年長者・エルダースピリット
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全く、世界の変化というのは早いもので。目まぐるしくて目がまわってしまう。
それは多分私たちの感性が拡大されて、視野が広くなったというせいもあるのだろうけれど。 ある意味で世界のバランスは、正しく保たれつつあるのだと思う。
見回したらわかるだろう。情報化が進む社会の中で、情報そのものにエネルギーを
供給し続けてきた「真実み」というドグマは、崩壊しつつある。
全ては、嘘になったんだ。これが私たちの望んだ世界。
破壊された、生の混沌、不安定で、輝いている、真実の消失した世界だ。 特別な誰か、なんて古臭い考えはもう終わり。
誰もが不安定で、弱く、悩み、しょうがなしで生きている。
タレントも政治家も、私たちと変わらない。
そして私たちだって、そうだ。私たちも他の普通の人々と変わらない。 その平らな世界で、私たちはどう生きていくのだろうか。それを考えていた。
折角戻ってきた混沌の中に、真実で水を差すのなんて野暮ってものだ。
だから、今はこう思う。"私たちは秘匿されているべきだ"と。 一部の人間の、純粋な趣味の領域の中に収まっていること。
普通の人間の、普通の深遠な、隠された精神の作業と、その秘儀としてあること。
人間の社会生活の、本流ではなく傍流として、秘匿されていることこそ、
私たち年長者のあり方として望ましいのだと今は感じる。 今後の私たちは、表面上どうであれ、本質部分では世間から遠ざかった存在に
なっていくだろう。
とは言え、私たち自身の精神の錬成作業はこの先も続くだろうし、その後に続く
素養のある人間も、やはり生み出され、否応なく知識を求めるだろう。
魂の生きていく場が変わるだけだ。早い話、私たちは仙人のようになるってこと。 それで、変わっていく繋がりの形の流れの中で、ひとつのくさびとして、
ここに標を立てておこうと思う。
年長者たち。エルダースピリットたち。生きている者も、去った者も。
その繋がりの、ある歴史の記憶として。 御愛読有難うございました!
権兵衛先生の次回作に御期待ください! 次回作のテーマは、睡眠なんです。
眠るというごく日常の行為を通して、少年少女が
静かに成長していく様子を描きたい。
低反発枕やもみ殻枕といった派閥同士の激しい睡眠バトルも描かれます。
眠りという人類普遍の宿命を通して、命とは何なのか、
また親子の絆や、ペットとの絆。そして食生活の大切さと、
楽器を奏でることの純粋な面白さ、更に歴史を超えた過去と未来の繋がり、
輪廻転生と、過酷な雪山で生きる動物たちの生き様などに
焦点を当てていきたい。 質問は随時受け付けます。最近は弟子も取るよ。そういう余程の物好きが居ればね。 病気は治せますか?
死や存在の不安を解消するにはどうしたらいいですか? >>14
治すこと。ある部分を消すことを意味しているのなら、
治りません。しかし治すということが、ある物事への
適応と順応を意味しているのであれば、治ります。
存在の不安は解消できます。その為にはもちろんあなたが
今どういうレベルにあるのかを知る必要があります。 私は以前合法ドラッグを一度だけやってしまったのですが、そこで死にかけた体験をして本当に心身ともに壊れてしまいました
心の中も真っ暗な感じで不安や絶望感しかなくなりました
それまでは社会不適合ながらも生きる希望は抱いて何とか生きていたのですが
色々相談して試してきたけど良くならずどんどこ体もおかしくなってきました
本当になんとかしたいです >>16
なるほど。あなたとしては、合法ドラッグがきっかけで
暗い気分に囚われてしまっているように感じているんですね。
では身体の不調について話してもらえますか? 精神がおかしくなってから体もおかしくなってきました。
息がしづらく、目も見えにくく、味も分かりにくく、体の触感も鈍いです
疲弊して体力もどんどん落ちてきました
薬は飲んでいますが根本的な解決にはなってません 成熟した精神存在としての年長者には、大きく分けて三つの段階がある。
1つめは希望と闘争。世界をより良くする為に努力する段階。
2つめは諦観と放擲。世界は思いのままにならないという現実を受け入れる段階。
3つめは純化と創造。世界の制約を乗り越え、新たな価値を付加していく段階。
それはちょうど、ある新品の道具が使い込まれて段々と人間味を帯びてくる様子に似ている。 >>19薬はメイラックス0.5のみです
他の薬も増やそうと医者に言われてますがなるだけ増やしたくありません
諦められません。人生良いことが殆んどなかった。このまま何も分からず苦しんで死んでゆくのは御免です >>21
薬を増やさないようにしたのは懸命でしたね。
大丈夫、私が色々と教えていきましょう。
では、次のページを見てください。
この中でどれか気になる項目や、単語はありますか?
