また、この数年の間に、幸せには色んな形があるよね、という風潮も強まってきました。
家庭や子どもを持たない人生。結婚ではなく事実婚、同性婚、ポリアモリー、アセクシャル、ノンセクシャル、三人以上またはひとりで生きることを選ぶ人生。
多様性という言葉が市民権を得て、人それぞれの歓びを堂々と表明し、認め合う流れが定着しつつあります。
ゴールはそれぞれだよね、時代は変わったよね、昔と今は違うよね、常識や価値観は変わったよね。高らかにそう宣言するような情報に触れる機会がぐっと増えました。
この文章を読んでいるということは、あなたもこう思っていると思います。うるせえ黙れ、と。

多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています。
自分と違う存在を認めよう。他人と違う自分でも胸を張ろう。自分らしさに対して堂々としていよう。生まれ持ったものでジャッジされるなんておかしい。
清々しいほどのおめでたさでキラキラしている言葉です。
これらは結局、マイノリティの中のマジョリティにしか当てはまらない言葉であり、話者が想像しうる“自分と違う”にしか向けられていない言葉です。
想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする。そんな人たちがよく使う言葉たちです。


私はずっと、この星に留学しているような感覚なんです。いるべきではない場所にいる。そういう心地です。
生まれ持った自分らしさに対して堂々としていたいなんて、これっぽっちも思っていないんです。私は私がきちんと気持ち悪い。
そして、そんな自分を決して覗き込まれることのないよう他者を拒みながらも、そのせいでいつまでも自分のことについて考え続けざるを得ないこの人生が、あまりにも虚しい。
だから、おめでたい顔で「みんな違ってみんないい」なんて両手を広げられても、困るんです。
自分という人間は、社会から、しっかり線を引かれるべきだと思っているので。ほっといてほしいんです。ほっといてもらえれば、勝手に生きるので。