>>914
無認識という、包括的な脱落の境地(?)は、まさに、死そのもののようでありますが、
生きてあると確信している自我が幻想であったと知れれば、生も死もその主体がないのでありますから、死は意味をなさず、生はそのことを知る機会という意味においてのみ意味あると言うことでありますかね。
で、その無我の境地を不可逆的なものとするために、最後に無認識の境地へ飛び込む勇気が必要なのでありましょうかね。
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