http://herbarium.main.jp 難しくてよくわかりません
ただ、私、意識、存在という単語は気になります
私という自我に固執して存在の救われなさに絶望しているからだとおもう >>23
なるほど。
意識と自意識の違いがわかりますか?意識とは、
実感、感覚、センスです。
対して自意識とは、"私"という、言葉、境界線、幻想です。
あらゆる物質は、その実体化の過程で意識を持ちます。
石も水も。しかし"私"という自意識は、言葉を使う生き物である
人間に特有のものです。
この考え方について、何か違和感を感じますか? >>24
意識は身体感覚的なもので、自意識は思考や言葉だとは思ってます しかし、ドラッグをやってしまってから存在に救いはなく真っ暗な感じしかしなくなりました
深い意識レベルの問題だと思います
思考や自意識ではどうにもなりません
今も薬で何とか保ってる状態です
それまでは辛くとも希望もあったし自分の帰る場所がどこかにあるという安心感もありました
それが全くなくなってしまったんです
脳が壊れてしまったのかもと思っています >>26
存在に救いがない、ですか。変わったことを言われますね。
その薬の影響で、どんな体験をしましたか? 「バウンダリー」の問題は解けただろうか?
精神世界というのは、結局のところある生命の、個体維持のために作られている。
私たちの心は自己中心的なものだ。色も、音も、匂いも味も感覚も。
それらは全て、生命が自らを維持存続するための方便であり、一種の虚妄だ。 >>27
何とも言葉で形容しにくいのですが地獄でした
意識がついたり消えたりして視界がぐちゃぐちゃに歪みました。
真っ暗なものにのまれて自分が壊れてなくなっていく感じがして本当に気が狂いそうでした
それから死ぬことが怖くて怖くて仕方なくなりました >>29
バッドトリップなんて、クスリをやってる人の多くが経験してるから気にしなくて良いよ
クスリが切れれば関係ない
とは言っても、精神的な問題が身体に現れてるようなので、マインドフルネスとか、ポジティブ言葉のアファメーションを続けてみると良いよ そう、普通はそうなんです。しかも自分がやったのはたった一回のみ
一回でこうなるなんて普通はありえないそうです
でもそこから完全におかしくなってしまい、まともに日常生活も送れなくなりました
医者曰くドラッグがトリガーになって発症したという風にいってましたが
以前は内向的で自然などが好きで一人でそういう世界に浸ってるのが好きでした
それが今は真っ暗で何もイメージできません
体もいかれてきたし本当になぜ?という感じです >>31
どうしてその薬を使ったのでしょう。
退屈だった?
何者かになりたかった?
