>>311
1056
メッタグー学生の第2の質問に対する解答の続き。
自分が気づいてよく知っていることは何であれ、それに対して喜びと偏執と識別を除き去るように注意していると、「わがものとみなして固執したものを捨てる」と説かれる。ここがこの偈の眼目。
「わがものとみなして固執したもの」は、文字通りには、自分の外の対象だが、実はこの時、自分はわがものと見なす自分に固執している。
だから、それに対して喜びと偏執と識別を除き去るようにすると、わがものと見なす自分を除き去っていく。
そのような自分がなくなれば、生や老衰や憂い悲しみはなくなり、この世の苦しみを捨て去ることになる。

1057
メッタグー学生はゴータマ・ブッダを偉大な仙人と呼んだ。
偉大な仙人の言葉とは、メッタグー学生の二つの質問に対するブッダの解答。
第一の質問に対する解答は「世の中の種々苦しみは執著(存在の拠り所)を縁として生起する」というもの。
第二の質問に対する解答は「何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちに留まるな」というもの。
これらの言葉によって、苦しみの原因が明らかにされ、それを取り除く方法が示された。
だからメッタグー学生は、それらの言葉を喜び、「たしかに先生は苦しみを捨てられたのです。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるのです。」と述べた。

1058
メッタグー学生が述べた言葉であるが、真理の言葉を聞いたのならば、あとは実践するだけ。それなのに、彼は、ブッダに「懇切に(停滞なく)教えみちびいてください。」と頼んでいる。
人間の実状は一度真理の言葉を聞いただけで、理解することはできず、ましてや実践することが出来ない。

(´・(ェ)・`)つ
0315名無しを整える。2018/01/01(月) 10:26:52.12ID:B7cuMvmh
   ∧_∧
  (・(ェ)・)
  /|=宗=|\
 (_)LLLLLL(_)
鬼和尚、あけおめ、ことよろであります。
0316名無しを整える。2018/01/01(月) 11:01:20.46ID:B7cuMvmh
ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、5、学生メッタグーの質問

1059 「何ものをも所有せず、欲の生存に執著しないバラモン・ヴェーダの達人であるとそなたが知った人、──かれは確かにこの煩悩の激流をわたった。かれは彼岸に達して、心の荒びなく、疑惑もない。

1060 またかの人はこの世では悟った人であり、ヴェーダの達人であり、種々の生存に対するこの執著を捨てて、妄執を離れ、苦悩なく、望むことがない。『かれは生と老衰とを乗り越えた』


ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、6、学生ドータカの質問

1061 ドーカンさんがたずねた、「先生! わたくしはあなたにおたずねします。このことをわたくしに説いてください。偉大な仙人さま。わたくしはあなたのおことばを頂きたいのです。あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」

1062 師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。では、この世でおいて賢明であり、よく気をつけて、熱心につとめよ。この(わたしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。」

1063 「わたくしは、神々と人間との世界において何ものをも所有せずにふるまうバラモンを見ます。あまねく見る方よ。わたくしはあなたを礼拝いたします。シャカ族の方よ。わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」

1064 「ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。」

1065 「バラモンさま。慈悲を垂れて、(この世の苦悩から)遠ざかり離れる理法を教えてください。わたくしはそれを認識したいのです。わたくしは、虚空のように、乱され濁ることなしに、この世において静まり、依りすがることなく行きましょう。」

1066 師は言われた、
「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」

1067 「偉大な仙人さま。わたくしはその最上の安らぎを受けて歓喜します。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えましょう。」

