笹木も自己中だが、響も自己中としか言いようがない。
自己中は自己中でよいが、いろいろな人たちの傷つく心とか読み取れないのか?
小説家、小説書き、小説好きだったら複雑な心の機微だって読み取り、理解もでき、
表現もできる。たとえ相手の未熟な心に対してもだ。
そういう心の機微含めたリアリティを描くのが純文学のはずだ。
しかし響は所詮小説の世界だけでの上っ面しか理解表現しているだけだ。
だから響の純文学の才能とは、小手先の技術の器用さみたいなものだ。
ただ芥川賞の芥川龍之介自身、あれはたしかに天才だったが、晩年の「河童」とかを除いて
羅生門にしても杜子春にしても蜘蛛の糸にしても、古典を題材に勧善懲悪的にきれいに
まとめたのは器用の才であり、リアリティとは言い難いが。