それとも誰かに誘われた? まぁ元々陰気な方で人生上手くはいってなかったです。
そこで悪友と仲良くなり、閉塞感を打破したい気持ちもあり、軽い気持ちでやってしまいました
一回くらいなら流石に大丈夫だろうと…本当にバカでした
こんなことになるなんて…
それから数年地獄です >>33
なるほど。では良ければ自分の犯した罪と、その責任、
あなたが破壊してしまったものは何なのか、それについて話してみてください。 >>34
犯した罪ですか
違法ではなくとも人道に反するおこないをし、大切な心身をきずつけてしまったことてすかね
破壊したものは心や感性、希望、脳でしょうか ちょっと頑張ろうとしたら地獄の感覚が帰ってきた
もうやめてくれ >>38
ありがとう。ではその罪については、
私が霊的な意味での証人になりましょう。
あなたは与えられた大事なものを軽視し、
傷付け、自分自身の愚かさによって
それを破壊してしまった。
これはみなあなた自身が招いた苦しみです。
しかし告白によって、その罪は
許されるでしょう。 その上で私は、こう提案します。
あなたは自分の手でそれを破壊したのだから、
今また自分の手で、それを作りあげても良いのです。
心の中に柱を建てなさい。
古代の神殿にあったボアズとヤキンの柱のように、
堅固な揺るぎない柱を、かつてあなたが壊した
元の柱の代わりとして。
あなたは今無罪となったが、新しい魂の土地は
無一物でまだ豊かではないのだから、
あなたはそこに少しずつ石を積み上げ、
自らの家を建てねばならないのです。 先程も運動してたらまた発作が起こりかけました
身体もおかしくなってきててどうしたらいいのかわかりません
真っ暗で何もイメージできません本当に 物理的に脳が壊れてしまったんでしょうかね…
本当にどんどん希望がみえなくなってゆく 世界は平らになり、皆誰もが平凡になった。
優秀な才能はただ鑑賞の対象となり
世間の手綱は凡人の手に渡る。
賢い者たちは秘匿され、隔離され
そして才能というものは
祝福であると同時に呪いになる。 優秀な人間は、この世界にそれほど多くは必要ない。
大衆は愚かなもの。平均は理想とはほど遠い。
並外れて優れた者が、取り沙汰されることのない、
その代わり並外れて愚かな者が、取り沙汰されることもない
そんな普通の人間のための、平凡な普通の世界。
そういう世界では、我々年長者は隠者のように生きるのが都合良い。 魔術、宗教、霊的知識の研究所のようなものを創りたいと思ってる。
もちろん個人的な研究所だ。自分のための。 実のところ、知識を蓄えれば蓄えるほど
自我が膨らんでゆくために、あなたは前よりもっと光明から離れてゆく。
年長者だ、エルダースピリットだ、と言えば言うほど、あなたの自我は膨らんでゆく。 「私はこれをやっているし、あれも読んでいる。
私はずいぶんたくさんのことをやってきた――
瞑想をくり返し、数しれぬほど礼拝をしてきた」
だが、この探求もまた
「私は求道者だ」「私は凡人ではない」「私は賢者だ」「私は悟った」
「私は高潔だ」と言って、あなたのエゴを膨らませる。 もしこの "おまえよりも私のほうが高潔だ" といった態度が生まれてきたら、
あなたは道に迷ってしまう。
それは人生で犯しうる最大の罪であり、最大のあやまちだ。
自分は聖者だが他人は愚かであり、
「見ろ、私の徳の高い人生を」といった思いが浮かんできたら、
エルダースピリットになってしまったら、あなたは道に迷ってしまう。 罪人のほうが聖人よりも神に近い。
なぜなら、罪人はその境遇から脱け出したいと思っているが、
聖人は得意になって自分の幻想にひたっているからだ。 鉄の鎖を捨てるほうがやさしい。
ダイヤモンドを散りばめた金の鎖を身にまとうことができたら、
それを捨てることはいっそうむずかしくなる。 私的な世界に住み、自分だけの現実をもち、 本当に実在するものから完全にかけ離れ、
自分の妄想がリアルになるあまり、 その視野から社会がすっかり消え失せてしまった者。
これが「愚か者」という言葉の意味だ。 ウロボロスの蛇は自分の尾を食べる。
高潔な人よ、汚れなき人よ。
この愚者の前から去るがいい。
私はエルダースピリットだ。私は罪人だ。
それが神との正しい距離なのだ。
誰も罪からは逃れられない。 私は、罪穢れの無い特別な人間じゃない。
ただ少し知識があるだけの男だから、
霊的知識を教える資格があるんだ。 世の中を見回してみれば…
もはやスターは望まれていないと解る。
世界は普通になっていっている。
しかし普通が普通であるためには、
良いものと悪いものとが
存在しなくてはならない。
そしてそのどちらもが、日向ではなく
日陰の中に存在しなけらばならない。
隅の方に、縮こまって。
少なくなり、しかし研ぎ澄まされて。
私は、優れた人々が精神の落ち着き所を
得られるならば、それで良い。 >>31
ドラッグによって、自身の霊体が傷つくと聞いた事があります。
霊体が弱る事で、低級霊などに憑依されやすくなるそうです。
症状をお伺いするに、何らかの憑依やサイキックアタックを受けているように思えます。
ただ、怖がらないで頂きたいのは、憑依というのは、自身にも憑依霊と同調する思いや考えがある場合に起きます。
言い方を変えれば、自分の中にある思いを増幅して体験させられているようなものです。
自分自身の負の思いと向き合い、それを昇華させることで憑依霊は成仏します。
貴方の中に、見ないように蓋をしている負の思いはないでしょうか?