1068 師は答えた、
「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。

(´・(ェ)・`)つ
0317名無しを整える。2018/01/01(月) 11:17:59.89ID:B7cuMvmh
>>316
1059
ブッダの言葉。中村先生訳で最初の言葉「何ものをも所有せず」、正田先生訳では「無一物」は重要なキーワード。このことであとに続く「欲の生存に執著しない」ことができる。
「何ものも所有せず」とは、自分のものは何もないという意味で、自分のものは何ものもないことを理解していること。
生物はすべて大自然から一時的に借りて生まれてくる。死ぬ時にそれらすべて、大自然に返して何もなくなるから。
さらに、このことを本当に理解するためには、自分ものと思う時の自分がないことも理解していなければならない。何かを見たり、聞いたりする時の主体である自分は無明(無知)から始まって、仮に現れた自分。実はそれは存在していない。
しかし、それが行(「自他」形成作用)によって仮に生まれてくる。それは自我と言ってもよい。自我は見たり、聞いたりすると欲しくなり(渇愛)、自分のものにしたくなる(執著)。
本来、自分のものはないと理解していると、自分のものにしたくなることがない。そうすると、執著することもなくなる。執著がなくなれば、「欲の生存に執著しないことになる。」
さて今回の偈に戻れば、そのような人は「──かれは確かにこの煩悩の激流をわたった。かれは彼岸に達して、心の荒びなく、疑惑もない。」ということ。「彼は解脱して、涅槃に達したのです。」とブッダは述べられた。
「自分のもの何もはない」ということに関して、ダンマパダ62参照。

1060
「「何ものをも所有せず、欲の生存に執著しない人であるとそなたが知った人、」は「この世では悟った人であり、種々の生存に対するこの執著を捨てて、妄執を離れ、苦悩なく、望むことがない。」
この偈をよく理解するためには、「メッタグー経」の1055と1056を復習。
「生と老衰を超える」方法について述べられている。それは「何であろうと、それに対する喜びと偏執と識別捨てることによって、生と老衰と憂いと悲しみを捨てる」というもの。
「生と老衰を乗り超える」とはどういうことか?については「プンナカ経(プンナカ学生の問い)4.」1046参照。
「生と老衰を乗り超える」とはどういうことか理解しておくべき。
「生と老衰」とは自我が経験するものであり、自我を概念と見る立場では「生と老衰」も概念なのである。そのことに気付いた時、「生と老衰を乗り超えた」というのである。
この世の生存を貪っている人は「生と老衰」を概念とは思えず、実体のあるものとして生存を貪る。
別の説明としては、「生と老衰」に続いて、病気そして死が続く。そして新たな「生と老衰」がある。これは輪廻を意味している。「生と老衰を乗り超える」とは輪廻を乗り超えるという意味。

(´・(ェ)・`)つ
0318名無しを整える。2018/01/01(月) 11:38:59.94ID:B7cuMvmh
>>316
1061
ドータカ学生の問いは疑問文の形で述べられていないから、不明確だが、
「あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ=涅槃)を学びましょう。」と述べているから、自分の安らぎ(自分の涅槃)について教えて下さいと言うことだと思われる。
「自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」という文章に関して、中村先生の「ブッダのことば」(岩波文庫)の注に次のように書いてある。
「この文章をみるかぎり、安らぎを実現するために学ぶことがニルヴァーナであり、ニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あることにほかならない。
ブッダゴーサの注によると、「貪欲などをなくすために(ニルヴァーナのために)戒などを実践するのだと言い、ニルヴァーナを目的とみなし、戒などの実践を手段と見なしている。後代の教義はみなこういう見解をとっている。
しかしこういう見解によるならば、人間はいつになっても、戒律の完全な実践は不可能であるから、ニルヴァーナはついに実践されないであろう。
この詩の原文によって見るかぎり、学び実践することが、ニルヴァーナであると漠然と考えていたのである、と解することができよう。」
中村先生の注のように、すなわち「ドータカ学生がニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あること」と考えていたのならば、この後のブッダの偈(言葉)で修正されることになると思われる。
もちろん、ドータカ学生はそれを期待していたのだと思われる。

