関ヶ原の戦いに遅れた徳川秀忠は家康の怒りを買い、目通りすら許されなかった。
この時、小諸六万石の領主として秀忠についていた仙石秀久が、家康の前に進み出た。

「確かに決戦は終わっており、今さらそれについては、何も申しません。
しかし、もし西軍の意気が盛んで、戦いが拮抗した場合、秀忠様があとから到着、
と聞けば、西軍の士気と戦いの行方に、重大な影響を与えたでしょう。
その後なら、真田など使者を送るだけで降伏します。
それがし、『小事に拘り大事を忘るるは名将の為さざる所』と聞いております。
恐れながら、今の秀忠様の処置は間違っておられる。」

家康は秀久の直言を褒め、他の者の取り成しもあり、秀忠と対面した。
秀忠も「秀久が忠義、忘るること無し。」と言ってこれを喜び、将軍となった後も
秀久が小諸から江戸に来ると、必ず使者を板橋まで送り、出迎えた。

何年かのち、土井利勝が秀久のもとにやって来た。
「貴殿、末子を両御所(家康・秀忠)のどちらにも目通りさせておらぬとか。
拝謁させて、ご子息の栄達を図りなされ。」
秀久は答えた。
「それがし、未だ両御所の厚恩を返せず、嫡子・忠政も別に恩を賜っております。
どうしてこの上、末子まで拝謁などできましょう。」
「なるほど、良いお心がけです。しかし、今回は上様の御意ゆえ、お請けあれ。」

利勝の説得により、秀久の末子は旗本として取立てられた。

自重を覚えた後の権兵衛