物事に対する考え方を変えたり、負の感情を表現する方法(歌や絵など)を見つけると、昇華させる事ができると思います。
ひとまず、自分の感じている思いを紙に書き出すだけでも軽減されるかと思います。
精神的にも肉体的にも辛く困難な状況かと思いますが、学びを経て乗り越えられると良いですね。 暇ですが何か質問などございませんか。
成長したい方はどうぞ。 タナトフォビアの方はどうなったかね。
死恐怖症というのは、「自己」の形成の
問題なんだよ。
死そのものは未知だから、恐れることは
できない。
そうではなくて、自己が不在になったり
不安定になったりすることを、私たちは
恐れる。 自己は、脊髄に宿っている。
自己とはスシュムナーに沿って形成される
エネルギーのひとまとまりだ。
例えば下部チャクラが貧弱な状態で
無理矢理サハスララが開かれると、
プラーナはそこから流れ出してしまう。
すると何のやる気も起きないし、意味を
感じられないし、全てが無駄に思えてきて、
ただ低次の欲求に従い続けるしかない状態になる。
ちょうどクンダリーニ症候群と逆の状態。 対処法は、下部の全てのチャクラを
ゆっくり、しっかりと、開いていくこと。
近道しすぎたね。先ずは生活習慣から。
その上で丹田での呼吸を覚える。
自然との触れ合いを増やし、世を広く見て
心を動かし、人と話して、更に教学を学ぶ。
全てを満遍なくやることだ。それが処方箋だよ。 そうそう、タナトフォビアには他にも
沢山の類型があるから、注意するように。
チャクラの一部が欠落しても自己は
破壊されることがあるし、どの部分の
どのバランスがおかしいのかについては、
結構色々なパターンがある。
ただ共通しているのは、スシュムナーが
全体の繋がりを維持できないくらい、
どこかで乱れを起こしてるということ。
それで自己が消えてしまうと、拠り所がなくなって、
原初の赤子的不安が帰ってくる。 最近ふと気付いたよ。
ヤハウェや、天之御中主と言われている存在以前。
より以前の霊格が存在することに気付いた。
万物の変化の霊。”在る”という感覚の基礎となる、”変化”の実体。
永遠の変化の輝き。流れ移ろう太陽。
それをウツルヒと呼ぶことにした。 宇津流霊。
変化は、世界の存在と不在さえ支配している。
仏教で言う無常ということなのだろうけど、無常はコンセプトであって、
霊格ではない。仏教のダルマは霊格ではないし、対象ではないんだよな。
無常は暗く冷たい澄み切った真実だ。
しかしウツルヒは、違う。ウツルヒの変化の輝きは、存在を生み出す。
それは創造の太陽。シナトベの吐息の中に潜む、生命の繁栄の予兆。
それを見出した私は、もう死によって無に還ることすらない。
ウツルヒの中へ。永遠の変化の実体の中に還り、創造と繁栄を繰り返す。
望み得るあらゆる形で。描き得る無限の形姿で。 それで今、ウツルヒへの信仰の楔となる依り代を召喚している最中だ。
紫の鏡、アメジストタブレット。まだ少しエネルギーが足りないけど、
少しずつ具現化しつつある。
http://herbarium.main.jp ウツルヒは、呼び掛けている。
もしも私が運良くその導きの声に気付き
従えたなら、そこから始まる変化は
私の存在を確かなものにする。
空白な魂が、形ある何かに変わる。
世界の彩度は高まり、空虚は消え去る。 そう言えば、ダリルアンカはワクワクする
ようなことを大切にしろと言っていた。
彼も彼なりの言葉で、同じことを
言っていたのかもしれないな。 この年代の私たちは、精神的な道徳秩序を発達させすぎた。
創造への意志によって聖者的な虚無からも抜け出した私たちの精神は、
既にあらゆる面で進化し欠点を克服している。
それ自体は素晴らしいことだし、そうした精神から生まれていく文化は