1062
この偈の「自己の安らぎを学べ。」についても、「ブッダのことば」(岩波文庫)の注に、中村先生は次のように書いてある。「ここでも『自己の安らぎ(ニルヴァーナ)を学ぶ』というのは、よく気をつけて、熱心であることにほかならない。」と。
今回の偈はブッダの言葉だから、この偈の解釈が中村先生の注の通りであれば、それはブッダの教えということになる。
しかし、ブッダは自己の安らぎ(ニルヴァーナ)について、理法を述べてはいないから、「『自己の安らぎ(ニルヴァーナ)を学ぶ』というのは、よく気をつけて、熱心であることにほかならない。」ということで完結させてはいけないように思われる。
これから理法を述べるから、よく気をつけて、熱心に聞いて、学べと述べているとうに思われる。

1063
ドータカ学生の言葉。この偈の趣旨は二つあり、一つは、彼はブッダが無所有の境地にあることを認め、それ故に「私はブッダを礼拝します」ということである。
当時のバラモン達にとっては「無所有の境地」は最高の境地であり、バラモン達が目指す境地であると考えていた。第五章の976で、16人の学生達の師匠であるバーヴァリ・バラモンも「無所有の境地を得ようと願って」と書かれていた。
もう一つは、「わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」ということ。ではこの諸々の疑惑とは何か? 無所有の境地で振舞われるブッダにお願いしていることだから、無所有の境地とは何であるか? 
どうすればその境地に至れるか? また私もその境地に至れるか?等の疑惑だと思われる。また無所有の境地と自分の安らぎ(涅槃)との関係についてドーカタ学生はどのように考えていたのか等これから明らかになる。

(´・(ェ)・`)つ
0319名無しを整える。2018/01/01(月) 11:42:54.24ID:B7cuMvmh
>>316
1064
今回はブッダの言葉。前半は、ブッダは疑惑ある者を解脱させることは出来ないと述べている。
疑惑ある者は自分で自分の疑惑をなくすべきであると言う。自分で解脱できるか分からないと迷っている人は解脱出来ない。自分は解脱できると確信した人のみが解脱できるのだろうから。
しかし、疑惑ある者を突き放しているわけではない。ブッダの話す最上の真理を聞くならば、自分で自分の疑惑を晴らすことができるだろうということ。
疑惑の具体的な内容は、無所有の境地とは何であるか? どうすればその境地に至れるか? また私もその境地に至れるか?等だから、それらは最高の真理を知れば解決できるであろう。
また無所有の境地と自分の安らぎ(涅槃)との関係については、ブッダは解脱という言葉で説明してるので、解脱することで最高の境地である安らぎ(涅槃)に達するので、無所有の境地は当然達することができると考えておられるように思われる。

1065
この偈ではドータカ学生がブッダに「遠離の法」を教えて下さいと頼んでいる。遠離の法を中村先生は「(この世の苦悩から)遠ざかり離れる理法」と訳されている。
ただこの偈をよく読むと、ドータカ学生は、遠離の法について一応のイメージを持っていることが解る。
大空のように何ものにも妨げられることないこと、すなわち静かな場所で他人に邪魔されないように一人でいること。次は、静かな心でいること。更に何ものにも依存しないで修行・生活すること。
これらを実践できるためには、どうしたらよいかブッダに尋ねている。以上三つのことを後に、身離、心離、依遠離の三離としてまとめられている。
この偈にそって以上考えてみたが、このような考え方は世間の常識から離れていることを始めに理解しておかなければよく分からないことなのである。
世間では、一人孤独でいることは寂しく避けるべきことであり、一人静かにいるよりは、多くの人々とワイワイ、ガヤガヤ騒ぐことが楽しいと考えているのだから。
この世の苦悩は人々と集合するからだと解っていないと遠離の法を求める気にならないのである。

