>>715
「ゆいちゃんまじゆいちゃん」
本質を本質でもって語り尽くすトートロジーというものを、感じ切ることで満足することなく、
理性で理解可能なものであるということをどのようにして実現するのか。
これは大きな問題である。
「ゆいちゃんまじゆいちゃん」の意味は言語で描写できない。
それは幾何学において、空間の法則に反する図形を座標で描写したり、存在しない点の座標を示すことができないのと同様である。
つまり、「ゆいちゃんまじゆいちゃん」はあるものの影にしかすぎない言葉にもかかわらず
理性といった不完全なフィルターを通すことなく音楽のごとく人に直接射し込む光である。
ゆいちゃんまじゆいちゃん的立場、つまりゆいちゃん原理主義的立場から見た場合
メタルレジスタンスにしろベビーメタルにしろ、それらは等しく無価値である。
何故ならば、ゆいちゃん原理主義者からすればそれらは全くの枝葉であり、
原理主義者達の求めるゆいちゃんの一面にすぎないからである。
但し、この場合の原理主義者には懐古的ゆいちゃん主義(ゆいちゃんまじ赤ちゃん主義)
進歩的ゆいちゃん主義(ゆいさん派)も多数含まれる点に充分な留意が必要である。
ボッソリと放り込まれて生み出されたトマト君を足掛かりとして
「ゆいちゃんまじゆいちゃん」は可逆であるが、
「トマト君まじゆいちゃん」は不可逆である。
トマト君全てはゆいちゃんであるが、ゆいちゃん全てがトマト君ではない。
個々の嗜好の違いこそが個々の思考、個々の論理の違いを産んでいるのだ。
これらを雑味と捉える本質論は何物をも産み出せなかった。
論理に違いがあるからこそ、これを認識し合い、重なり合う何物かを捉えようとする。
この曖昧さを踏まえた上で共に架けうるゆいちゃんを享受することこそが論理の要諦である。
その一瞬間において、「ゆいちゃんまじゆいちゃん」は無償故に、魂の救済を担保するキリスト教的愛を超越する。
つまり、この世の真理足りうるのだ。
同時にこれは仏教的渇愛でもある。
渇いた者が水を求めるが如き根源的欲求。執着。
仏教はそこから解脱する事を目的とする。
しかし、それゆえに人間的な真理なのだ。

「ゆいちゃんまじゆいちゃん」とは何か?
それは衝動であり、狂気であり、矜持であり、真理である。
つまり愛である。