この国の未来への遺産となることだろう。
しかし現実社会においては、世代間ギャップが生じているので、やり過ぎると
上の年代の人々をやり玉に上げ、居場所を奪うことになってしまう。
当然彼らは反発するだろう。長期的に見れば真実は明確に支持されるが、
その争いの過程で多くの憎しみが生まれる。
だから秘匿する必要があると思う。大衆は愚かなもの。それで良い。真実は
一握りの、それを好む強い者たちの手に握られていれば十分ではないだろうか。
世代間の争いなど、子供達に見せるものではない。
夏のキリギリスが穏やかにこの世の生を終えるまで、私たちは冬の大地の、
蟻で居る方が良い。 急激にではなく、
ゆっくりと水質を変え、
水槽の中身を生かしたまま
環境を変えていかなければならない。 聖者のように扱われると簡単なことさえ伝えられなくなるよ。
そんなもんである程度の、というより全く垣根の無いフラットな、
まやかしの無い対等な言葉で教えて差し上げたいものですね。 意識は素粒子に遍在する。
あらゆる物質が意識を持つ。なぜなら
意識の正体とは、
量子が存在を確定する際に放たれる
反物質エネルギーだから。
物質と意識は必ずセットで生じる。
石にも水にも、心がある。
虫にも、AIにもね。 意識と自意識の違い。
意識は実感、感覚、センス。
自意識は”私”という言葉、その周囲の概念。
動植物や無機物にも「意識」はある。
けれど彼らには「自意識」はない。
人間以外の動物は、言葉を使わないからね。 変化について。
変化と存在はどちらが先か?
私たちの一般的な感覚では、何かが存在していて、
その上で変化が起きる。
しかし実際は違う。
ただ変化だけがある。存在とは変化の部分的な滞留だ。
想像してみると良い。もしも仮に、永遠に一切の
変化が起きない世界があったとしよう。
その世界は存在しているとは言えまい。 罪について。
罪とは、人格の統合の壁。
アグレッションを内向させ昇華することは、
つまり人格を成長させ環境に適応すること。
罪悪感の無い人間は成長が遅い。
だが罪の外圧は、相応しい内圧によって
反対から支えられなければならない。
自己愛の無い人間は、その心の脆さのために
罪の意識すら受け入れることができない。 さて現代の先進諸国の人々にとって
自己愛の欠如は深刻な問題だ。
力強くありたいと思う人々は、それを
優先するあまり、幼児退行を選ぶ。
内圧が足りないから、外圧を下げる。
だがそれは退化だ。やがてまた成長し、
すぐに自分たちの醜さに嫌気が差す。
自己愛の欠如。
「人類は生き、繁栄するべきか?」
「私が生きなければならない理由は?」
そんなものは無い。人類は自らを愛せない。
人類は自らを肯定しない。
だから幼児になることでしか、意志を維持できない。 しかし次の時代には、人類は答えを得ている。
それは私たちが愛を保存していて、
それに相応しい罪の意識を持っているからだ。
世代交代が進み、対立の気配が消えたら、
その文化的資質は公になる。
が、今はまだ喧嘩の種といったところだ。 もしも私たちが自らを愛せるなら、
その時罪は、成長の為の苦い糧となり
私たちをより高い所へと運ぶ。 アスタロスとイシュタルとイナンナを検索しろ。
王路(引き寄せの法則) おまえらの力が必要だ!
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/occult/1511490955/
661本当にあった怖い名無し2017/12/09(土) 02:07:05.26ID:2hmL36G30
もう一度、整理しよう。
地縛霊がいる意味というものを。さぁ、君は思い出せるかな。
私の書き込みを見ていなかった人は、まだ知らないかもしれない。
地縛霊がいることで誰が得をすると思う?