1066
1053 参照
師が答えた、
「メッタグーよ。伝承によるのではなくて、
いま眼のあたり体得されるこの理法を、
そなたに説き明かすであろう。
その理法を知ってよく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えよ。」
1066
師は言われた、
「ドータカよ。伝承によるのではない、
まのあたり体得されるこの安らぎを、
そなたに説き明かすであろう。
それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」
中村先生は同じパーリ語を少し違った訳にしてあるが、パーリ語原文の違いは「メッタグーよ」と「ドータカよ」及び「理法」と「安らぎ」だけである。
メッタグー学生には、煩悩、生と老いと悲しみを乗り越えるために、伝承でない体得された理法を説いたが、ドータカ学生には遠離の法を教えるために、伝承でない体得された理法を説くことになる。

(´・(ェ)・`)つ
0320名無しを整える。2018/01/01(月) 11:45:52.40ID:B7cuMvmh
>>316
1067
メッターグー経1054参照。
「最上の理法」が「最上の安らぎ」に変わっているだけ。
1054
偉大な仙人さま。
わたくしはその最上の理法を受けて歓喜します。
その理法を知ってよく気をつけて行い、
世間の執著を乗り越えるでしょう。
1067
偉大な仙人さま。
わたくしはその最上の安らぎを受けて歓喜します。
それを知ってよく気をつけて行い、
世の中の執著を乗り越えましょう。
ブッダが「伝承によるものでない、まのあたりに体得された安らぎを解き明かそう」と仰られたので、それに彼は歓喜した。
また、「それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ」と命じられたので、それを受けて「それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えましょう。」と応えた。

1068
ブッダのドータカ学生への最後の教え。この偈はメッタグー経の1055と前半は同じだが、後半は少し異なる。
前半は「上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと」ということで、あなたが意識しているものは何でもということだった。
「上と下と横と中央とにおいて」については、「それを上と下と横と中央に分類した。これら何を意味しているのか。
単に意識する対象を空間的に、上にあるもの、下にあるものというように理解できたが、注釈書には、上は未来の時、下は過去の時、横と中は現在の時と言われていると書かれている。
しかし、この上、下、横、中は、時間や空間の意味ではなく、価値観(優劣観)の上下と取った方がブッダの真意を理解しやすいと思われる。
価値のあるもの(優れているもの)、価値のないもの(劣っているもの)、価値が普通のもの(同等のもの)のように理解するのです。」
1055の後半は次の通り。
「それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。」
今回の1068は次の通り。
「それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。
表現は異なるが、趣旨は同じ。微妙な違いを指摘すれば、1055では「喜びと偏執と識別とを除き去って」であるが、1068では「生存への妄執をいだいてはならない」という所だと思われる。
(´・(ェ)・`)つ
0321名無しを整える。2018/01/01(月) 12:04:07.85ID:B7cuMvmh
>>318
けっきょく、
中村先生の言うように、
>「・・・安らぎを実現するために学ぶことがニルヴァーナであり、ニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あることにほかならない。
なのか、
ブッダゴーサの注に
>「貪欲などをなくすために(ニルヴァーナのために)戒などを実践するのだと言い、ニルヴァーナを目的とみなし、戒などの実践を手段と見なしている。
なのか、
どちらが、正しいのでありましょうか?
ニルヴァーナを目的地とすることは、悟りを目的地とすることでありましょうから、
ブッダゴーサが正しいかは別としても、
>ニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あることにほかならない。
と言うのは、目的が曖昧になりすぎるような気がするであります。
(´・(ェ)・`)つ
0322名無しを整える。2018/01/01(月) 14:26:02.71ID:B7cuMvmh
ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、7、学生ウバシーヴァの質問

1069 ウバシーヴァさんがたずねた、
「シャカ族の方よ。わたしは、独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩の激流をわたることはできません。わたしがたよってこの激流をわたり得る<よりどころ>をお説きください。あまねく見る方よ。」

1070 師(ブッダ)は言われた、「ウバシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、<なにも存在しない>と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」

1071 ウバシーヴァさんがいった、
「あらゆる欲望に対する貪りを離れね無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」

1072 師は答えた、「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」

1073 「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼となるのでしょうか? またそのような人の識別作用(あとまで)存在するのでしょうか?」

1074 師が答えた、「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」

1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」

1076 師は答えた、
「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」

(´・(ェ)・`)つ
0323名無しを整える。2018/01/01(月) 14:58:57.49ID:B7cuMvmh
>>322
1069
ブッダと第6番目の学生ウパシーヴァさんとの対話。ウパシーヴァさんはブッダに「シャカ族の方よ。わたしは、独りで他のものにたよることなくして、大きな煩悩の激流をわたることはできません。
わたしがたよってこの激流をわたり得る<よりどころ>をお説きください。」と弱音を吐いているようにも聞こえる。
「<よりどころ>をお説きください。」は、これからこの困難を乗り越える決意の表れである。

1070
ウパシーヴァさんは無所有処定(無色界の禅定の一つ)を得ている。この禅定は色界禅定の上のレベルの高度な禅定。彼は既に多くの修行を積んでいる修行者。
しかし、禅定というものは、レベルの高い禅定状態であっても悟りとは異なり、禅定状態の時にのみ、煩悩が機能しない状態になっているだけで、禅定状態から離れると、元の人間に戻り、人格などは変わっていない。
そのことを知っていたから、ウパシーヴァさんは「一人では激流を渡れない」と言った。

そこで、ブッダはウパシーヴァさんに「無所有処定」の体験を<依り所>にして、その時の「何ものもない」という思い(表象)を依り所にして、
諸々の欲望を捨て、諸々の疑惑を離れて、渇愛(欲しいという思い)の消滅を、気づきを持って、昼も夜も求めなさいと教えた。
「何ものもない」と言う思いは普通の人には思えない思いである、ウパシーヴァさんは「無所有処定」の体験をしたから、そのように思える。
禅定には色界禅定と無色界禅定とある。
色界禅定は以下の通り、これは八正道の正定で定義されているもの。
第一禅定には、もろもろの欲をはなれ、もろもろの不善の法をはなれ、大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離から生じた喜びと楽がある。(尋、伺、喜、楽、一境性)
第二禅定には、大まかな考察、細かな考察が消え、心の統一された、大まかな考察、細かな考察のない、心の安定により生じた喜びと楽がある。(喜、楽、一境性)
第三禅定では、喜びを離れていることから、平静を備え、念を備え、正知をそなえて住み、楽を身体で感じる。(楽、一境性)
第四禅定には、楽を断ち、苦を断ち、苦も楽もない、平静による念の清浄がある。(捨、一境性)
さらに無色界の禅定がある。
空無辺処定は、無辺の空間を対象として定める禅定。
識無辺処定は、無限の認識を対象として定める禅定。
無所有処定は、何ものもそこにはないものを対象として定める禅定。
非想非非想処定は、想でも無想でもない状態に入る禅定。

1071
禅定状態においては欲望や怒りを鎮静させているだけ。だから禅定状態から離れれば、またそれらの煩悩は現れてくる。だから、煩悩のある状態に退き後戻りする。
しかし、あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のもの(その他の煩悩)を捨ててしまえば、この状態を<想いからの解脱>と述べているが、「その時は禅定から離れても煩悩が戻ってこないのか」
とウパシーヴァさんはブッダに尋ねている。これに対してブッダは如何に答えられるのか?

1072
今回の偈は前回の疑問文が肯定文に変わっただけ。すなわち、「・・・・・最上の<想いからの解脱>において解脱した人、かれは退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」から次の文に変わっただけ。
「・・・・・最上の<想いからの解脱>において解脱した人、かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」何故そのように言えるのかと言えば、ブッダが実際に体験した事実だから。
この偈で特に学ぶべきことは、禅定を究めると言うよりは、偈の前半の「あらゆる欲望に対する貪りを離れ、その他のもの(煩悩)を捨て、」ということを、日常生活のなかでよく気づき、実践することだと思われる。
(´・(ェ)・`)つ
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