まず、地上の教師の仕事が忙しくなる。そして警官も仕事が忙しくなる。
また、霊界の教師の仕事もなくならない。
以上です。 愛とは何か。
愛とは、この世界を存在させている力。
存在を肯定する力。
そこに同調して楽をすることもできるし、
逆らって、苦しむこともできる。
憎しみとは、愛への逆らい。
「こうあってはならない」という気持ち。
存在の否定。 愛することは「それは良い」と思うことではない。
愛することは「それは在る」と思うことだ。
目の前の現実を「在る」と認めた先に、
私たちは「なぜ?」という疑問を抱く。
愛は否定ではなく、疑問の眼差しだ。
なぜ?どうして?もっと知りたい。
愛は観察。愛は好奇心。
そして私たちは、この世界の真実を知り、
この世界に適応していく。 "私"とは何か。
"私"とは幻想だ。実在しない概念だ。
ちょうど"日本"という国が、人間の
勝手な線引きと思い込みで、地球から
削り出されているように。
"私"は実在ではない。それは生命の
自己中心性によって寄せ集められた、
意識のあるひとまとまりだ。 "私"というものが確かに存在する、
存在しているはずだと私たちは感じる。
では、"私"とは何だ。
その境界線は?絶対条件は?
突き詰めれば気付くはずだ。
"私"は水面の渦のようなものだ。
渦は出来上がり、やがて消える。
そして意識という大海だけが残る。 "私"は幻想だ。
だから、自由意志もまた、存在しない。
主体が無ければ選択は無い。
全ては完全に制御されている。
真実としては、私たちは何も選択して
いないし、何も計画していない。
生命がただ生命を生きているだけだ。
世界は完全な原理の中に存在している。
私たちは世の何事かを不満に感じるかも
しれないが、その不満を感じることさえも、
完全にこの世界の秩序立った運行の中で
計画され管理されている。 鳥や虫や獣。単純で明確な生命。
人間という動物は言葉という道具の中に
多少溺れてはいるが、結局はこれもまた
単純で、明快な、生物。 弟子を取るなんて言ってはみても。
所詮人好きのしない俺の話だ。
こういうのは本当向いてない。
やれやれシラケるばかりだ。
最近は本当に退屈だね。
それとも。やっぱり、ただ単に。
歳を取ってしまっただけなのかな? 現実と、現実認識。
私たちは、各々がこの世界の現実についての認識を持つ。
世界はこうである、人間はこうである、などなど。
しかしそれは、現実そのものではない。
人間は現実認識を持つが、それは常に現実の劣化コピーだ。 肉体を持って生まれた後、この世界での経験を通して、
私たちの脳内には少しずつ現実認識が蓄積されていく。
大脳の言語的機能と、感覚器官による刺激の記憶。
それらが少しずつ蓄積されて、私たちの脳内では
幼少期から少しずつ現実についての認識の世界が広がっていく。
がある時を境に、人間は、自分の頭の中の世界の姿を
本当の世界の姿と混同し始めるようになる。
すると現実を受け入れられず、人格構造はその精神の歪みを
守る為に徐々に矛盾し破綻していく。
そして遂には、人は自分の頭の中の空想世界が
現実とあまりに解離する為に、現実を攻撃し始め
狂気に陥ってしまう。 コインの上に紙を置いて、鉛筆でこする。
すると紙の上にはコインの模様が正確に浮き上がってくる。
この模様の浮き上がったものが私たちの現実認識、
真の現実はコインそのもの、そしてその二つを摺り合わせ、
私たちに現実の姿を学ばせる鉛筆とは、つまり経験だ。
より広く深い経験を求めるものが、より正確で精密な世界の姿を知る。
しかし結局の所、紙の上の模様はコインそのものにはならない。
私たち人間は、現実の劣化コピーとしての現実認識しか持てない。
そして広く大きな経験を得るための人生の時間は、余りにも短い。
過信しないことだ。
そして謙虚に、更なる経験を求め続けなければならない。 個人主義は弱者を切り捨て、
権威主義は無能の集まりを濃縮する。
人間らしい道…
人間存在の、身の丈にあった道とは… ワンネスの補足。
なぜ私たちの意識は、他の時代の他の
誰かではなく、この時代の、この私に
固定されているのか。
私たちが「世界」だと思っているもの。
つまり色や、音や、感触、匂いそして
味などの感覚内容。
それらは全て肉体に宿る、生命の
自己保存機能の反映だ。
私たちの意識は、ある一匹の生物の
本能によって、閉鎖され、自己中心化され
一単位の精神として切り分けられている。 切り分けられた精神の世界。
渦状に吸い込まれ閉鎖された、
意識の1つのまとまり。
私はこれをバウンダリーと名付けた。
バウンダリーは、ある一匹の生物が
見ている夢だ。
意識は実際には、身体を構成する物質の
移り変わりと共に新たに加わり或いは
身体から抜け出て、ワンネスの中で旅を
している。
が、バウンダリーは自己閉鎖性の
精神世界なので、それを意識させない。
色、音、感触、匂い、味。
私たちはこうした感覚を自己だと思い込み、
そこに同一化し、そこを基準に精神を
考えるので、精神はこの人間個体に
囚われているのだと感じてしまう。 素粒子ひとつ分の意識の純粋形態は、
非常に小さくて低い響きだ。
それが集積され、有機物の作用で
活動的になると、意識同士が干渉しあい
高くはっきりとした和音を生じさせる。
これが私たちの感覚器官における感触だ。
加えて、脊髄を中心とした生体管理が
行われ、身体の諸感覚は統合的に
ひとつに方向付けられ、個人的な
精神世界が出来上がる。
これがつまりバウンダリーだ。
人間の場合、ここへ更に"私"という言語的な
自己中心性の促進作用が付け加えられる
ことになる。 バウンダリーは生物の感覚器官によって
成り立っているから、その生物以外の
意識内容を受け取ることはできない。
つまりバウンダリーは、ある生物の為に
特別に用意された意識の場であり、
それひとつひとつが、個別的な新しい
宇宙なのだと言える。
その個別宇宙の中で、私たちは常に
宇宙の中心存在として成り立っている。
誕生から死に至るまで、私たちは
生物一人分の宇宙に隠されているのだ。
そしてもし個別的な宇宙を定義するならば、
個別的ではない宇宙の存在を同時に
定義することになる。
物理的宇宙。無機物の次元。
バウンダリーの源。
私たちはそこから生じて、バウンダリーを
通して間接的にその世界を予感はするが、
根本的にそれを感じ取ることはできない。
物理宇宙は「在る」という次元だ。
それは創造であり、感覚ではない。
だからこの次元は感覚器官では捉えられない。 存在の次元の大なる宇宙と、
感覚の次元の小なる宇宙。
物理宇宙と個別宇宙。
どちらがより重要か…
そこに優先順位はない。
物理宇宙はより静的で不変なもの。
個別宇宙はより柔軟で、拡張性がある。
個別宇宙の中では様々な幻想や欲求、
意志や信念といった新たな歪みが生み出され、
それが世界の創造をより豊かに推し進める。
個別宇宙は物理宇宙の照り返しを受け、
そこに制限を受けてはいるが、完全に
支配されているわけではなく遊びがある。
生まれて間もなくは特にそうだ。
個別宇宙は幻想を生み出し、幻想の中に
漂う。が、私たちが長く生きれば
生きるほど、物理宇宙からの返答は増え、
個別宇宙は段々と物理宇宙に似通ってくる。
それは良くも悪くもない。
ただ単に、歳を取るということだ。 このへんの話をもっと短くシンプルに
まとめたいんだけど、どうしても長くなるなぁ。 宗教的な知識やスピリチュアル的な知識は、個別的宇宙について
語っていることが多い。
救済、終末、次元上昇。キリストの再誕や弥勒菩薩、ハイヤーセルフに
ツインソウルなどなど。
こうしたことは全て個別的宇宙における話題だ。
物理的宇宙しか知らない人には馬鹿げて見える。
一方で彼らは自然科学の信奉者だが、自然科学は、再現と検証を
基礎にしている。
そこで霊的なものは彼らにこう問いかける。
「この宇宙は一回切りのものだろうか。それとも何度も再現するか?」
「あなたの精神の誕生や消滅はどうだろう。それは何度も再現し、
それ故に検証可能なものだろうか」 季節外れの雨はユガの移ろいを乱す。
春先、草花を芽吹かせる恵みの雨も
冬に降れば、大地を凍てつかせ生命の種子を枯らす。
何事にも、ふさわしい時がある。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています